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2016年10月11日17:07

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映画レビュー『ハドソン川の奇跡』クリント・イーストウッド

ご存知の通り実話である。2009年のアメリカ・ニューヨークで起こり、奇跡的な生還劇として世界に広く報道された航空機事故を、当事者であるチェズレイ・サレンバーガー機長の手記「機長、究極の決断 『ハドソン川』の奇跡」をもとに映画化された・・・と資料にある。

クリント・イーストウッドはこのところ実話のヒーローの映画化が続く。『インビクタス』は南アフリカのマンデラ大統領、『J・エドガー』はFBI初代長官のジョン・エドガー・フーバー、『ジャージー・ボーイズ』は1960年代のポップスグループ「ザ・フォー・シーズンズ」、そして『アメリカンスナイパー』は、米軍史上最強とうたわれた狙撃手クリス・カイルの自伝の映画化である。実話のヒーローたちである。イーストウッドなりに英雄、有名人の一面性を伝説的に取り上げるのではなく、苦悩も含めた人間性を掘り下げて描いている。ただ、実話なだけに限界もある。実話以上のことは描けない。だから、どこか物足りなくもある。そして、今作も見事に航空機事故をめぐる人間ドラマを描いているのだが、それ以上のものはない。実話でヒーローである以上、それ以外は描けない。

何が言いたいかというと、実話ヒーローものは、その人物の凄さに感銘はするのだけれど、やはり成功物語であり、そこは変えようがない。もちろんその実話の重みはあるし、現実に成し遂げたことの凄さ、そのタフさや人間性に感動はする。ただ、そこに限界も感じるのだ。その点、『J・エドガー』は単なるヒーロー物語じゃなく、その人物の毒や謎も描いていただけに面白かった。

さて、この『ハドソン川の奇跡』だが、まさに奇跡的に冷静な決断を瞬時に下した機長の実話だ。物語のなかで、その決断が本当に正しかったのか、事件後に国家運輸安全委員会から疑われ、空港に引き返せたのにも関わらず、機長は無謀にもハドソン川に水上着陸を強行し、無駄に乗客を危険な目に遭わせたのではないか?と疑問が提出され、検証が行われる。それがこの映画のドラマである。英雄は本当に英雄だったのか?ほかの選択肢を切り捨てただけではないのか。結果としては、全員無事だったけれど…、それは幸運だっただけではないのか。

つまり、選択肢の問題である。人生の選択肢において、何が正しかったのか?検証が行われる。シミュレーターで当時の飛行機の動きを再現する。別の人間がシミュレーターを操縦し、空港に引き返すことが本当に出来なかったのか?と。

ここで現実は再現可能なのか?という問題に突き当たる。いくら機械的に当日のデータを打ち込んだところで、現実そのものは再現できない。あくまでも近似値が再現されるだけだ。ここでは、心理的葛藤の時間がシミュレーターの操作では考慮されていないと機長から指摘される。あらかじめ空港へ引き返す前提での操作である、と。両翼のエンジンが停止し、空港へ戻ると判断し、高度や障害物など、さまざまな条件を考慮し、悩み、水上着陸するのだと判断を下すまでの心的葛藤の時間がないと。そして、協議の末、その時間を35秒は必要だと考え、航空操作のシミュレートはやり直される。それで機長の疑いは無事晴れるのだが、これが疑いが晴れなかったらどうなっていたのだろうか?と考えてしまう。映画的には、ハッピーエンドでスッキリするのだが、それがこの映画の限界なのである。

そもそも人生において、「正しい選択肢」というものはあるのだろうか?あるいは客観的真実というものはあるのだろうか?黒沢明の『羅生門』は、芥川龍之介の『藪の中』を原作とし、ある事件についての3人の証言が食い違うという話だ。誰の言っていることが真実か、誰にも分からないという物語だった。事実とは、それぞれの視点を通したそれぞれの事実があるだけだ。起きた事実関係は同じでも、それがどのような事実だったのかは人それぞれによって違う。印象も違えば、見え方も違う。偏見や思い込みもあり、証言が食い違う場合もある。この航空事故は、35秒の空白の時間を考慮することで、機長の判断は「正しかった」と証明されたわけだが、それが15秒なら証明されなかったかもしれない。何が「正しい」選択だったか、可能性は憶測できたとしても、確実な「正しさ」など誰にもわからないはずだ。

空白の35秒は、機長の身体的個人差である。別の機長だったら、空港に戻った方が正しい選択だったかもしれない。身体的偏りとともに、人は判断し、選択し、生きている。人が違えば、選択肢も違うのは当たり前だ。誰にとっても「正しい選択」などない。より可能性が広がる選択肢はあるし、ある程度、データから類推することはできる。ただ、それはあくまでも類推でしかないし、可能性でしかない。人生の選択において、「絶対」はない。選んだ以上、確信を持って前に進めるかどうかも影響する。副機長は「ゲームじゃないんだ!155人の命を背負っているんだ!」と叫ぶ。そこで強調されるのは、心的誇りや責任や葛藤であり、個々の身体性だ。

身体性と強靭な意志にこだわり続けてきたクリント・イーストウッドにおいて、実話の強烈なヒーロー物語に惹かれ、その人間性を描くのは、ある意味必然なのかもしれない。しかし、そこに事実の限定があり、どこか一面的な物語にしてしまっているような気がする。人間は闇を抱え、多面的で複雑であり、人生の選択もまた一つではないという混乱と闇こそ描いてくれないと、物足りない映画になってしまう。イーストウッドは『グランド・トリノ』でやりきった感があるのだろうか?年齢のわりに多作だし、元気で驚くのだが、最近の彼の映画は職人的で安心して観れるのが、ちょっと物足りない。
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