10年前と今でさえタイの若い年代に変化が起きてきている。
12年前、自分が初めてタイに来たときに、観光でタイの大学生の車にのせてもらうことが時々あったが、そんな彼らのダッシュボードには僧の写真のメダルが貼られていたりした。
最近の若者の車には、僧の代わりにK-popアイドルやアニメキャラなどのステッカーが多い。
個人的に感じるが、今のタイの若者にとって僧の存在はもしかしたら希薄になっているのかもしれない。
迷惑な話だが、深夜になると大学にいかない若者達の中にはバイクレースをはじめるものがいて、うるさくてしょうがない。大人でさえこれを恐れているような感じがする。
中国のことわざに「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるが、タイの現在はこれとまったく違う状況が起きている。
今のタイにとって着る服があって、食事に困らないのはごく当たり前のことであって、
「BMWと新型iphoneがあって礼節を知る」
こんな言葉がしっくりくるような現象がタイの若者の間でおきている。
「・・あいつはあんなにいい車に乗っている。」
「・・あの人はあんなにいいバッグをもっている」
多くの若者の興味がこれに向き、関心はiphoneを発売日近くに買うことであり、学校の帰りにスターバックスでラテを飲むことなのだ。
要するに若者の関心が立派な大人や偉人に向かうことではなくて、物を消費するライフスタイルに向かおうとしている。
思えば日本の80年代後半、いわゆるバブル絶頂期にもこんなことがあった。
就職をした若者の多くが新車を買え、冬にはスキー夏にはサーフィン、時代に追いつけとばかり多くの若者が時代を謳歌した。
一度上がった生活レベルはなかなか元に戻せない。
後年、多くの日本人がこの時代のことを忘れられず消費者金融などに手をだした。
消費者金融は違法すれすれの金利を設定、プロミスや武富士などのグレーゾーン金利は日本の社会問題として取り上げられたくらいである。
さらに後アダルト産業の敷居が低くなり、素人であってもAVに出演する女の子が多くなり、男の場合は、NEETと言われる人たちが増えた。
自分が心配するのは以上のことがタイの若者にも起きることである。
いや必ず起きるだろう。
釈迦のいう渇望(タンハー)、あれもこれもと尽きない欲求が人心を疲弊させる。
これら根本原因はなんだろう。
我々40過ぎた大人の責任であるだろう。
貧乏であれ、身分が卑しい存在であれ、凛としていればいいのだが、自分たち大人が子供や若者をそそのかしている状況だ。
「貧乏は決して恥ではない。粗食に甘んじ、服にツギをあてても、高潔な精神のみが人の寄る辺である」
そう断言し行動できる大人がもっともっと必要だ。
「・・・かっこいい、こんな大人になりたい」
要するに、そう言わせるようなしっかりした大人がいないのだ。
古来、こういった存在はタイにしても日本にしても僧が担ってきたが、タイであっても一部の僧がだらけてしまって、国民の関心を削いでしまっている。
「自分ら大人1人1人がしっかりするしかない」
最近はバイクで疾走するタイの若者を見ると、反省しつつ彼らを見つめている。
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