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2017年01月02日17:32

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作品を読む  『アナと雪の女王』 〜大衆は多様性を受容できるか〜

 今更だが、『アナと雪の女王』を観た。正直、「何故、この映画があんなにもヒットしたのだろう?」という疑問が拭いきれない。というのも、途中はまあ面白く見れるのだが、この作品は物語の結末におけるカタルシスが決定的に欠けていて、「なんか物足りない」という印象を拭いきれなかったからだ。

 「ありのーままのー♪」が、そんなにいい歌だったか? ちなみに映画評でおすぎさんが、「なんかこの歌ね、二丁目あたりで物凄く歌われてるワケ」と解説していたが、アメリカ本土でも物語自体が「男の女の愛情」を描かなかったことと、「ありのーままのー♪」という歌詞が同性愛の肯定である、というような受け止められ方をして、一部のキリスト教者からは批判の声もあったという。

 と同時に、プロデューサーの逸話によると、女王エルサのキャラ造形には、自身の息子が難病の一型糖尿病であり、その子が毎日インスリンをし、「何故、僕なの?」と言っていたというようなことが関わっているという。つまり、例えば難病や精神疾患、障碍などで隔離されたような生活や不自由な生活を送る人に、エルサの生活上の苦しみは共感媒体となったというわけである。

 確かに、「自身の氷の能力を恐れひきこもった女王」は、そういう事情で隔離状態にある人や、ちょっとしたきっかけで自らひきこもることになった人々の共感媒体足りえる設定だろう。ファンタジー、というジャンルの象徴性は、そういうところで存分に発揮される。それは詩の言葉が、受け取る人によって様々な解釈を許容するように、ファンタジーの挿話も同様の解釈の多様性を準備する。

 それはいい。少なくとも、そのような形で「人間の多様性」という主題を、物語という仕掛けによって象徴的に理解を浸透させることは、とても重要で意味のあることだ。これが大御所で保守色の強かったディズニーに作られた映画である、ということが、なお驚きだ。だが、である。

 どうも引っかかるのだ。この映画の主題を引き受けるキーキャラは、結局のところエルサだ。だが、この雪の女王は何をしたのか? 実は「何もしてない」のだ。これが、「ありのままでいい」とか悪いとかいう以前に、物語のカタルシスを生まない最大要因だと僕には思われる。

 というか、エルサは主題を引き受けるキーキャラであるにも関わらず、その葛藤、内面の描写、問題の克服のための努力、そういった主人公として必要な物語上の役目を引き受けてないのだ。彼女が一番輝いたのは、城から脱出してショールを棄て、「ありのーままのー♪」と歌う、あのシーンである。

 しかしあの場面は、単に「人々から逃げ出した自分を肯定する」場面であり、しかもそれは物語の中盤であって終盤ではないのだ。そこからもう一つ、「自身の特性を認めることで、自己を解放してやる」ステップがそこにある。いや、これは僕がそう思うのではなく、物語の流れ上、そのステップが用意されてる流れだった、ということなのだ。

 簡単に言うと、エルサが「自分の能力を自在にできる」ようになることが、一つの課題だったはずなのである。確かに、それはできるようになった。けど、それはどういう契機だったか? アナが完全に氷ついたしまったことに絶望して、雪が止むのである。つまり、何らかの能動的な努力、意識の改革によって『成長』したのではなく、単に驚いて雪が止まった、という描写なのだ。

 どうしてこうなのだろうか? というか、これではエルサがまったく主役たりえてない。いや、そうなのだ。エルサは主役になれなかったのだ。主役は「アナ」だった。正直に言うと、アナが頑張りすぎだし、アナが出すぎなのだ。

 アナの物語はある意味、「普通のヒロイン」の物語である。善意があってオッチョコチョイで、時に行動力があり頑張るフロイン。まあ、それはいい。けど、エルサだって、いや、エルサのほうこそ本当は、『自身の努力によって、自身を見つめ受け入れる』という成長が必要なのだ。はっきり言うとアナには大した問題はなく、克服すべき課題もない。アナは『主人公』に必要な資質に欠けているのである。

 これをアナが「普通だから」と捉えてはいけない。普通の人にだって、克服すべき課題、悩み、葛藤があって、努力して右往左往して結論に行き当たる。それが物語の主軸となる。が、アナには、アナ自身には何の課題も葛藤もなかった。これは構造上の問題であって、アナはヒロインとして十分な資質を用意されてなかった、と言ってもいい。

 つまり、アナはヒロインとしての資質に欠けていたにも関わらず長々と描写され、エルサはヒロインであったにも関わらず肝心なところを描写されずじまいだった。もっとも納得できなかった場面をあげよう。それはアナが凍りついて、それをエルサが抱きしめているうちに、氷が解けて元に戻るシーンだ。

 これは物語の結末、ハッピーエンドの場面であるはずである。なのに、どうしてアナの救い主たるエルサの苦悶、願い、そしてそこからの回復という奇跡の流れにおいて、エルサはずっと『背中を見せたまま』なのか? DVDを持ってる人はもう一度確認するがいい。肝心のところで、エルサはまったく表情が判らず、背中を向けたままだ。

 どうして、こんな不足が起きるのか? 結論を出そう。それはこの物語が、『アナの側から見た、エルサの側の人を受容しようという善意の物語』に、とどまるからだ。つまり、エルサは主役ではない。エルサはあくまで、「異なる人」側だ。主役は何の問題もないアナだった。

 しかし驚いたことに、注意深く見ればアナは事態解決になんら寄与してない。悪い王子も捕まえてないし、利権を狙う隣国の大臣の企みも見抜いてないし、雪の女王の説得もできてないし、捉えられて自ら脱出することもできなかった。はっきり言って、このヒロインは事態に右往左往してるだけで、なにもできてない。やったら協力者が出てきて、あれこれ力を貸してくれるだけだ。

 けどはっきり言えば、本当に協力者が欲しいのはエルサの側だ。本当に理解者が欲しいのはエルサの側だ。本当に心を凍りつかせようとしていたのはエルサの側だ。けど、この作品は、そんなエルサの側を『判ってるようで、判ってない』。いや、理解しようという善意はある、と認めるべきか。けど、エルサを主役にできるほどではなかった。それがディズニーである、ということだ。

 ヒットした理由、というのも判らないでもない。多くの人はほとんどがアナの側であり、少しエルサの部分を持っているか、知人にエルサがいたりするくらいだ。完全にエルサの側の人、というのはそれほど多くはない。いや、本当はエルサだってアナなのだ、というべきなのだが。

 けど、そういう「多様性を認めるべき」と考える善良な人々によって、この映画は評価され賞賛された。悪くはない。「認めない」ことよりは数段マシだ。けど、これはまだ始まりの一歩にすぎない、と考えるべきだろうと僕は思う。

 けど、知ってのとおり、アメリカでは移民を排斥しようというトランプの主張に、多くの人々が賛同した。いや、トランプが勝った要因は他にもあるが、不寛容さは今や全世界の時代の主流となりつつある。

 そう考えると、「ありのーままのー♪」はそういう流れのなかに生まれた反動であると同時に、またこの『アナ雪』がもてはやされるような時勢に、不寛容な人々が嫌気がさしたぶり返しが昨今の情勢とも見れるだろう。

 どうしてそうなってしまったのか? アナが自分では何も解決できず、またエルサも自身の努力では自身を自在にできなかった。この作品の物語構成上の欠陥が、今の情勢を暗示していたように、僕には思える。

 
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