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2015年04月19日22:03

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武道随感  柔術、柔道

 加来耕三氏の『日本格闘技おもしろ史話』(毎日新聞社)を手に入れた。こういう本には珍しく、柔術、柔道の話が主体になってる一冊である。色々面白い話が載ってるのだが、特に興味深く思ったのは柔道をめぐるくだりである。

 まず、嘉納治五郎の言葉が興味深い。

「選手権大会も柔道の普及宣伝には役立つが、一方にはその弊もあるようだ。この間の大会を見ると、まるで牛の角突合いのようなものもあった。俺はあんな柔道を教えた覚えはないのだが、試合の結果にのみ気を奪られると、ついああいうことになる。真剣勝負の場なら、あんな隙だらけの試合では、皆やられて了う。柔道がスポーツ化してくると、柔道の一面である武術的方面や、最も大切な心身の鍛錬という面が閑却されて、片寄った柔道に堕落する。昔、西郷や山下、横山等がやったように、技の鍛錬に身を入れて、皆が真の柔道を身につけて、立派な試合をするようにしたいものだ」

 まあ、現在でもこういう傾向はあって、がっちり組んでそのまま動かなかったり、あるいは組み手争いに終始して技の応酬にはならないとか、スポーツ化したことによる弊害というのは確かにあるだろう。そもそもだが、近年において柔道のルールで足取りが禁止になったことは、『武術』としての柔道から益々遠ざかった展開と言える。既に嘉納先生ご存命の頃より、スポーツ化、形骸化による非武術的傾向というのは存在したのだなあと改めて思うのである。

 この言葉にある「西郷、山下、横山」というのは、『講道館四天王』と呼ばれた西郷四郎、山下義韶(よしかづ)、横山作次郎のことである。そしてこれに『姿三四郎』を書いた富田常雄の父親、富田常次郎を入れて四天王である。まあ、これらの人の逸話も面白いのだけど、個々のものはおいといて、注意すべきだと思ったのは、当時の試合形式だ。

 講道館の四天王たちは古流柔術家と試合をし、それを次々と打ち破ることによって講道館の名を上げていくのだけど、この『試合』というものが当然ながら、「どういう条件(ルール)か?」ということが非常に重要になるはずだ。が、どうもこの頃はそれほどルール問題に頓着しなかったらしく、結構ゆるい申し渡しでやっていたようである。

 基本的に当身は禁止。そして驚くのは、「時間制限なし」「どちらかが参ったという」「あるいは戦闘不能になる」まで。という、実に曖昧且つ危険極まりない取り決めで試合が行われた、ということだ。

 しかし古流柔術は、実は「当身」が非常なウェイトを占めていた。当身を使わない「乱捕り」形式のものは古流の起倒流や天神眞楊流もやっていたとはいえ、古流は基本的に真剣勝負を想定した「武術」である。当身が有効、かつ現実的にありえる攻撃である以上、それをないがしろにするわけにはいかない。

 しかし、こういう試合形式のものが先行し重要視されるにつれて、「当身」の重要性は少なくとも講道館からは薄れていく。しかし嘉納治五郎も当身を重視して、実は『真剣勝負の形』十三本を制定したいたのだ。しかし現在では、ほとんどそれを練習する者はいない。僕も道場で習ったことはないし、二段審査の際にも習ってはいない。

 そういう事が先の嘉納先生の「真剣勝負の場なら」という言葉に現れてくるのだろう。少なくとも嘉納先生は、古流柔術が想定していたような『真剣勝負』に対応できるものとして「柔道」を作ったつもりだった。しかしそれは時代の流れのなかで競技的側面だけが強調されて、段々とスポーツ化していったということな訳である。

 もう一つ嘉納先生の話で興味深かったのは、実は嘉納先生は『柔よく剛を制す』の言葉で柔道を語られるのを嫌がっていた、という話である。簡単に言えば「実戦」的であることが重要なのであって、『柔よく剛を制す』という理念が柔道の本質なのではない、ということを強調したかったようなのである。

 まあしかし、僕はこれには異論がないのでもない。というのは、天神眞楊流の源流ともなった柔術の元祖、楊心流の『静間之巻』には次のようにあるからである。

『蓋し楊心とは、楊葉の風に靡き且つ変動無きがごとく、敵に因り転化するを謂う。この意の有るは、力をもって人を制するは、心をもって制するに若かずとはこれ如何に。即ち力をもって人と争うは、人また力をもってこれを拒む。これ何ぞ益のあらんや』

 柳が風に靡くように、力を柔らかく受け流すこと、力に対して力で応じるのではない、ということが強調されている。そしてこれは間違いなく「戦国時代」に発生した、『真剣勝負』の場においてこそ重要な『原理』として発見されたのだ。これが『柔』ということである。

 とはいえ、なかなか実際の場において『柔』でいることは難しい。相手の力感を感じれば、どうしてもこちらも力んでしまうのが人間の生理というものなのだ。それは骨身にしみて知っている。けど、この段階を越えて、なんとか『柔』の境地に辿り着きたい。できたらその柔が「武術」となりえる水準で。…などと思ったりするのである。


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