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2016年11月26日18:56

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タイの奥地で考えたこと

タイの奥地にいくと、いやがおうでも過去そこで何があったかを見ることがある。

ボロボロに錆びた鉄帽、銃剣、中には日本刀まで。

つい10年前まで自分はインパール戦を撤退し生き残ったとある輜重兵のかたと手紙をやりとりして取材させていただいたことがあるが、撤退のそれは相当ひどかったらしい。

力尽きてタイを落後すると伍長よりも上のクラスが、ひとつの手榴弾を渡して自決を促していったそうだ。

手榴弾さえ尽きると拳銃で殺していったそうだ。

山々に響き渡る銃声はなんともいえなかったという。

今の人たちは

「捕虜になるとか誰かに救出してもらえばいいのに」

と考えるかもしれないが、当時の戦況はそうではなかった。

何しろ補給が切れれば現地調達をし、徴発と称して道すがらの村々の米や牛馬を略奪していったのだから、現地民の反感たるや生半可なものではなかった。

自分が聞いた元陸軍の老人も徴発後村を背にして河を渡ろうとしているとき村から銃撃を受けて戦友が何人か死んだとのことだった。

そんな扱いを受けている現地民達がイギリスの支援を受けてゲリラ兵となるのは半ば当然だっただろう。

彼らが日本兵を殺すときも容赦はなかった。

あまりにやりくちがむごいので随伴していたイギリス兵が

「戦争なんだから楽しむような殺し方はやめろ」

と注意するのもいたらしい。

グルカ兵などのやりかたは酸鼻を極めたらしい。

余談だが、ビルマやタイから徴発した水牛などは日本のそれと違ってなかなかいうことをきかなかったとその元輜重兵の老人はおっしゃっていた。

つかれるとすぐぺたんとしゃがみ込んでとある水牛などは鼻輪が引きちぎれたという話をきいた。

業を煮やしたとある輜重兵にいたっては山中でむずかる水牛を銃剣で刺し殺し、自分も自殺したという生臭い話も聞いた。

元日本兵の何人かに話を聞いてみて共通しているのは、いかにそんな最悪な状況下であっても、国や天皇を恨んだことはないということだった。

それどころか、

「アジアで、胸をはって歩ける日本人、アジアで、正々堂々とする日本人、そんな日本人をぼくらは目指していたんです」

という人までいて、目頭が熱くなったことがある。

唯一の救いは、当時のそんなビルマから逃れて、タイ北方にたどり着くと、そんな日本兵を哀れに思い、彼らを看護し、手厚くもてなした当時のタイ人達がいたことである。

こんなことが、たった70年前まで、このタイの山奥であったという事実。

「日本兵が過去ここまできた、そして勇敢に戦い、死んでいった」

そんなことを思い出すと、自分もそんな人たちにどうすれば近づけるのか、あれやこれやと考えてしまう。
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