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2015年05月11日13:16

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性のタブーの根




  全世界のほとんどの文化に性を汚れたものと見て、公に述べる事をタブー視するものが見られる。それが見られない文化は僕が聞いたところ、ブラジル・アマゾン奥地のいくつかの部族くらいだそうである。確かに、男女共、性器付近はデリケートな所だから、医学上衣服で覆う必要があるのは判るが、述べる事もはばかられる文化がほぼ世界共通にある理由は何だろうと、僕も高校時代くらいから考えてきた。読者の中にもそのような疑問を持っている人は多いのではないかと。

  次第にその部分は男女共、小便を出す所と同じである事に注目し、更には、大便を出す所にも非常に近いから、太古から人類は大小便のイメージと、性器のイメージを無意識的に重ねてしまい、性は汚れたものと言うイメージが出来上がり、非常に早くから公に述べられないようになったのではないかと。一方、花は植物の性器には違いないが、誰も花を見ていやらしいとは思わない点からも、そのような推察が成立するわけである。

  そして、汚れたイメージがある以上、特定の差別の根にもなっている。いわゆる「娼婦は汚らわしい」というイメージが出来上がり、そのような差別された人たちにイエス・キリストや、日本の親鸞上人などは救いの手を差し伸べた事は有名である。

  4月の新聞によると、日本の学校では、性同一障碍の児童・生徒へのいじめが深刻で、先生たちも対応に苦慮する例が多いと聞いている。確かに、そのような方たちへは、性の問題を直視せざるを得ないわけだが、性の事を公に述べられない状況がある以上は教師たちも対応が難しいわけである。

  とは言え、人間は男と女に大きく分かれている以上、性の事を直視する事が本来の姿なのだが。大らかに性の事を語り合う文化が。

  それから、もう一つ。排泄物を汚れたものとしてタブー視する文化みたいなものもいかがなものかと。誰でもするし、しなければ生きていけないのだから。

  そのタブーは直接障碍者問題にも通じると思われる。日本でも少し前まで、身体・知的障碍児者の排泄介護の有無によって、障碍の程度が分けられ、できない者は福祉関係の世界の中で「劣る人」として差別されていた実態もあったから。つまり、性の問題は間接的には、障碍者問題にもつながるような気がする。

  「性」という字は「心が生きる」と書く。本当は性の事を直視しないと、まともに心が誰も生きない大事な事なのだが。

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