●玄宗の治世
玄宗の時代は、「唐」代の最盛期と認識され
「盛唐期」と表現される歴史区分にある。
この表現は穏やかだが、
言い換えればこの時を境に唐王朝は衰退が始まるのである。
単独の皇帝名で一本の原稿を書くにはそれだけの理由がある。
栄華を極めた「唐」王朝期の中でも、世界的に大きな事件が
この皇帝の治世に含まれているからだ。
玄宗の在位期間は712〜756年となっているが、
その前半期を「開元の治」と呼び
「唐代最盛期を創出した」と持ち上げられる一方で、
後半期には王朝衰退の原因となる世界史的にも大きな事件を幾つか起こしている。
それは「タラス河畔の戦い(751年)」と
「寵姫・楊貴妃の登場(735年)&安史の乱(755年)」である。
中央アジアの奥深くまで勢力地域を拡大し、
世界的国家となっていた「唐」王朝だったが、
その政治形態は「都護府」とよばれる地方拠点を置き、
そこに「節度使」と呼ばれる地方長官(将軍+財務官を兼ねた官僚)を派遣し、
周辺地域を統治する冊封体制を採っていた。
広大な国土を維持するためには中央集権型の統治では維持が難しいので、
成り行きでその仕組みに辿り着いたのではないか、と考えられる。
そして、この時期同じく勢力を伸ばすイスラム帝国の「アッバース朝」と
中央アジアの支配権を巡り衝突する事になり、
751年の「タラス河畔の戦い」で唐は決定的敗北を喫してしまうのだ。
これにより、中国文化が中東やヨーロッパに流出するばかりか、
勢力圏としても中央アジア地域から大きく後退する事態になる。
この敗北を切掛けに辺境の異民族が活気づいてしまい、
国家全体に波及する問題になったのである。
また、玄宗の治世後半期に入ると
735年に貴妃となった「楊貴妃」との関係も国家的問題になって来る。
彼女は「絶世の美人」の代名詞として世界的に有名な存在であるが、
またの名を「傾国の美女」と言い、唐の皇帝・玄宗が
楊貴妃に傾倒するあまり国を衰退させた、というエピソードで有名なのだ。
楊貴妃は、最初は玄宗の息子の后であったが、
玄宗がこれを見初めてしまい奪う形で貴妃となった。
愛しい楊貴妃の願いなら何だってOKの玄宗の姿が目に浮かぶ。。。
やがて玄宗は、楊貴妃を溺愛するあまり政治への関心を失い、
貴妃の従兄弟である権臣・楊国忠らの専横を許してしまう。
また貴妃の引き立てで、ソグド人ながら節度使を務めた安禄山も台頭するのである。
本来は「節度使」は地方長官の役割を担う重要な役割のため、
宰相に最も近いポストの一つとして
中央政府からエリートの文官が派遣される存在であったが、
ケースによっては「蕃将」と呼ばれる「絶対に宰相にはなれない」異民族の武将にも
委嘱するようになった。
その一人がソグド人武将であった安禄山であり、これは玄宗と楊貴妃が引き立てたのである。
一方、中央政府で横暴を極め、対外的にも失政を重ねていた楊国忠と、
地方の雄で幾つも節度使を兼任していて国内最大の軍を率いる安禄山は対立に及び、
身の危険を感じた安禄山がクーデタを起こすのである。
それが、安史の乱(755年〜763年)である。
これにより玄宗は長安から離脱し、翌年に亡くなった。
安禄山はその後、
「燕」という王朝を興し自ら皇帝位に就く。
だがその後、次男に暗殺され、
その次男坊を安禄山の部下の史思明が討ち取るのだが、
それも長くは続かず、盛り返した唐軍に鎮圧されるのである。
この安禄山の「安」と史思明の「史」で「安史の乱」と呼ばれているのである。
楊貴妃の存在が招いた、かなり大規模なこの内乱は
最終的には鎮められたが
これを機に唐が疲弊を隠せない状態に陥り
徐々に辺境の異民族との争いに敗れていくのである。
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