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2017年09月04日22:00

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明智光秀生存説in岐阜県山県市

明智光秀と言えば本能寺の変という戦国最大の下剋上(?)をお越し、その直後に山崎合戦で羽柴秀吉と一戦に及ぶも敗れ、敗走中に落ち武者狩りによって落命したというのが定説。

一般的な生存説としては落ち武者狩りによって討たれたのは影武者でその後、細々と生きながらえて徳川家康による天下安寧の時代が訪れる前後に南光坊天海の名で家康を影で支えていたなんて説が言われている。

しかし、ここ岐阜県山県市には天海説とは別に光秀の生存説がまことしやかに伝承されているのである。

その内容は山崎合戦で戦死したのは荒木行信という影武者で、落ち延びた光秀はこの忠義に深く感銘を得て後世に伝えるため「荒深」性を名乗り、荒深小五郎の名前で子息と共にこの地に隠遁していた。やがて諸国遍歴の旅に出るのだが慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦の折に家康に加勢しようと舞い戻り出陣したものの、根尾村の藪川で洪水に巻き込まれ溺死。

行信の子、吉兵衛が遺体を改修してこの地に埋葬し今なおその墓が残る。

との事で。以来この地には荒深性が多く、また明智一族の墓も今に伝わっている。地元では年に二回、供養祭を行っている。

真相の程はどうなんでしょうね。ロマンです。


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