自らの理屈に沿わない思想を「幻想」とこき下ろす
学会やシンポジウムの論法を同じ意見の人間が集まって発信するとは悪趣味だ。
少子高齢化が社会的に様々な影を落とすのは事実である。
少子化について「産むべき」と言われる女性の気持ちが
複雑であろうことは想像がつかないわけではないが
これは後々に回すとして
高齢化社会というのは医療環境の悪化と
介護問題に加えて、年金問題と
様々な問題を生み出しているのである。
かといって、人口バランスを維持するには
人口が増え続けるような構図にならないと保てないわけであり、
それはそれで生産人口を増やす計画を建てないといけない。
その問題を解決すれば、良いことには彼女たちは気付いているが
具体的な解決策も提示しないのに
先に、やれ多様性だ、倫理観だ、と議論するのは身勝手である。
だが、先の待機児童問題と同じく喫緊の課題として
或いは一刻の猶予もない問題として社会が取り組むべきなのであれば
我慢する層や虐げられる層が発生しても解決しなければならないのであって
社会が維持されるために、であれば
個人各々が幸福を追求していると解決しないとなれば、
やはり某かの我慢が必要なのではないか
誰だって我慢はしたくないので
多様性と倫理観とジェンダー平等性を使って
「いやだ、いやだ」を合唱しているのではないか、と
聴いている方は思うのである。
もちろん、産みたくない人は産まなくていいし
産みたい人はじゃんじゃん産めれば良い。
なかなかそうはならない社会を改善できれば良いと
僕だって思うのである。
だから、産まない人も
社会貢献が難しい人も産めない人も
同等にやりたいことをしていけば良いのである。
誰だってそうなのだが、権利を得るには義務を果たさねばならないし
義務を放棄した人に対してまで権利を付与しようという
厚かましいお仕着せの思想の方が問題なのである。
産んだ女だけがエラい、という短略的な思想はごく一部の人間のものである
確かに、産んだ女は偉いと思うけれども、
産んでいない女だって偉い人は普通に居るでしょう
それは間違いなく、少子化を歯止めしているのだから
「偉くない」ということは正しくない。
次に性的なマイノリティが抑圧されるというのは
性差だけでなくあらゆるマジョリティとマイノリティ間で起きている問題を
子供を産む、というところで切り口に議論すると
確かにマジョリティにマイノリティは抑圧されているのであり
その多様性を否定されているわけではないだろう?と
思うのである。
気の毒なのは彼女たちが葛藤している、あるいは
葛藤させられているという点である。
僕は以前の日記でも、子供を産まないのであれば
結婚はする必要はない、と主張してきたが
愛し合う男女は自由に同棲すればそれで良いのだと思う。
死ぬまで永遠に同棲すれば、それは概念として結婚というのだろうと
考えるからである
生まれた子供が
法的に自動的にそのカップルの子供であると認定されるために機能し、
同時に自立するまでの扶養の義務をカップルが共に負うための
法的装置としての結婚を愛だ恋だ自由だ平等だの議論と一緒くたにすることの方が
よほど横暴だと思うのである。
僕は男性だから言うが
50歳や60歳になった時に、
同年代の女性より20代や30代の若い女性が魅力的に
感じてしまうのは当然で仕方のないことだと思っている。
特にセックスに関しては、高齢の女性によりも
若い女性に対して魅力を感じてしまうのは
揺るがない事実だと思っているが
それも愛だ恋だの問題と綯交ぜにして
貞操を貫くのが美徳だと言い張るのであれば
それは横暴だと思う。
カップルはそれとは別に一緒に過ごしたい人同士で
関係が維持されればそれで良いものだと思うからである。
その関係を法的にフィックスするのが結婚という装置の役割であることは
当然認めるところだが
ここに子供が介在しないとあれば維持されないものだとすれば
「子供が居なければ結婚してもしなくても良いではないか」
と考えるからである。
従ってホモセクシャルなカップルにおいても
結婚というものに固執しないで維持される関係であれば
それに越したことはないのではないか
あらゆる多様性を僕は否定しない。
どこかの校長が子供に言った発言も
ひとりの人間の考えとして
不特定多数の若い女性への提言としては間違っていないと思う。
ただ、校長が教え子に対して
壇上からとはいえ直接言い聞かせることは
自分自身に当てはめて考えてしまうのは当然であろう
そういう想像力が欠けた無配慮な発言だと思っている。
産まない選択をする女性、に失礼だと思うからである。
一方で、社会全体からみる女性への考察の発言としては
間違っていないと思う。
女性は○○であるべき、としても
自分はその中でどういう事情を抱えたどういう存在であるか、が
定まらない状態でいちいち自分に当てはめて考える軽率さが
中学生あたりにはまだあるはずだからである。
ひとりひとりに、それぞれ事情が発生して
「女性」ではなく、「自分」として個々のケースを構築していくことを
認めていくことが多様性のあり方だと思うのである。
最後に
僕は、女性の多くが結婚という制度に「幻想」を抱いているのではないかと
逆に指摘したいのである。
■「子どもを産んだ女だけが社会の役に立っている」という幻想―出産は“自分のため”にすること
(ウートピ - 03月25日 15:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=184&from=diary&id=3915032
柴田英里氏×中村うさぎ氏×牧村朝子氏の3名が、女が主体的にいきるとは何か、社会に存在する抑圧とは何かを語り合うトークレポートの後編。少子化が叫ばれる今、「子どもを産んだ女だけが社会の役に立っている」という幻想や産む/産まないで生じる葛藤、また同性カップルが子どもを持つことの是非についてまで話は及んだ。
「子どもを産んだ女だけが社会の役に立っている」という幻想
日本は現状の少子高齢化を脱するために、とにかく女性には子どもを産んでほしいという流れがあるが、三者は揃って「別に少子化で良い」と考えているという。
牧村氏は「少子化の問題は、海外に対して国の経済的競争力がなくなってしまうことです。自然の摂理で今の人口ピラミッドになったわけだから、その中でどう経済を回していくか考えるべきで、子どもを増やせば解決するという考えは単純過ぎる。同性愛について『自然の摂理が〜』と反対する人がいるけど、なぜ少子化だけは自然に逆らうのだろうと思ってしまう」と、少子化も同性愛も都合の良い理論で語られていることについて疑問を呈した。
少子化脱却は、労働力や納税者の減少という観点から、国の最重要項目として捉えられているように見える。だからこそ、子どもがいる人は無条件で社会の役に立っているという考えを持ちやすいのかもしれない。しかし中村氏はこの状況に危機感を持っており、「社会への役立ち度や人類貢献度が、その人の価値を値踏みするのは激しい差別問題を内包している。体が不自由で思ったように働けない人、病気で子どもを産めない人はどうなるのだろうか」と語り、会場からは納得の声が漏れた。
また、「納税者を一人でも多く産むから『子どもを産む女性は正義だ』と言うのであれば、1人で働いて子どもを産んで育てているシングルマザーへのケアの手薄さをもっと疑問に思うべき。彼らが思う“健全な家族幻想”からはみ出した人が批判されている。子どもを産まない女、同性愛、離婚、婚外子を産んだ女などは健全ではないのでしょう。理想の家族を強要し、それ以外を不健全としている」と、「子どもを産んだ母親は偉い」という考えの中に、シングルマザーが含まれていないことを批判した。
セクシャルマイノリティは子どもを持ってはいけないのか
牧村氏は昨年、妻のモリガ氏とともに、唾液から採取したゲノムデータに基づいて、二人の間で生まれるかもしれない娘の姿をCGでシミュレートするという作品に出演した。牧村氏の卵子にモリガ氏から作られた精子が受精した想定、モリガ氏の卵子に牧村氏から作られた精子を受精した想定の2人の娘だ。女性の肌から精子を、男性の肌から卵子を作れるのではないかという論文が発表されるなど、同性間同士の子どもは、倫理的な議論を抜きにすれば、技術的には近い将来可能になることが見込まれている。
この件について牧村氏は「撮影後はものすごく子どもが欲しくなった」と嬉々として語りつつ、「彼女の子どもを私が産みたい、彼の子どもを俺が産みたいと思っていい。法律が追いつくのはもっと先になるとは思うが、生殖技術はあと数年後には実現可能のところまで来ている」と、自身が経験したテクノロジーが同性愛カップルの希望になることを訴えた。
ここで問題になるのは、倫理観だ。中村氏は「生殖と出産を神聖だと思う人たちは、ものすごくたくさんいる。キリスト教の国ではなくても、生命を作る上には愛という概念が付随し、男女が性欲ではなく愛ゆえに合体した結晶で子どもが生まれる……という幻想はつきまとう。批判はしないが、同性愛者が子どもを生殖できたら愛の概念も変わる」と述べ、柴田氏も「肌から子どもを作れるのだから、性器接触が嫌だけど子どもが欲しい人は救われるだろうし、愛もセックスも概念も変わる」と、人々の価値観に多大な影響を及ぼすことを言及した。
その話を受け牧村氏は「この技術が認められたとき、“産める身体”からすべての人間が逃げられなくなる。今、女性に向けられている『子どもを産まない女は〜』という議論や強制力が男にも働くはず」と、産まない自由を認めにくい抑圧が全人類に生まれる可能性を語った。中村氏は「誰でも産めるようになるなら、男女とも産みたい人が産み、産みたくない人は産まないという、より自由な世界になれば理想」とまとめた。
子どもを産むも産まないも「自分のため」と主張していい
ここまでのトークを踏まえ、柴田氏が「そもそも産まない女は、産んだ女に見合うような特別なことをしなくてはいけないのか。免除されるために何かをすべきなのか。やはり、山口智子さんの批判は社会貢献という点に帰結しているのでは」とトークイベントのテーマに再度触れると、中村氏は人が生きる意味について語り始めた。
「全ての人間が社会の役に立つべきという考え方は、そもそも人の人生において結果にのみ重きを置いている。社会に貢献したのか、何者かになったのか、死ぬまでに何かをやったのか。人が生きることは結果を出すためという考えは絶対に間違い。だいたい人生とは、自分自身にとって価値のある人生だったのかという判断基準しかないはず。他人にとっての価値のみを見出すなら、ノーベル賞を取った人しか生きていけない。それが結果として誰かのためになることはあるけど、誰かを傷つけたり貶めたりしなければ、人は一生懸命自分のために生きていい。私も文章は自分のために書いている。子どもを産むのも産まないのも、その人が自分のためにすること。誰かの役に立つのではなく、自分の役に立たないと」(中村氏)
この話を聞いた観客からは、すすり泣く声も聞かれた。柴田氏は「中村さんのようにナルシズムと自己愛を肯定することは、今の女性にとってとても大事。物事は社会性や貢献性に傾きがちだが、私たちは1人の人生の追求を明確にして良い」と賛同。牧村氏も「自分の母親が『あなたを産んだのは社会貢献のためよ』と言ってきたら気持ちが悪い。結局、社会の役に立ちたいと言っている人は、自己実現のために人を使っている。子どもを産むのも産まないのも自分のためだと言っていい」と、自分の人生の選択を自分が肯定する必要性を主張した。
人間は自分のために生きている。当たり前のことなのに、子どもを産まない人生を選択した女性に対する視線は依然として冷ややかだ。すべての人間が、自分らしく生きる権利を持つ。その認識を広めなければ、日本のジェンダーギャップ指数も底辺を脱することはなく、この国で子どもを産みたいどころか生きていきたいと感じる人も減っていくばかりではないだろうか。
(石狩ジュンコ)
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