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2018年05月25日18:47

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中国王朝史23 北宋の時代

●「宋」の時代

「北宋」の太祖・趙匡胤(ちょうきょういん)は、
五代の「後周」の皇帝側近の出身で、高級官僚であった。
「後周」が他の勢力を次々と打倒し
中華統一の道筋をようやく建てたころに
後周の幼帝から禅譲(事実上の国家簒奪)を受け、
「宋(北宋)」を建国した。(960年)

首都は開封(またの名を汴京(べんきょう)、現在の河南省開封市)に置き、
まず華北を統一した。
のちに、太祖の弟で二代皇帝・太宗が中国統一は果たした(979年)。

太祖は、自分のように武官上がりの官僚が
皇帝や皇族を脅かして国家簒奪する原因に「武断主義」があり
地方勢力を含めて武将が地域の全権を掌握し
地方長官を務める事は国家が安定しない一因だと考え
文官による統治を目指した。「文治政治」
武将は軍団の統率だけが仕事で、政治には関与しないようにしたのである

だが、文治主義による体制上の脆弱さや、
武力に長け勢いのある北方民族の国家「遼」の威圧、
さらに後述する「金」王朝にたびたび領土を脅かされ、
結果的に首都・開封を奪われるなどし、
首都を臨安(現在の浙江省杭州市)に南遷した。
(靖康の変・1127年)

「靖康の変」では「金」は開封を包囲しし、
皇帝親子は北へ連行、そのまま病死した。
また、妻妾と皇女達も連行され、
金の王族達の妾にされたり売春施設に送られて娼婦とさせられた。
この屈辱的な出来事は中国史の中でも
取り分け色濃く記憶されており
今でも「北方の騎馬民族系の人=野蛮で粗野」のイメージを
拭いされずにいるようだ。

この時、救援を求めて開封城から外に出ていた
後の「南宋」の高宗が
臨安で再興したのが「南宋」である。

「南宋」は1279年の崖山の戦いで「元」軍に敗れ滅亡するまで続いた。
首都が開封にあった前半期を「北宋」、臨安に移した後を「南宋」と呼び区別するが、
どちらも国号は「宋」であり、便宜上使い分けているだけである。

しかし「南宋」は皇統的にも文化的にも「北宋」との継続性が高い王朝で、
特に文化的には区別する事が難しいとされている。


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