山口の勇気ある発言には、充分な喝采が与えられて良いと思うが、その意見に賛同するわけではない。
僕自身は子供が二人居るので、些か自己肯定的な感情が働いてしまうのだが、その感情の部分を可能な限り抑制して、この議論が活発に行われるべきだと考えるので彼女に拍手を贈りたいと思うのである。
理由はシンプルである。あらゆる人があらゆる見地で意見を述べて、物の考え方の多様性を許容する社会を望んでいるからである。
本当は「産みたくない」と思っている人が、「産みたくない」と言えない社会は思想の強制が働く良くない社会だと思うのだ。
但し、僕は「産むべき」だと考えるし、「産もうとしない」結婚は、婚姻が果たす意味を理解しない暴挙だと考える極端な立場にある。結婚制度を「専有」と「契約」のためだけに利用するのは、この法的価値を愚弄しているとしか思えないのだ。
何故ならば、その間に産まれた子を自動的に夫妻の子と認定し、養育や教育の義務を付与するために機能しているのであり、最初から「産まない」と決めているのなら、永劫「恋人」関係、或いはより法的拘束力の低い事実婚関係で必要充分だからだ。
しばしば「事実婚」ではいざと言うときに対応が面倒になる、と意見されるが、「いざという時のために」結婚するわけではあるまい。つまり、デメリットだけをピックアップすればそうだが、メリットは他に沢山あるわけで、どちらも善し悪しと考えるべきであろう。
しかし、何故に「産むべき」なのか?という議論は、女性が発信し女性が議論しなければ空転してしまう。何故ならば、妊娠と出産は「女性でなければ出来ない」からである。
そもそも、我々は産まれて生きている以上は「誰かの子供」である。母親が産んでくれなければ、この世に生を受く事は無かったわけである。
自分が生まれてきた事を肯定的に考えるのであれば、自分たちが、「また誰かを産む」としなければ肯定的な仕組みが塞き止められる。
日本の社会で言えば、今でも確実に生産者人口4000万人が、リタイアした高齢者と未成年の子供たちを支えて成り立っているのであり、また家庭を守る主婦があらゆる家事に従事して社会は営まれているわけだ。
子供が親に無償の愛で育てられるのと同じように、子供は親が人生を全うする晩年を支えるのが当然とされているのである。
ここに異論もあるだろうが、もう暫く続けたい。
しかしながら、自分は親から産まれたが、自分は親として産みたくない、と考えるのなら先に述べた部分の後半は欠落する。「産みたい」のに「産めなかった」人も沢山あるだろうし、結婚すら実現し得なかった人も沢山居て、今後は更に進行する少子高齢化社会の中では「要介護」人口の増大は必至でより深刻になるのは明白なのである。
その中で「産まない」選択、というのは、育児に苦しみながら働く同輩の視点から言えば、働かない人に生活保護の社会サービスを与える為に納税させられてるんじゃねえよ!と感じられても仕方あるまい。
社会的地位が高い、或いは若い内から大変苦労して成功を勝ち得た人なら、山口の言う「選択肢」を金で買っても良いだろう。
「ギャーギャー喚く人よりは、高い税金を払って貢献してますよ」
と言われればグウの音も出ない。
選ばれた特権意識のある階層の人間が、自由に発言し考え方の多様性を提示するのは実は
「誰でも義務さえ果たせば選べる権利は行使できるわよ」
と言っているだけで、義務も果たさない人間には選択肢は与えられるべきではないのである。
一人の子供を社会の一員として世に送り出すために、一体どれだけのエネルギーや手間やお金が掛かっていると考えるのだろうか。
確かに単純な労働力はお金でも買えるが、買うのも人間であり、「誰かの子供」なのである。その対価を自ら供出して尚余力がある人間の意見としては、山口の言い分は問題ない。
だが、優しくしてやろう、という社会にはそぐわないんじゃないか。
産まなかった結果に対しては特に文句はないが、「産まない」なら、それ相応の…
僕はそう思っている。
■山口智子の「産まない人生」宣言で考える 子どもを持たない選択した女性にも優しい社会
(キャリコネ - 02月17日 11:00)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=210&from=diary&id=3855563
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