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2018年06月26日14:05

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中国王朝史36 アヘン戦争

●清朝の敗北

「中国」が「眠れる獅子」などと揶揄される事になったのは、
中国=「清」朝がアジア最大の大国で
軍事力や周辺諸国への影響力などを鑑みると
「強国」と呼ばれるに相応しい存在だと考えられていたからだ。

実際に欧米諸国が中国大陸に広く展開する中華王朝を征服するには
欧米列国の何倍もの人口(4億)を相手にしなければならないのである。
それに手を焼いていたのは他ならぬ「清」朝の支配者層の満州人自身であり、
当時の「中国」は「獅子」というより「巨象」と言った方が良かったかも知れない。

18世紀半ば、ヨーロッパで産業革命がおこると
蒸気船が開発され、列国は足を伸ばして植民地経営に力を入れ始める。
そしてアジアにもどんどんと欧米列国の船が来航するのである。
そんな中、「清」朝は冊封体制を維持しながら朝貢貿易を行っていた。
対外的貿易港として「広州」のみを開港して
外的要因にあれこれ圧されてようやく
遅ればせながら「世界国家」の顔を持とうとしていた矢先である。

「清」朝と積極的に交易を行いたかったイギリスは、
晩年の乾隆帝に謁見し交易を申し入れるが、
中国から「茶」「絹製品」「陶磁器」「綿」などを購入する一方で
イギリス側に中国が買い入れるような商材が無かったため、
一方的に清朝からイギリスに「輸出」するだけの関係に陥ってしまう。
これではイギリス側から見れば貿易赤字である。

そこでイギリスは植民地のインドで生産した
麻薬の「アヘン」を「清」朝に輸出することを企てるのである。
そしてその貿易差損を埋めてしまおうと目論んだのである。
この狙いはズバリ成功、今度は「清」朝が大量にアヘンを購入する事になり
国家財政の大半がイギリスに流出する大幅な貿易赤字に陥るのである。
イギリス側の圧倒的な貿易黒字状態である。
これに気付いた「清」朝側は、このままでは国が傾いてしまう、と
アヘンの輸入を禁止したものの、
そこで大儲けしているアヘン商人らの手により
密輸という形で継続されてしまうのである。

現代でこそアヘンは「麻薬」ということで、
まるで「悪の象徴」という印象を得ているが、
それまでのアヘンは医薬品・麻酔薬として長く世界で知られており、
遊興利用していたのはごく一部だったと言われている。
但しその当時、遊興利用を多く行っていたのが
こともあろうか清朝人だったことが不幸の始まりであり、
イギリスはそこに目を付けたのである。

イギリスは、自国が保有するインドでのベンガル阿片の専売権を駆使して、
苦し紛れに対中貿易を改善しようと試みたに過ぎなかったのである。


清朝は道光帝の1838年、広州に「林則徐」という取締役人を投入し
阿片の輸入を取り締まり、歯止めを掛け始める。
さらに翌1839年には輸入を正式に禁止し、
引き続きアヘンを密輸入しようとしていたイギリス商人を広州から排除してしまう。
これが「アヘン戦争」の切っ掛けである。

 この一方的な処置に対して
軍事報復に出たイギリス海軍は広州を攻撃、
翌1840年には北上して天津にまで攻撃を開始した。
これが「アヘン戦争」である。
天津は首都北京にほど近い水際であり、
この攻撃ですっかり委縮した清朝政府は
講和を結ぶべく強硬派の林則徐を解任し、
穏健派の大臣を交渉に当たらせ、
比較的穏健な講和条約を結ぶ約束を取り付けるのである。

ここで終っていれば良かったのだ。

ところが、この条約締結を前提にイギリス海軍は一時撤退したが、
撤退すると途端に清朝国内では強硬派が意見を翻し、
講和条約の締結を破棄してしまうのである。
ここが残念なターニングポイントである。

これに怒ったイギリス軍はさらに軍事報復として
本格的に中国大陸を攻撃し始め、徹底的に清朝を屈服させてしまうのである。

この時、最初の講和条約よりもかなり不平等で厳しい条約を
清朝は結ばされてしまう。
これが歴史に残る「南京条約」(1842年)である。

内容はこうである。

「香港島の割譲」(1997年に返還)、

「2100万ドルの賠償金」、

広州に加え、「福州、アモイ、ニンポー、上海の開港」、

「貿易自由化」
というとてもハードな内容で、
「清」朝の外交体制を根底から覆すものであった。

さらに翌年の追加条約では

「治外法権」(清がイギリス人を裁判できない)

「一方的最恵国待遇」(清が他国と結んだ条約と同等の権利がイギリスに与えられる)

「関税権」(清側が自由に関税がかけられなくなる)

まで結ばされてしまうのである。

完膚なきまでのイギリスの圧勝である。

とはいえ、
この戦争はイギリスの国内外からの批判にも晒される事になり、
中国からアヘン商人たちが逃げ出してしまった事もありアヘンの輸出は収まったものの、
やはり中国の綿製品は優秀で安価なため
イギリスの植民地であるインドで生産された綿製品の輸出を阻む事は変わりなく、
経済的に目的が果たせたとは云い難かったのである。

このイギリスが突破口を開いたのを機に
欧米列国は次々と清朝に迫り、通商条約などを締結する事になる。
これがさらに続く「中華帝国の没落」へと繋がっていくのである。

因みに、日本では幕末が近づいており
似たような環境が迫っている。

このイギリスがこじ開けた清朝の穴の乗っかって
アメリカは1845年、望厦条約を締結し、
その足でビッドル提督は日本に向かい
翌年に同等の修好通商条約の締結を徳川幕府に申し入れている。
もちろん、突然この屈辱的な条約を幕府が結ぶはずもなく
1853年のペリー来航時はこの時の教訓を得て
「砲艦外交」、いわゆる軍事的脅迫で日本に開国を迫ったのである。

屈辱的な「望厦条約」をそのまま呑むのではなく、
交渉も要求も可能であり
挑戦的でも威圧的でもなく
飽くまで薪水補給地としての開港要求だったこの時に
有利な交渉を仕掛けていれば、違う日本があったかも知れない。
何故なら、ビッドルの来訪とその内容は事前に幕府に知らされていたからである。

もはや、産業革命前の国が産業革命を果たした国と
軍事的に争う事は不可能なくらいに時代は変わっていたというのに。

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