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2015年02月23日17:56

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『 アメリカン・スナイパー 』


場終わりに、レイトショーで『 アメリカン・スナイパー 』を観た。劇場版予告編から想像していたものとはかなり違い、主人公クリス・カイルの生い立ちから海軍入隊、ネイビーシールズとしてイラクに派遣されたエピソードを中心に描きながら、冷静に「 人間 クリス・カイル 」を追うものだった。したがって、アクションシーンはかなり限定的で、期待したより少ない。生々しいリアリティと手に汗握る戦闘シーンによって戦場体験したいなら、『 ブラックホーク・ダウン 』や『 ハート・ロッカー 』の方がはるかにふさわしい。しかし、万人受けする戦争映画とは言えないが、『 アメリカン・スナイパー 』には心に強く響くものがあるのは確かだ。それが何であるのかは観客個々の視点によって違ってくる。ちなみに、この映画を解く鍵は、カイルの少年時代に彼の父親が息子達に語った「 人間には三種類ある。羊、狼、そして番犬だ 」という教えである。羊、狼、番犬が何を意味し、自分がそのうちのいずれなのか(または、いずれになりたいのか)を考えながらこの映画を観ない限り、得るものは少ないだろう。

 パンフレットを読んで驚いたのは、クリス・カイルを演じた俳優ブラッドリー・クーパーが原作『 アメリカン・スナイパー 』の映画化権を買い取り、スティーブン・スピルバーグ監督にオファーして製作開始したものだったことだ。その後、スピルバーグは監督を降板したが、これは作品にとっては救いになったかも知れない。スピルバーグは戦争をテーマにした数々の映像作品を撮り、そのいくつかは歴史に名を残す傑作であることは間違いないが、彼自身、「 もう、戦争映画は撮りたくない 」と公言していた。先年、例外的に撮った『 戦火の馬 』はスピルバーグらしい映像美とミリタリーおたくぶりを遺憾なく発揮した見事な戦闘シーンがあったが、ほとんど話題にならなかったのは記憶に新しい。スピルバーグにはもはや戦争映画を撮る気力も体力もないのは明らかだ。もし、彼が『 アメリカン・スナイパー 』を撮っていたなら、ドラマチックではあるが、やや説教じみた映画になっていた可能性が高い。

 原作も脚本も読んではいないが、イーストウッドが『 アメリカン・スナイパー 』を監督するにあたり、余計なメッセージ性をほとんど加えていないだろうことは想像に難くない(注:唯一、「 彼らしい演出 」があるが、それは劇場でご自分の目と耳で確認されることをお勧めする)。左巻き市民の皆さんはこの映画を観て、まず間違いなく「 イラク戦争を正当化している 」とか「 英雄賛美 」「 アメリカ至上主義の国威高揚映画 」と批判するだろうが、主人公が戦うイラク戦争を肯定的に描いているわけではない。ただ、テロリストの攻撃からアメリカ兵達を守るために、派遣されたイラクで敵を狙撃し続ける主人公の姿と、彼の家庭を淡々と追うのみである。イーストウッドが監督したおかげで、この映画は戦争と戦場に立つ兵士を極めて公平に描けたのではないかと思う。

 この先、重大なネタバレを含むので未見の方はご遠慮願いたい。





























 『 アメリカン・スナイパー 』を反戦映画だとか、戦場での苛酷な体験が引き起こしたPTSDの悲劇を描いていると感じる人は少なくないはずだが、そこに目を奪われてしまうと、この映画の本当のテーマを見過ごすことになる。『 アメリカン・スナイパー 』が描いているのは、羊のように無力な人々を、暴力と恐怖で支配する狼のごとき蛮人達の手から守ろうと、自らの危険を顧みず懸命に尽くす男達の姿だ。カイルは幼い頃から、父親に「 羊になるな。番犬となって羊達を守れ 」と教えられ、父親も息子達を強い男になるべく教育して来た。アメリカ大使館爆破テロで多くの同胞が殺されたことを契機として軍人を志し、さらに最強の戦士たるネイビーシールズになったのは父の教育の賜物といえよう。しかし、愛国心と正義感に燃える若者の誰もがネイビーシールズになれるわけではない。抜群の身体能力と鋼のように強靭な意志が必要だ。『 アメリカン・スナイパー 』の主人公カイルは、それを兼ね備えた精鋭中の精鋭だった。

 そんなカイルでさえ、戦場体験によって徐々に精神状態に変化を来たす。彼の妻タヤが劇中、カイルに向かって何度も発する「 あなたは戦争に心を蝕(むしば)まれていく 」という言葉は戦場に立つ兵士が陥る精神状態の一面を表してはいるものの、全てではない。ここで注目すべきなのは、殺し殺される極限の戦場にカイルが立つのは「 冒険志向 」や「 殺人嗜好 」ではなく、強烈な「 使命感 」ゆえということだ。決して、「 戦争中毒 」などではない。仲間(戦友)の命を守ること、そしてそれが結果的に国と国民(家族)の命を守ることに繋がると信じているからこそ、彼は戦場に立とうとするのであって、それに伴う「 個人的な負担と犠牲の大きさ 」に私たちは目を向けなければならない。国家は、国家のために献身する兵士達の尊い犠牲の上に厳然と成立している。この映画を単にPTSDに陥った兵士達の悲劇を描いている、と解釈するのは映画のテーマを矮小化することになるだろう。

 エンドロールが無音(サイレント)なのは、映画が描いているのがフィクション(作り物)ではなく、「 現実の物語 」であることを観客に気づかせるためだ。国家間の戦争がいつか終戦を迎えるのと異なり、対テロ戦争は終わることなく未来永劫に続く。止めることができない殺戮のループからは誰も抜け出せない、と映画はそれを伝え、終わる。なんとも暗く重苦しいエンディングである。

 余談。

 この映画は『 ハート・ロッカー 』によく似ている。特殊な能力をもった主人公が、その強烈な使命感ゆえに戦場に立ち続けるという点は全く同じと言って良い。しかし、任務のために他人を殺し続ることに堪えられなくなって「 他人を生かす 」爆弾処理班に転属した『 ハート・ロッカー 』に対して、『 アメリカン・スナイパー 』は「 これ以上、戦場で任務を継続できない 」と判断して軍を退役する。そこだけが違っている。これをノンフィクションとフィクションの違いだと簡単に割り切ってはいけないと思う。様々な人間がいるように、兵士にも個人差があって当然だ。他人(戦友や戦地の一般人)を救いたいという使命感より、生への執着が上回った時、人は任務継続ができなくなるのだろう。


『 アメリカン・スナイパー 』、原作読了
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1942734982&owner_id=6007866

映画『 アメリカン・スナイパー 』への拭えぬ違和感
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1953005700&owner_id=6007866
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