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2016年02月24日19:12

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タイの教育と日本

タイ・パトゥムタニの有名校で、国歌斉唱の時に上着を着るな、お前は山岳少数民族か!、と教師が生徒をぶっているビデオがタイ社会で問題になっている。

http://www.bangkokpost.com/vdo/thailand/875076/school-teacher-strikes-children-for-wearing-warm-clothes-in-pathum-thani-thailand

ビデオだけでみると理不尽な叱り方をしているように思う。

でもこういった叱り方は、どのような子どもを育てたいのか、またはいかに子どもを愛しているのか、教師自体の人格はどうか、そういった条件による。

日本も以前高度成長期にスパルタ教育が問題になった。

宿題を忘れる、遅刻をする、部活をサボる、そんな生徒には容赦なく体罰が加えられた。

(自分の幼いころがそうだった。実際自分も数限りなく体罰を受けた。)

しかし時代が移り変わって世にバブル時代がやってきた。

教師や学校の体質も社会問題化されて社会全体がスパルタ教育に疑問を呈するようになった。

「・・子どもの自然な成長にそんな厳しいしつけが必要なのか?」

という空気が生まれ、日本社会から今は一切の体罰が消えている。

バランスは本当に難しい。

「学校でいくら暴れても教師は俺たちに手出しはできない」

と学級崩壊している現場が現在日本では社会問題している。

教師もうつで休職したり、転職したりして日本の教育に今暗雲がたちこめている。

ここからは私見になるが、教育について。

自分は本来

「教育とは不自然なもの」

と思っている。

子どもに例えば

「今日学校行きたい?休みたい?」

と聞くと、ほとんどの子どもは

「・・休みたい!」

というだろう。

その判断に任せるのが「自然」だとか「自主性」だとかいわれると、はたしてそうか?と思う。

日本の明治時代、侍がまだ人の希有種として輝いていたころはどうだったか。

二つの例を出したい。

松陰、寅次郎といわれていた吉田松陰の場合、幼少のころ師の前で、四書を復唱していたとき、肌に止まっていた蚊があまりにもかゆいのでそれをつい無意識に掻いた。

すると師の鉄拳が思わず寅次郎少年の頬桁を打った

寅次郎少年が庭先に転がり落ちても師の打擲は止まらず

「・・師の教えの最中に肌を掻くのは私の行為である!学究の際、学びに耐えるのは公の精神である!公の最中に私を持ち出すのはなにごとか!」

当時の寅次郎少年の母親はそれを次の間で聞いていたが寅次郎を不憫に思いながらも武家の妻としてそれを止めず

「・・寅次郎や、お死に・・」

と思ったそうである。

次は昔世界ベストセラーとなった「武士の娘」の著者、杉本鉞子のエピソードである。

この本は当時の武家がどのような生活をしていたか、さまざまな言語に翻訳され大ベストセラーになった。

その一節に杉本鉞子が師からどのような教育を受けたか書いてある。

ある日の午後、師と向き合って四書を諳んじていた鉞子は思わずあくびをしてしまった。

そのときの師はしからずやさしく言ったという

「・・エツ子さん、どうやらあなたは今勉強する状態にないようです、日を改めてまた勉強しましょう」

師が去るとと鉞子は号泣して父親の前に土下座し謝ったという。

そんな教育を受けた吉田松陰の場合は歴史上もっとも優れた指導家として名を残したし、杉本鉞子はアメリカで日本人初の大ベストセラー作家となり、後にコロンビア大学で教鞭をとる。

明治時代までの武家教育はもしかしたらタイ人には

「なんだそれ?」

と思われるかもしれないが、自分自身

「教育とは本来他人から見て不条理に見えるときもある」

と思っている。

この問題になっているタイ人教師がどんな人物か知らない

しかし、彼に生徒を思う心があって、国を愛する使命感があって、またその人格も師とするにふさわしい人物であるなら、部外者が口をだすことでもないように思う。




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