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2014年10月26日06:29

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ヴィニフレート・ワーグナーという生き方

 占いですが、こんな記事があったので(http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=183&id=3112312&from=home&position=6#page)、思い出した話があります。

 先の大戦で敗戦国となった日本では、多くの人がそれまで採ってきた立場とは180度違う立場を採ることを強いられたといいます。鬼畜米英とか天皇陛下バンザイとかの勇ましい軍国主義的主張を展開していた人々が、(敵国だった米国から輸入された)戦後民主主義や平和主義バンザイと言わなければならなくなったというわけです。
 最近では戦争体験者自体が少なくなったために、滅多に目にすることはなくなりましたが、それでも私が幼かった頃はまだ、戦後民主主義的立場の言動に接すると不機嫌になる大人(戦争体験者)を時々見かけたものでした。
 民主主義とか平和主義とかは、いいことであるはずなのに、なぜこの人は不機嫌になるのだろう?と若い頃は、彼らの気持ちが理解できませんでした。
 でも、そのうち、彼らは民主主義や平和主義そのものというより、同じ戦争体験者がそれらを賛美することに腹を立てていたことに気づきました。ちょっと前まで正反対のことを言っていたくせに、さっさと宗旨替えして戦死した戦友たちがあたかも犬死にしたかのように戦前・戦中の日本を批判することが許せなかったのです。おそらく、戦友に対する思いが強ければ強いほど、彼らの目には変わり身の早い戦争体験者が裏切者みたいに見えたのではないかと思われます。
 こうした変わり身の早い人はどこにでもいたとみえて、それは日本と同じ敗戦国だったドイツでも変わりませんでした。実際、無条件降伏直後の祖国ドイツに、米軍記者として足を踏み入れた亡命作家クラウス・マンは、取材する先々で「自分は元から反ナチだった」という人にしか会わないことに苦笑したといいます。
 それだけに、彼は、ヴィニフレート・ワーグナーをインタビューして衝撃を受けます。
 彼女は、悪びれることなく、こう言ってのけたのです。
 「ええ、ヒトラーとはかなり親しい友だちでしたよ。彼はチャーミングで優しく、本当のオーストリア紳士でした」。
 俄かには信じられないような言葉です。しかも、ヒトラー率いるナチス政権が断行した諸々の悪事が次第に明らかになっていっても、彼女は終生この立場を変えず、ヒトラーを賛美し続けました。周囲の元ナチが南米などに亡命して、身分も隠したり、次々に転向していったりする中で、それは一種異様な光景ともいえました。
 しかも、彼女は、上記インタビュー時にはドイツ国籍を取得していたものの、元々は1897年、イギリスのヘイスティングスに生まれたイギリス人だったのです。
 ただ、彼女は2歳になるかならないかのうちに両親を失い、孤児院をたらい回しされた挙句、10歳のとき、遠い親戚でベルリン在住のイギリス人ピアノ教師クリンドワース(クリントヴォルト)夫妻に引き取られます。この養父が、偶々リストの弟子でワーグナーの親友でもあったため、ヴィニフレートは筋金入りのワグネリアンに育てあげられます(ワグネリアンというのは、もともとは単にリヒャルト・ワーグナーの音楽に心酔している人々を指す言葉でしたが、作曲者自身の反ユダヤ主義や、ナチスがワーグナー作品を演出に多用したことと結びつき、近年ではワーグナーの音楽に心酔する人の中でもとくに極右思想に染まった人々のことを指していうことが多くなりました)。
 クリンドワース家は、リストの娘コジマの嫁いだワーグナー家が主催するバイロイト音楽祭に毎年招待されていたため、これが機縁となって、ヴィニフレートはワーグナー家に嫁ぎました。しかし、夫ジークフリートが1930年に急逝したため、未亡人となった彼女は30代前半でバイロイト音楽祭、さらに同音楽祭が催されるバイロイト祝祭歌劇場の管理運営を一人で担っていくことになりました。
 ここで彼女は踏ん張ったというのか、手練手管の限りを尽くして、優秀な劇場支配人経験者をたらし込んで雇い入れ、フルトヴェングラーを歌劇場の音楽監督に招聘することに成功し、バイロイト祝祭歌劇場をスター歌手が集うオペラハウスに発展させました。
 しかし、既にワーグナー作品の著作権の保護期間は切れており、そこから挙がる収入が激減していたこの時期が、彼女にとって苦しい時期であったことは否めませんでした。そういう苦しい時期を支え援助し続けたのがヒトラーだったのです。当時、音楽祭や歌劇場の運営を巡っては、宣伝相のゲッベルズをはじめ、嘴をはさんでくる者が少なくなかったのですが、そんな中にあって、ヒトラーは無条件で彼女を支持し援助してくれる数少ない有力者だったのです。
 思想的に共鳴し合えたということもあったのでしょうが、この時期、ヴィニフレートは急速にヒトラーに接近し、ヒトラーとの再婚が噂されるまでになりました。それを意識してのことか、長男などは、「ヴォルフ(←ヒトラーの愛称)がパパだったらいいのに」とまで漏らしたといいます(もっとも、この長男は戦後はヒトラーとの無関係を装いましたが)。
 ただ、こうして、彼女はヒトラーの思想に共鳴はしたものの婚約にまでは至らず、それどころか、自分の知人・友人を中心に50名を超えるユダヤ人を救い出しています。意地の悪い見方をすれば、使えるユダヤ人は救ったということなのかもしれませんが、戦後、彼女が第1級の戦犯に問われたとき、これらの助けられた人々の証言が集まったおかげで、彼女は減刑され、中級の戦犯として公職禁止になるにとどまりました。
 ヴィニフレート・ワーグナーは、こういう人物だったのです。

 ヒトラーを賛美し続けたヴィニフレート・ワーグナーを狂人だと切り捨てるのは簡単です。本当にそうだったのかもしれません。
 でも、時として私たちが友だちとして望むのは、彼女のような人なのかもしれないなとも思います。
 米国の作家マーク・トウェインの名言の一つに、こんなのがあります。
 「友だちにふさわしい役割とは、あなたが間違っているときに味方をしてくれること。正しいときなら誰でも味方をしてくれるのだから」。
 その意味では、彼女は見事に友だちとしての役割を貫いたといえるでしょう。
 もちろん、私はヒトラーの犯した悪事は知っていますし、彼を支持するつもりは全くありません。
 でも、現実にヒトラーと親しく会ったり、話したりしていた人が、世界中を敵にまわすこととなったヒトラーを、それでもなお「友だちとして」賛美し続けた姿には、敵ながらあっぱれな潔さみたいなものを感じてしまうのも事実です。
https://www.youtube.com/watch?v=s2xbu0IPwIo


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