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2015年06月08日17:49

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とあるへんたいおやじの一日(武相荘)

自分は本来エリートであるとか、金持ちにあまり関心が無い。

秀才と言い換えてもいいが、生活のどこを切りとっても退屈であることが多いし

頭が冴えてものごとの分析に類いまれな才能を発揮することもあるが、その分析を自分にあてはめるとそこだけが抜け落ちている、

ようするにそういうおぼっちゃんがきらいなのだ。

白洲次郎を当てはめてみるとみごとなまでにあてはまる。

彼は小学校高学年の頃から乱暴者で知られ、家には彼が問題を起こすごとに謝罪に行かねばならぬため、そのための菓子折がいつも常備されていたという。

「ジローちゃんとは遊んではいけません」

同年代の母親たちからはそう言われていたという。

中学生で高級車を乗り回し、高校に入る頃にはイギリス名門校に留学している。

渡英しても彼は車好きであったらしく、イギリスでも当時入りにくかったブガッティなどのスポーツカーを二台も入手している。

外見、銀次郎からいわせると、はっきり言って

やなやつ

である。

実際彼をペテン師扱いする人は多い。

でも実際には自分は彼がかなり好きである。

それどころか敬愛していると言っていい。

ペテン師と英雄を分ける部分があるとすれば一言につきる。

自分自身の言葉に責任をもつかどうかだろう。

彼はその点、そこらへんのおぼっちゃんではなく、自分自身の言葉に徹頭徹尾責任を持ち続けた。

自分が熱心な白州のフアンである理由はこのへんにあると思う。

事実戦時中白洲はアメリカやイギリスを敵に回す愚を説き続け、周囲はいつ憲兵に目を付けられるかヒヤヒヤしていたという。

真珠湾の成功で周囲が拍手喝采のとき、彼は

「・・このへんは近いうち爆撃機もくるだろう、食糧難になるだろうから、百姓になるのがいい」

といって、当時はふくろうまで鳴いていた田舎の鶴川村で古民家を買い取り、自分で修復を重ね、畑を耕し、自給自足の生活に入った。

高級スポーツカーのハンドルを握る手で、そのまま鍬を握られるものがこの世に一体何人いるだろうか。

戦後彼は首相になる吉田茂に見出された。

マッカーサーに対してとある不満から

「・・我々は戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない!」

と言ったといい、GHQをして唯一

「従順ならざる日本人」

と言われたことは周知のとおりである。

自分はそんな彼に強烈な魅力を感じ、この日曜日とうとういてもたってもいられなくなって、自宅から50km離れた彼の古民家・武相荘(現在は資料館)に行ってみた。

現地についても中々彼の武相荘を発見できなくて困ったのだが、現代でもうっそうとした林の中に彼の家はある。

彼がその妻と住んだとされる茅葺きの母屋に行ってみた。

大きい部屋が4つばかりあるその母屋は決して広くはなかった。

しかし合理的な彼は、必要最低限の生活に喜びを見出しのだろう。

そこには彼の手造りである木製のパン保存器があり、ライトスタンドがあった。

妻正子の趣味もあると思うが、日本に古くからある古民具に美をみつけ、それを自分なりに飾り日本美を表現している。

家の周囲には日本人の金持ちが好むといわれた枯山水などの日本庭園はなかった。

周囲には適度に雑草を間引きされた竹林があるだけである。

ただ妻正子は家の前にあるこの林を愛していたのだろう。

母屋の前の竹林に石造りの小さい三重の塔があるが、その下に夫・次郎の遺髪を埋めたという。

帰り際、自分はふとした偶然から、入り口にある納屋の基礎のコンクリートに

「1953 APRIL」

と書いてあるのを認めた。

資料館の女性に尋ねてみると

「・・それは白洲が基礎が固まる前に書いたものなんですよ」

とにこやかに教えてくれた。

「日本語で昭和二九年四月とでも書けばいいのに」

と自分は笑いながら、元来た林の道の中を帰っていった。
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