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2016年09月05日02:06

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西安からどこへ行く

西安で何日過ごしたか分からない。
到着した日に僕の旅の目的だった
同じ学生寮に住むタンゲが居るはずだった
「勝利飯店」には到達したが、彼の姿は既に無く
チベットの方に旅立った後だった。

次の日には同行していた堀木さんが
涼州に旅立ってしまった。
翌日には最大の観光地の一つである「兵馬俑」いわゆる
グレートテラコッタアーミーを見学に行った。
大雁塔、小雁塔とかいう仏塔も有名だったのでそこにも行ったが
あまり記憶にも記録にも残っていない。

これまた曖昧な記憶だが
まだ京大コンビが旅立つ前に、一日殆ど行動が出来ない日があった。
その日は人民解放軍のお祭りなのか何なのかパレードがあるらしく
確かに夕方になると公園には夜店も出たりなんかして盛り上がっていたが
目抜き通りやら幹線道路はあちこちが封鎖されていて
そこを戦車や装甲車がかなり速い速度で何台も走り抜けるのだ。

西安市は今はどうかはわからないが
中心街を城壁のようなものがぐるりと囲んでいて
僕はその中に居たのだが
その外側から何百発もの空砲が打ち上げられていた。

西安という町はどういう都市かというと
都市の中心部は古い石造りのおよそ高層建築のない住宅街で占められていて
郊外に行くと大きな工場などが立ち並んでいるのか
白っぽく空気が淀んだ雰囲気である
西安の中心部から北東に進むと
兵馬俑などがあり、その道中に華清池という避暑地のような場所がある
何だっけ楊貴妃が浸かった風呂があるとか言っていたが
漢の高宗と楊貴妃のロマンスはともかく
その地は中国近代史の最大級の事件があった
西安事変の現場でもある。

西安事件というのは国共内戦を続けていた
1936年(昭和11年)に
国民党軍の首領で中華民国の首相でもあった蒋介石が
西安地域を任せていた張学良と楊虎城に
「共産党軍を壊滅しろ」
と命令しているのに動かない張学良と楊虎城に督戦に訪れたところ
両名にクーデターを起こされて捉えられてしまい
逆に共産党軍と手を組む「国共合作」を宣言させられてしまう、というものである。
その時に、蒋介石が投宿していたのが華清池と言われていて
実際に行くと分かるのだけれども、
この地は攻めにくいし守りにくいという辺鄙な土地なのである。

蒋介石も襲撃を受けてから暫くは逃げ出して身を潜めていたようだが
それがどの辺りだったかは今更知る由もない。

西安の町には古めかしい商店が続く中に
場違いな感じで「ケンタッキーフライドチキン」があった。
どこの店もそうなのかも知れないが
店には4つ5つレジが並んでいるではないか
日本の結構人気店でも2つしかレジがないところがあるというのに
その店はレジが4つあった。
いや、はっきりと覚えているのだ。
そのレジ一つ一つに若い女性店員が配置されていて
僕が店内に入ると全員が一つのレジに殺到したからである。
全員若くて可愛い。ひょっとしたら西安の一番の人気アルバイトなのかもしれない
そう感じさせるような質の高さだった。
その女の子たちが、僕が何か一つ頼むと我先にそれを取り出そうとして
争うようにしてレジに集まって笑顔を作っているのである。

料金は日本よりは安いくらいだっただろうか
それでもオリジナルチキンはいい値段だったと思う。
総額にすると少し安い程度で1000円行かない程度か。

それって当時の北京の大卒の平均月収が2万円、中国全体の平均月収は6000円程度と言われていることを考えると高いのよ。
高級なランチなのよ。
つまり、そんなところに来る人は結構なセレブという事になる。
もちろん結構長い期間の海外旅行もして、しかも定職につかない学生の僕って
おかしな存在である。
それは為替の差というか、平均物価の違いというか。

だけど、中国の物価の安さはともかく
金持ちは日本の比較にならない金持ちがたくさんいて
日本の10倍の金持ちが、日本の10倍の数いるわけである。
たぶんGDPは倍くらい?
僕が訪れた95年頃は世界ナンバーワンのGDPは
今も変わらずアメリカなのだが、当時は10兆ドルに乗るか乗らないかの規模で
世界2位が日本で4兆ドルという水準だったのだが
現在はアメリカが17兆、中国が10兆、日本が4兆という順位である。
中国は人口はそんなに変わっていないが
2000年にようやく1兆ドルに乗っかった程度だったわけだったから
95年の10〜20倍ペースで金額が伸びているのである。

物価が日本の10分の1だった、95年当時から行くと
中国人だと100人に一人くらいの金持ちが
ケンタッキーで昼ご飯を食べられる水準だったはずであるから
相当に「金持ちの青年」の扱いを受けたという事がお分かりあろうか
しかし、それを割り引いても
現在はゴロゴロいるであろう「ケンタッキー族」も当時は希少だった、ということは
間違いなかったのである。

前の日記で「外国人料金という恥ずべき文化」と罵ったが
決して単純ならざる背景がそこにあったのであり
それをまた掻い潜るようにして「人民料金」で利用しようとした
僕の態度もまた恥ずべきものがあったのかも知れない

とにかく、学校が始まるまでには日本に戻らねば。
タンゲの行方を追うつもりが毛の先ほども無くなってしまった僕は
「帰る」という大きな課題が残っていた。
手元には日本円は1万円も残っていなかったが
トラベラーズチェックは700ドル分きれいに残っていて
船なら余裕で帰れるはずだ、と根拠のない確信だけが自分の中にはあった。

ただ、陸から何千キロも離れた西安の地で
船を確保するのは容易ならなかった。
旅立つ京大コンビに借りたガイドブックに載っていた
上海の船会社に電話すると
民間人の家に繋がってしまう。
「もしもし?」
と日本語で話しかけると子供が電話に出た。
「パーパー?」
違うのだ。
「エクスキューズミー?」
電話を替わった大人に話しかけても英語も通じない。
仕方がないので、船会社の名前を読み上げると何やら言われて電話を切られた。

結構、涙が出るようなドラマチックな京大コンビとのお別れのドラマがあったのだが
それは別の機会にして

こりゃ行くしかねぇな

やっと上海に移動する決意を固めた時
周囲には一人も日本人は居なくなっていた。
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