★元朝末期
中華帝国となった「大元」こと「元」朝。
フビライが漢人化したのか、
統治上の都合で中華王朝風に改めたのか分からないが、
「元」朝は歴代の中華王朝の中でも
最も異民族文化を維持したまま中華帝国となった王朝で、
軍制も統治方法も異色である。
加えてその価値を理解していた筈の「科挙」についても
フビライの治世下では行われなかったとされている。
1271年に国号を「大元」と改めたフビライは、クリルタイを開き
モンゴル帝国全体の大ハーンとして承認を得ようとしたものの、
「アリクブカの乱」で勢力が二分三分された影響もあり
その部分では成功しなかった。
その結果、皇帝の意志に従わない独立勢力を
多く生む形となってしまった。
一方で、1279年には長年の攻略目標であった
江南に展開していた「南宋」を遂に下し、
真の中華統一王朝となった。
以降は、豊かで産業が発達している江南地方を勢力下におき、
平和で豊かな期間を迎えることになる。
また1274年と1281年には
「元寇」(それぞれ「文永の役」「弘安の役」)を起こすが、
日本列島への侵略には失敗している。
1348年、国内でペストが流行するなど国内が混乱すると、
1351年には白蓮教徒の乱が大規模に発展し、
そこから後に「明」朝を興す朱元璋が台頭する事になる。
南京で勢力を固めた朱元璋は、
いきおい大都(現在の北京)を目指し北伐を開始した。
1368年には元の皇帝をモンゴル高原に北走させるなど、
「元」王朝を事実上、中国から撤退させるに至った。
これにより朱元璋の「明」朝が正式に中華王朝の継承者となり、
北走した「元」朝を、以降はモンゴル王朝の「北元」朝と呼んで区別する事になる。
「明」朝では彼らの事を「韃靼」(だったん、タタールの事)と呼んでいた。
世界最大の帝国「モンゴル帝国」の衰退は
劇的であっけないものだったが、
「北元」ではフビライ家が世襲していた皇帝位さえも
途中からアリクブカ家が務めるなど皇統においても呆気ない終わり方をしているのである。
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