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2017年05月07日21:54

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大人のプロレス2

前項からの続き

その「技の説得力」、に目覚めたのはいつだったか。

 僕自身が意識し始めたのは、昔の記憶なので正確には記憶していないが1986年以降の事だと思う。つまり、それまでは「そういうものである」というだけで、プロレスはスポーツ的な存在であると盲信していたのである。「それ=技をかけあう」スポーツを認めていた事になる。

 幼いころの記憶では、それまで「新日本プロレス」に居た筈の、スーパースターのタイガーマスクが急に居なくなり、暫くすると全日本プロレスのマットに現れた、という事実から「全日本プロレス」を見始めた、そういう時系列にあったと記憶している。それまで辛うじて成り立っていた「そういうもの」が瓦解するような不可解な技の応酬が、タイガーマスク以降のプロレス界にあったのである。
※正確には初代タイガーマスクが新日本マットに上がっていたのは1981〜1983年で、二代目のタイガーマスクが全日本マットに登場したのは1984年〜1990年。

 敢えて名前を出すのは恐縮だが、86年の全日マットは、明らかに全盛期を過ぎたジャイアント馬場が一線から引き始めた時期であった。その衰えの隠せない馬場に各選手が自ら突っ込んで成立する「16文キック」を目の当たりにする一方で、体が砕け散るのではないかと心配するようなスタン・ハンセン、テリー・ゴディ、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、長州力らの激しい技の激突もあったのである。その落差などから「そういうこと」の理解の本質が少し変わったのである。

 後に試合中にマスクを脱いで三沢光晴となる二代目タイガーマスクも、当時はまだマスクマンで、初代と比べると少し大型になり動きが変わっている。よく見るとマスクも違う。些かルチャ・リブレの技を多用しているようにも思うが、初代と比べると明らかにパワフルである一方、スピードはあるが鈍重であり、スタミナ配分もハイスパート型の初代と比べると長時間呼吸を整えながら試合運びをするスタイルだった。
 どういう事か、それまで「絶対に負けなかった」タイガーマスクは、2代目になるとリングに大の字になり、吹っ飛ばされ、砕け散るような敗北を何度も見せるようになった。そこに「リアル」を感じ始めたのは僕にとっては大きな誤算であった。

※初代タイガーマスクは、新日本プロレスに所属していた佐山サトルが扮していた。81年に突如新日マットに表れると、退団まで反則・リングアウトを除く負けは一度もなく、ジュニアヘビー級のエースとして社会現象となるほどの大人気を博した。人気絶頂の83年に突如契約を解除して退団、同時にマスクも脱いだ。「2代目」は翌年から全日本プロレス所属の三沢光晴が扮する事になる。


 高齢となったジャイアント馬場も世界タッグ戦線では活躍するなど、全日本プロレスの1つの“看板”ではあったが、ジャンボ鶴田や天龍源一郎、さらには新日から渡ってきたジャパンプロレス勢を中心とした「次世代」の編成に腐心していた。その結果、新日本と全日本の両団体は、対抗軸となる外国人選手の激しい引き抜き合戦を行った。ザ・ファンクスやスタン・ハンセン(新日→全日)、アブドーラ・ザ・ブッチャー(全日→新日→全日)、ザ・デストロイヤーにアンドレ・ザ・ジャイアント、ブルーザー・ブロディに到るまで、そうそうたる銘柄級のヘビー級の外国人選手は、86年当時は全日マットで活躍しており、後年主戦場を新日マットに移すが、ザ・ロード・ウォリアーズも全日が最初に招聘するなど華やかなレスラー構成が魅力的であった。

ただ、馬場のネックブレーカードロップや、ブロディのキングコングニードロップ、ブッチャーの毒針エルボーや、ダイナマイトキッドのダイビングヘッドがフィニッシュ技か?と言われると、それを認めるわけにはいかない試合も多く見られていたのである。
ここでの言葉を借りると「説得力が足りなかった」そういう試合が多かったのである。

これは僕の個人的な感想だが、三沢が台頭したころから全日のプロレスは肉体がぶつかり合うのが主流の「説得力プロレス」に移行したのではないかと感じている。
それ以前の豪華外国人と馬場軍団との対決がメインストリームに置かれた試合構成は、どこか「演じている」感じが否めなかったのに対し、三沢が或いは新興勢力とスタンハンセンが主軸に置かれたころにはすっかり肉体が激突するのが中心軸に置かれたプロレスに変質していたのである。

続く
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