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2017年10月17日00:02

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19世紀生まれの隠れた名女優

 今日(17日)は、ジーン・アーサーの誕生日でした。
 ジーン・アーサーと言っても、誰のことかと思う人は少なくないでしょうが、この人は、主として1930年代、とくにフランク・キャプラ監督の映画作品で輝いた女優さんです。
 キャプラ監督は、アメリカの良心と民主主義の光と影を描いた名監督です。
 もっとも、同監督の作品の筋立て自体には、醜悪の限りを尽くす政治や社会の現実を見慣れてしまった今日の目には、甘いと感じられてもしょうがないところがあるにはあります。でも、演出の妙や出演した俳優らの力演、熱演のおかげで、そうした不満な点があまり感じられない、今日でも見応えのある作品に仕上がっているのですが、そこにはジーン・アーサーの名演技も大いに貢献していたものでした。
 とくに、相手の話に聞きいる演技には素晴らしいものがありました。
 主人公らの夢とか志とかに耳を傾けるシーンが多いのですが、こういう聞き方をされると、主人公らでなくても、誰もが彼女に夢とか志とかを語りたくもなるだろうな、と感じさせるものがありました。目の演技がいいんです。どこか遠くを見つめるような、でもそれはけっして相手の話を聞いていないのではなくて、逆に、相手の話を一心に聴いたからこそ思い浮かべられるところにうっとりとなっている様子が手に取るように分かる演技でした。
 その結果、相手の語った話が、本来のものよりさらに美しいこと、素晴らしいことのように観る者には感じられましたし、彼女の演じた女性が、話者と接していくうちに変わってくるのも頷けることにつながったと思います。
 ジーン・アーサーは、キャプラ監督の3作品(『オペラハット』(1936)、『我が家の楽園』(1938)、『スミス都へ行く』(1939))で、ヒロインを演じてますが、いずれもこの人の好演が光る名作でした(『我が家の楽園』は、アカデミー作品賞を受賞し、キャプラ監督は『オペラハット』と『我が家の楽園』で、同監督賞を受賞しています)。
『オペラハット』予告編https://www.youtube.com/watch?v=GaYi4RxEOHc

『我が家の楽園』の1コマhttps://www.youtube.com/watch?v=0WY9RAroTS0

『スミス都へ行く』予告編https://www.youtube.com/watch?v=sm9qaEJ3MBc

 にもかかわらず、彼女自身は主演女優賞のような賞には恵まれず、このことが彼女の知名度が今日に至っても今一つである原因の一つになっていると思います。

 でも、ちゃんと見ている人は見ているもので、西部劇映画の名作『シェーン』(1953)において、ジョージ・スティーブンス監督が、この映画のヒロイン(開拓農民スターレット家の主婦マリアン役)に抜擢したのは、それまでのアカデミー主演女優賞受賞者の誰かではなく、ジーン・アーサーでした。
『シェーン』予告編(ラストシーンを見せる予告編は極めて珍しい)https://www.youtube.com/watch?v=9vWNrFP4-AY

 ストーリーだけを見れば、この上なく単純ともいえるこの作品が、今日、西部劇映画の最高傑作とさえ云われることがあるのは、もちろん監督の手腕によるところが大きいのですが、監督が原作を深く読み込んで、出演者に要求した演技に見事に応えた俳優陣の頑張りにもすごいものがあったからです。
 シェーン本人を演じたアラン・ラッドはもちろんのこと、シェーンを迎え入れたスターレット家の主人ジョー役のヴァン・ヘフリン、敵役のエミール・メイヤーやジャック・バランスといった、今日ではほとんどこの一作によってしか名前を知られていないような名優たちが渋い名演を見せてくれましたが、中でもジーン・アーサーのそれは際立っていました。
 シェーンに惹かれつつも、家庭の主婦として慎ましく踏みとどまり、でも内面の葛藤には絶えず悩まされることになる、そんな微妙な立場の女性を繊細に演じ分けてくれました。
 例えば、マリアンが、シェーンを英雄視し始めた子(ジョーイ)に「そんなにシェーンを好きにならないで」と言うシーンが出てきますが、あれはジョーイに対してだけ言っているのではなく、自分自身に対しても言っているのだということが、よく観ていると分かります。監督が原作をそこまで読み取って、彼女に要求した演技なのかもしれませんが、それにあそこまで応えられる女優さんも珍しいでしょう。
 男くさいイメージの強い西部劇の世界に、こうしたメロドラマめいたものを持ち込むことには、反発を感じる向きもあるかもしれません。でも、こうした関係がなかったとしたら、ジョーイ少年から“Shane, come back!”と叫ばれてもシェーンが去っていく強い必然性を、観る者は自然には感じにくくなったような気がします。何しろ、シェーンは開拓農民にとっての厄介者をやっつけてくれたわけですから、そこにそこを去っていくべき理由は見出しがたいはずです(それでも去っていくとすれば、それはほとんどシェーンの独りよがりの美学になってしまいます)。
 実は、私は中学生のときにこの映画の原作(和訳)を2回読んでいます。ただ、原作の方では、(私の読み方が良くなかったのかもしれませんが)シェーンとマリアンとの関係について、それほど深くは書かれてはいなかったと思います。にもかかわらず、この点を掘り下げたジョージ・スティーブンス監督(あるいは脚本を担当したアルフレッド・B・ガスリーjr.)の慧眼には畏れ入ります。
 そんなスティーブンス監督の巧みな演出と、それに応え続けたアラン・ラッドとジーン・アーサーの好演が積み重ねられた結果、映画終盤、シェーンが命懸けの戦いに赴く頃には、「今ここで別れてしまったら、二度と会えないかもしれない、いや、会ってはいけないのだ」という強い覚悟がシェーン、マリアンのどちらにも、共有されていることが観る者に分かるように、この映画は仕上がっています。
 そこを理解してふたりの別れのシーンをあらためて見直すと、ジーン・アーサーが流石の演技を見せてくれていることに気付きます。
 とくに気を失っていたが覚醒しかけた夫を介抱しつつ、去り行くシェーンを見送るその眼差しには、シェーンに対する感謝とその無事を祈る気持ちが滲み出ているだけでなく、覚悟を決めた人だけがしばしば見せてくれる凛とした美しささえ感じられます。それは、19世紀生まれのこの人を支えた気骨のなせるワザだったかもしれません。

 残念ながら、『シェーン』は、ジーン・アーサーが出演した最後の映画作品になりました。
 まだまだ活躍し続けてほしかった女優さんでした。
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