mixiユーザー(id:22841595)

2015年06月28日17:38

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世間をお騒がせして…

 社会問題になった事件などの謝罪会見などではお馴染みのこの言葉、私の大嫌いなものの一つです。
 あたかも、世間さえ騒がなければ(バレなければ)、申しわけなくなかったとでも言いたそうじゃないですか。仮に、私自身が何かの社会問題で謝罪される立場になったとして、こんなことを言われても、謝罪として受け入れるということはないでしょう。
 世間が騒ごうと騒ぐまいと、謝罪しなければいけないほどのことをしたから、謝罪が要求されているということを、この言葉はどこかで忘れています。

 ただ、もしかしたらそのような他意はなく、この文字通りそのままの心情が日本人の意識の低流には流れているのかもしれないと思うことはあります。平たく言えば、世間体を気にするということです。
 多分、そこにあるのは、正しいか正しくないかということではなく、悪いか悪くないかということなのだろうと思います。
 こう言うと、一見、同じようなことを裏から言い換えただけのことではないかと思われるかもしれません。でも、微妙に違います。

 世間を騒がせることが申し訳ないことなのだとしたら、世間を騒がせないことが望ましいことになるはずです。
 では、世間を騒がせないようにするにはどうすればいいか。
 最も簡単なのは、皆と同じにするということです。同じなら世間も騒ぎようがないですから。
 逆に言えば、皆と同じでないことをすると、騒がれるわけです。そこでは、正しいか正しくないかということは基本的に問題にされません。

 例えば、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という日本人のある本質を突いていると思われるビートたけしの名言?がありますが、もし、その中の一人が赤信号に気づいて突然立ち止まったとします。そのために後続の何人かが、けつまづこうものなら(いや、場合によってはけつまづかなくても)「ボヤボヤするな!」とどやしつけられるのは、後続の何人かではなく、立ち止まった一人の方であろうと思われます。
 その一人は赤信号だから立ち止まるという当り前の正しいことをしただけなのに。でも、世間を騒がせた悪い奴にされてしまうのです。で、場合によっては「世間をお騒がせして…」と謝罪させられることにもなるわけです(確かにこんな場合には、本人には正しいことをしたのに、という無念な思いもあるでしょうから、「世間をお騒がせして…」と世間に責任転嫁するかのような言い方をしたくなるのも分からないではありません)。

 日本の社会には、こんなある種奇妙なところがあるように感じます。

 昨今の集団的自衛権の行使の容認に関する議論にも、同様のものを感じます。
 米国の要求やら、中国の脅威といったことはあったのかもしれませんが、正しいか否かを碌に検討することもなく、世界の大部分の国に認められている集団的自衛権の行使を容認してどこが悪い、といった乱暴で横柄な議論を強行しているうちに、(赤信号に気付いた)憲法学者などが違憲だと手をあげたものだから、例によっていつものように「ボヤボヤするな!」と押し切ろうとしているのに、それがなかなか上手くいかない、というのが現在の状況ではないかと思われます。
 流石に戦争となると、してはいけないこと、正しくないことだと、ほとんどの国民は身にしみて分かっているわけです。正しさを追求する限り、「戦争したくてもできない国からしようと思えば戦争ができる国」になる必要はないはずです。
 でも、政府は決してこれを受け入れず、あさましいまでに安保法案の採決にこだわっています。もとより、正しいか正しくないかということは問題にしてないからです。与党の人々にとっては、日本が集団的自衛権の行使を容認されている他の国々と同じになることが、悪いことであろうはずがないと見えるのでしょう。
 こんなふうに、集団的自衛権の行使の容認に反対する人々は正しいか正しくないかの観点から議論し、集団的自衛権の行使の容認に賛成する人々は悪いか悪くないかの観点から議論しているわけですから、それぞれの主張は全くと言っていいほど噛み合いません。
 このまま議論が噛み合わない不毛な時間だけが虚しくすぎていくと、これだけたっぷり時間をかけたのだからと、最後には60日ルールとかで、与党が数の力にものを言わせて強行採決することになるのではないかと心配です。
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