mixiユーザー(id:6231411)

2018年05月16日16:34

184 view

中国王朝史19 則天武后

★則天武后
中国ではたった一人だけ、女性で皇帝になった人物がいる。
それが則天武后(武則天)である。
690年から704年の15年間、
「唐」王朝の期間に風穴を開ける形で「武周」王朝を建て皇位に就いている。
「武周」とは国号は「周」だが、
武氏が建てた「周」王朝なので区別してそう呼ぶ。
すなわち「唐」代は618年から907年まで、とされているが、
正しくは「618〜690、705〜907」なのである。
王朝の遷移も「唐」⇒「周(武周)」⇒「唐」となるのが正しいのである。

さて、武后の人物評は様々ある。
「中国唯一の女性皇帝」として
女傑の第一人者としてヒロイックに扱われることもしばしばある一方で、
彼女の治世は「武韋の禍(ぶいのか)」と呼ばれ、
高宗の后・則天武后と中宗の后「韋后」が中央政治に関わっていた期間を
「禍(わざわい)」と見做してそう呼んだりもしている。
こういった表現も、再興した「唐」は
則天武后と韋后の時代を否定するような形で再興したため、
必要以上にこの時代の評価を貶めている節がある事は留意しておきたい。

もともと武后=武則天は、鮮卑の貴族出身であり、
楊広や李淵を輩出した名門貴族の中から唐の三代皇帝・高宗に嫁いだ人である。
武后の夫である高宗の治世は、
「唐」王朝としては既に安定した状態に入っており、
その足跡は決して否定的なものではなかったが、
高宗自身が全くもって政治に無関心であり、
周囲に任せきりであった事が武后とその姻戚の政治進出を招いたとされる。

その結果、武后は高宗の死後も強い影響力をもった皇后になったのである。

683年、高宗が崩御すると
息子の中宗を立てた上で
「垂簾政治(すいれんせいじ、皇帝など為政者の母親や后が後見人の立場で政治を行う事)」を行い、
様々な改革を行ったとも言われている。
 その改革の一つが身分に捉われない役人の登用で、
それまで貴族階級からしか抜擢していなかった高級官僚にも
身分を問わず実力の高い者を入れるなどした事が知られている。

因みに、同じことをした隋の煬帝も後世にボロクソに言われているので、
旧貴族勢力など既得権益者が改革者を貶めているのか
いずれにしても詳細も不明ではあるが
一部優秀な臣官は、玄宗の治世下でも活躍した記録が残っている。

一方で、きっちりダメな皇帝の治世のお約束となっている
姻戚の進出の悪影響もあり、
武后の親族の武氏一族の朝廷での専横も目立ち、
それが韋后排除に繋がったわけで、評価は分かれるところである。

韋后らの手によって中宗が毒殺されたのちは、
高宗と則天武后の子である睿宗(えいそう、710−712)と
その子・玄宗が「唐」を復興させ、
盛唐期と呼ばれる玄宗の治世「開元の治」(713〜741)に突入する

「唐」代は、初唐期〜盛唐期については以下の流れで認識しておきたい。

高祖(李淵) ⇒ 太宗 ⇒ 高宗 ⇒(則天武后登場)
⇒ 中宗(則天武后の傀儡) ⇒ 睿宗(則天武后の傀儡) ⇒周代(則天武后の武周)
⇒ 中宗(唐は再興したが韋后の傀儡※1) ⇒殤帝(しょうてい、※1)
⇒ 睿宗 ⇒ 玄宗…

という流れになっており、
「武韋の禍」は中宗の即位から玄宗の即位までの、
則天武后の傀儡時代の「唐」と「武周」と韋后時代(※1)が含まれた形になっている。

ただ、復興した「唐」の睿宗も則天武后の息子であり、
則天武后が擁立した中宗の弟である。
比較的明確に血統としての系譜が損なわれていない返り咲きであり、
敵勢力を親族もろとも処刑する中華王朝の文化では極めて珍しい復興の一つである。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2018年05月>
日 月 火 水 木 金 土
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

最近の日記

もっと見る