学生時代の社会学の教本の筆者が
上野先生である事が多かった。
当時から新進の社会学者として知られていて
大学図書館でも貸し出し中である事が多かったのだが
表現が難解で分かりにくかったし
とにかく女性の権利主張に対して
男性に対して手厳しく
読んでいて不快感が溜まってしまうので
時間を開けながら読まないと苛々しててしまうので
難儀したことを何となく覚えている。
しかし、僕もそれでも
男女別権問題については長く主張を続けていて
色んな人と衝突を重ねてきたのであるが
学会に身を置くわけでもないので
どんどんと錆びて来てしまって
加えて偏向し始めている。
それが自分で分かってしまうのが何となく嫌な今日この頃である。
上野先生と実際に会う機会があるのだとしたら
一度問うてみたいことがある
それが「セメンヤー問題」である
それを以下に示してみよう。
男女「不平等」問題を語る時、
常に幾つか永遠に解決が見えない問題点にぶつかる事がある。
それを面白おかしく揶揄した表現ではなく、
僕はピンポイントにこれを「セメンヤー問題」と呼び、
陸上のとある選手の偉業をアリか無しかで問う事で解決の糸口を求める事がある。
セメンヤー、というのは
南アフリカの女性陸上選手で
主に中距離を得意とする「キャスター・セメンヤ」選手の事である。
彼女は、元々男性のような風貌を周囲の選手から指摘されていて
そんな中、驚異的な記録で世界陸上で優勝してしまったから
遂に医学的検査を受ける事になってしまった。
その結果は、彼女は女性でありながら
卵巣や子宮が無く体内に精巣があるという
いわゆる「アンドロギュヌス(両性具有)」であることが判明し
物議を醸したのである
この件は、当時から相当有名であったので
多くの人が知っているかもしれないが
2019年の現時点でも同種目の第一人者は彼女であり
ライバルたちは失望し、彼女の参加を内心は快く思っていない。
だって絶対勝てないくらい差があるのだから。
ただ、世間ではあまり「好んで議論されない話題」でもあったため、
今一つ注目がされていない。
しかし、本人が望むべくも無くおかれた状況下において
「男性同等の体格を得た女性が、女性競技に出場した場合」
のテストケースを現した極めて稀有な出来事でありながら、
我々は、これがスポーツの性別問題に発展する
極めて重要な問題提起になっている事を見て見ぬふりをしているのではないだろうか
僕個人の見解も加えて言えば
「女性競技」は、男性競技の副産物、とされかねない重大な性差別問題を
ここに孕んでいるのではないかと懸念するのだ。
2018年に熊本で開催された「アジア女子ハンドボール選手権」では
さらに問題が深刻化した。
最終結果が3位には終わったのであまり大きく騒がれていないだけなのだが、
オーストラリアの選手の中に
男性から性転換して女性になった選手が混じっていたのである。
ハンナ・マウンシー選手。
勿論、彼女は公式に女性であるから問題はない。
国際スポーツのルールではセメンヤ選手の登場で新ルールが登場し、
男性ホルモン(テストステロン)の分泌量が基準値を下回る事が
女性競技に出場する基準の一つとなっているが
マウンシーはこの基準を満たして出場したわけである。
しかし、男性としてもナショナルチーム代表に出場経験のある
いわば一流どころの選手が女子として加わった事で
試合のバランスは大きく崩れてしまった。
少なくともフィジカルの面では彼女は他の選手を圧倒し、
個人の力量としては大会出場選手の中でも抜きん出ていたと言って良い。
たまたまこれがチームスポーツだった事と、
同国の他の代表選手がさほど強くなかった事で
順位を覆すほどの大事件に発展しなかっただけで、
この話題は「ハンドボール界」と「トランスジェンダー界」だけ(でもないんだろうが)
の話題に留まってしまったが、
仮に彼女と同じ境遇の選手がチームにもう一人居れば
恐らくオーストラリアはこの小さな大会で優勝し、
来年熊本で開催される世界選手権でも優勝候補に挙げられる事になるだろう
実際に、スポーツに長年携わってきた僕が思うところは、
これは「女性スポーツの死」を意味するのではないかと
そういう危惧を抱くのである。
そして、テストステロンの分泌量の多さが「性別を分かつもの」と規定して
トランスジェンダー問題は更に物議を醸す結果になるのではないだろうか
というのも
トランスジェンダー問題において「アンドロギュヌス」は
この範疇に加わらない「また別物」として扱われる、
いわゆる議論の抜け穴に該当するからである。
心と体の不一致が「男か女か」で議論されるトランスジェンダー問題において、
両性具有は特殊なケースであり、
肉体的畸形であり、心の問題とは別にされているのである。
それもおかしな話であるが
心の問題はスポーツのレギュレーション上の問題とは違って
もっと深刻で当該者と社会が融和して生きるために
議論されているのであり、性器の有無や卵巣の有無とは無関係だ
両性具有はどちらかというと
風呂場はどちらに入るか、とか
化粧や服装はどうかとかに近い、外見上の判断で
既存の性別判断を済ませて来たから厄介だ
スポーツの場合はどちらも関係なく
「医学的に見てどちらか」を問われるからだ
それを象徴する事が最近起きたのだ
最近になって
キャスター・セメンヤは女性と結婚したのである。
つまり彼女は性別は
外見上は女性、
中身は男性、
精神的には女性、
性的嗜好は男性(厳密には??)という
心身ともにアンドロギュヌス的状況を呈したのである。
これがスポーツ選手であったから問題提起に繋がったものの、
これまで陸上界はこの手の選手を
大会から排除する事で「直視しない」方針を取っていたのだが
多様性容認強化社会の中で、
看過できない問題として突きつけられることになったのである。
茶化すつもりは毛頭ないが
多様性を容認する社会を目指すという事は
これまで性別によって守られてきた既得権(に該当するもの)を
我々は一つずつ棄てていくという事を意味している事を
本当に理解しているのだろうかと敢えて逆に問いたいぐらいだ。
僕はこの
性別の「らしさ」に潜む重要な権利を侵すべきではない、と主張する一方で
多様性はどんどん容認していくべきだとも主張しているのだ
矛盾点は突き詰めればあるだろう。
だが、男女別スポーツなんて競技性としては
意味がないと思っている立場であるから
性別無しの「無性差別選手権」と
「女子のみの大会」を作ればいいのである
同一大会で男女が同一競技の同一価値の競技として認める事に対しては反対、
なのである
かなり過激な意見である事は分かっているが
随分前からこれは主張している事である。
サッカーのなでしこジャパンだって
男子なら中学生のU15日本代表にも勝てないんじゃないか
U18なら絶対に勝てまい
同じく、パラリンピックも五輪と同等のスポーツの祭典だというのなら
健常者も参加するスポーツであるべきだと思うのだが
実際には殆ど参加しないであろう?
多様性を容認するのなら、そこ、なのである。
言い方は悪いが、健常者がハンディキャッパー相手に勝負を挑むという構図が
競技者にとって不名誉というか容認しがたい部分があるからである。
どれだけ理性的に取り扱ってもそこの壁は簡単には取り払えない。
先日、パラスポーツ振興イベントに顔を出した時も
そういった議論と、やはりスポーツとしての普及、日常スポーツ化する事で
パラスポーツへの理解と振興が進む、と結論付ける意見があったが
それは簡単ではない。
男の子が女の子相手に駆けっこで勝っても嬉しいのか?という問いに
「単純に嬉しい」と思える構図が
或いは女の子が「負けたら悔しい」と思う構図が
同じようにパラスポーツにも必要なのである。
さて、男女が不平等なのは悩ましき問題かもしれないが
スポーツとは参加することに意義があり
興行性や記録に価値を重んじていくのであれば
そういった価値観の再構築が必要なのではないか
臭いものに蓋をしていたら、忽ち悩ましい問題に直面するのだよ、と
だからテストステロンの量で判別することは
性差の問題では無くて柔道などの「体重差」と同じなのだよと
そういう風に理解していくべきではないだろうかと
個人的には考えているのだが。
上野先生はきっと
議論にして貰えるように
わざと強めの言葉を選んで投げかけるに違いない
昔からそういうタイプである
だが
「平等なんて望まないで、対等に張り合って、対等に求めなさい」
という女性に対する檄を飛ばすのであれば
もっと、過激で無いと届かないのではないだろうか
上野千鶴子の東大祝辞が「意義深い」と話題、トレンド入りも
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=145&from=diary&id=5579631
4月12日に開かれた東京大学・入学式での上野千鶴子氏(70)の祝辞が話題を呼んでいる。上野氏は日本を代表するフェミニストの1人であり、「女性学」や「ジェンダー研究」の第一人者だ。
上野氏は祝辞の冒頭で、昨年発覚した東京医科大の医学部入試での女子差別に言及。“息子は大学まで、娘は短大まで”という親たちの考えにもふれ、「社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています」と指摘した。
さらに「がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています」と話した上野氏。「がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください」として、こう呼びかけた。
「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください」
上野氏は「ようこそ、東京大学へ」と結んだ。
努力が報われたことで得たものを、他者に還すよう新入生に語りかけた上野氏。Twitterでは「上野千鶴子」がトレンド入りするほどの反響を呼び、賛同する声が上がっている。
《「努力が許された今までの環境は当たり前に得られるものでなく1つの特権だ」という示唆は新入生にとって意義深いと思う》
《上位の大学に限らず入るには周囲の環境によるものがとても大きい。それを知らない人が多すぎる。そして大学では知る事自体ではなく考えられてその先に行く力をつける場だと思う》
《大学新入生が何をどういった方向で学んで考えればよいのかよくわかる。もちろん東大以外の大学新入生にも役に立つ》
自らの足元を見つめ直すのも、いいかもしれない。
ログインしてコメントを確認・投稿する