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2015年07月23日00:35

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尊王ジョーイ

そこそこ歴史好きの人には常識かもしれないが
日本の歴史を学ぶとき、幾つか「難関」が訪れる。
一つは大和朝廷の時代などの「欠史時代」、更には
飛鳥時代から奈良時代までの同じ苗字の人が次々と現れる時代
止めが幕末時代である。

幕末期に於いての最大のキーワードが
表題の「尊王攘夷」という言葉である。
尊王という言葉は中国の朱子学から来ていて
つまり、自分の大きな意味でのご主人様を指す言葉で
当時は現在の天皇、当時なら帝(みかど)が
国の主権者であったので、これを尊ぶ、という
まあ普通の主従関係での精神を指す言葉である。

もう一つが攘夷という言葉であるが
外敵=異民族を夷狄(いてき)と呼び
これを攘(はら)う、つまり、当時で言えば
侵入せんとする外国人を追い返そうという攘夷論を指しているのである。

この直結しない二つの輿論が合体して
「天皇を守り、外敵を追い返す」
という意味の言葉で世間が動いたのである。

明治時代以降は、天皇を「王」と呼ぶのは正しくないとして
尊皇攘夷と表現するのがスタンダードであるが
当時は中華思想にかぶれた連中が言い出したので
尊王、とするのが正しかった。
それはさておき

だとすると、どうして幕末期にそんな大政奉還や国内の動乱に繋がるような
ムーブメントにこの言葉が繋がるのか、が
全く分からないではないか。

ここで行き詰まるのが歴史嫌いの連中のカベになっているのである。

しかし、尊王攘夷を巡って国内で政治的武力的な衝突が盛んになったのは
間違いなく事実であり
その最大の契機になった事件を我々は記憶しておかねばならない。
それが「ペリー来航」なのである。
1853年、ペリーは浦賀港に寄港する。
そして、1854年、開国を迫り大砲をぶっぱなして威圧したのち、
最初の不平等条約である日米和親条約を結ぶのである。
250年の徳川の歴史は、ほぼ「鎖国」されていたのだが
それを破る結果となったのである。

我々は歴史の結果を知っている。反対から見れば
1867年に徳川幕府は十五代将軍の慶喜の手により
大政奉還が行われるわけであるが、その13年前に
軍事的圧力によって「開国」したのである。

この日米和親条約締結から、明治政府の樹立までが
いわゆる幕末期と呼ばれているのである。

そもそも、江戸徳川時代が訪れるまで
日本の歴史は、誰が強いのか?一番強い者が主人公
という認識でなぞって来ることに終始していた。
645年に乙巳の変で中臣鎌足と中大兄皇子が
中央政界で専横を働いていた蘇我入鹿を宮中で暗殺して
「政権交代」を果たし、以降、中大兄皇子は天智天皇となり主権者に、
後に摂関政治の時代を築く藤原氏の祖となる中臣鎌足は藤原氏を名乗った。
これが政治の始まりであり、歴史の始まりであった。

群雄割拠の時代として「戦国時代」「織豊時代」とも呼ばれる
安土桃山時代も、鎌倉時代に確立した武家社会の集大成として
織田信長が天下統一直前まで国内を武力制圧したわけだが
その後、豊臣秀吉がそれを実現し
徳川氏が更に帝から征夷大将軍を任命され
幕府を樹立するまでの間を指しているわけである。

このとおり、主権者の帝が親政を執っている時代もあったが
鎌倉時代は武家社会が確立し、帝に任命された将軍が
幕府を通じて政治を行うという体制がずっと続いていたのである。

徳川家康は、織田、豊臣と短命に終わった日本のリーダーの
失敗を繰り返さないように
本人が健在の間に地位を世襲し、徳川が何代も続いて
日本を治められるような仕組みを作り上げていく。
最終的には自らを神格化し「日光東照宮」なるものまで
作り上げるのであるから、徳川が未来永劫
主権者代理を務め続けることに対しては意図していた筈である。

そのために導入したのが水戸学とも呼ばれる「朱子学」である。
江戸時代の思想史を学ぶとき、必ず登場する名前である。

ざっくり言うと、世の中の利益が自分の利益であるのだからそこに尽くしなさいよ
身分の違いなどは最初から定められたものであり
変えることのできない運命だ
家来は主人に対して服従することが幸福に繋がる。。。
ひいては徳川に仕えることは絶対的なことであるよ、と
思想上での幕府への服従を固定化しようとして導入した学問なのである。

ところが、黒船が来て国体が危うくなると
思想の上では帝はやっぱり第一主権者であり
幕府とは、国体を統べるべく帝に委嘱された征夷大将軍が政治を執る場所、
と改めて認識しなおすのである。

そうすると、黒船来航という国体の危機、
いわば元寇以来の外敵の襲来に応じきれていない幕府に代わって
直接、帝が政治を執るなり、新政府を樹立するなりしなければならないという
危機感が生まれてくるのである

そこで対立したのが佐幕派、すなわち幕府を佐(たすけ)る一派と
倒幕派、幕府を倒して帝を戴き、新政府樹立を目指す一派に分かれるのである。
佐幕派で言うなれば新選組が有名である。
彼らは元は浪人であるが、会津藩の松平容保が預かる京都の治安部隊で
帝の居る京都で帝を御所から奪い、
新政府を樹立せんと目論む倒幕派を取り締まるための暗殺集団だったのである。

一方で、倒幕派は。。。。
歴史の結果はご存知であろうから語るまでもないが
薩長連合に象徴される薩摩藩や長州藩の連中である。

そもそも薩摩藩や長州藩は、帝の意思に反して
「勝手に」開国した事で大老の井伊直弼を批判した行動を取っており
そのような反幕府勢力を次々と抹殺していった
「安政の大獄」に対するさらなる反発として倒幕活動を続けていたのである。

永遠に平和であるはずだった徳川幕府だったが
構想の外からやってきた「外敵」への対処をめぐって
「正しい」か「正しくない」かで思想的分裂が生じ
佐幕派と倒幕派で対立したことで
最終的に大政奉還を行わざるを得ない状態に追い込まれた、というのが
幕末の「尊王攘夷」の結末だったのである。

そして、明治政府になっても
まだ問題は解決しなかったが、開国したことで文明開化が訪れ
急激な富国強兵策をとった上で
日本は帝国主義国家へと変貌していくのである。

そこで初めて尊王攘夷は果たされるのであるから
実は、幕末だけの問題であったとも言い切れないのである。




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