書かれた内容の是非については議論したいとは思わないが
世間的に言う「言葉狩り」あるいは言論ファシズムとは
こういう事を指すのだと、良い例として挙げておこう。
賢明な諸君は作家の曽野氏についての人物像如何に関わらず
個人的な感想として「氏が、どうして、そのような考えに至ったのか」が
不明な環境に於いて
アパルトヘイトを許容する発言に対して抗議する行為こそが
世界が拒否した「ファシズム」という人類にまず許されていた筈の
自由を弾圧する行為である事を認識すべきだ。
勿論、抗議する事もまた自由であるし
これに対して反駁する事も自由である。
気に入らないのは、
「また産経が揉めている」
と言わんがばかりに他紙が批判含みでこれを取り上げる点である。
どう考えても、個人的な感想の揚げ足取りであるし
「アパルトヘイトを容認する発言」にしても一国の事情に基づいた政策と
その「なれの果て」を曽野氏が見て感じたことが含まれていて
曽野氏が感じたような事も結果として生まれたのではないかと
言う自由があっても問題は無い筈である。
彼女は言論者であり、感想は常に発生する筈だ。
この議論は産経新聞と南ア政府、或いは曽野氏自身と南ア政府が
議論すれば済む問題であり、それを見て感じる人の感想もまた
自由ではないかと思う。
それでアパルトヘイトが再び支持されるような懸念があるのだとしたら
そこにどういう本質が含まれているのかをもっと掘り下げる必要もあるのではないか
そういう議論にならない段階で
「とにかくダメだ。ダメなものはダメだ」
と切り捨てようとするジャーナリズムはクズだと思う。
批判として取り上げているのなら
毎日新聞は曽野氏の発言の背景をインタビューしてから
記事化したらどうだ?と僕は思うのだが。
「人種隔離」が、単純に人種で隔離している事は問題であるが
生活習慣による隔離や思想による隔離、或いは
文化上の隔離が含まれているのだとしたら
アパルトヘイトが何故ダメなのか、をもう一度
議論したらどうなのだ。
人道とはこうやって、一方からの見え方を押しつけることなんかではあるまい。
外から来た者が「そう感じてしまう」原因を
南ア側も丁寧にひも解いて、問題点を解決する努力をして貰いたい。
少なくとも、彼らは歴史的に「苦労して来た」経緯がある事は
我々にも分かっている。
だからこそ、繰り返し議論を要求する権利もあると思う。
外部の人間には不理解があったとしても、そこを議論しても良いと思う。
マンデラが登場するまでは、他国にも逆の論理を突き付けていたのは
他ならぬ南アの前政権である。
僕は、議論すら避けられるのであれば
また時間の経過とともに、別のところで新たなアパルトヘイトが生まれると思う。
昨今の独立国家の群立は、人種や宗教や文化で分化された国家が
生まれているだけで、いわば別の国になることで世界的に見れば
人種で隔離しているだけに過ぎないと思うからだ。
これも見え方の問題か。
僕が、ひねくれているだけか?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3274394
産経新聞が掲載した作家の曽野綾子氏のコラムにアパルトヘイト(人種隔離)を許容する内容が含まれているとして、南アフリカのモハウ・ペコ駐日大使が同紙に抗議文を送っていたことが14日分かった。同紙によると抗議文は13日付。
問題視されているのは、産経新聞11日付朝刊の「労働力不足と移民」と題したコラム。曽野氏は労働力不足を緩和するための移民受け入れに言及し、「20〜30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」などと書いた。
同紙によると、ペコ大使は「アパルトヘイトを許容し、美化した。行き過ぎた、恥ずべき提案」と指摘。アパルトヘイトの歴史をひもとき、「政策は人道に対する犯罪。21世紀において正当化されるべきではなく、世界中のどの国でも、肌の色やほかの分類基準によって他者を差別してはならない」としているという。
一方、NPO法人「アフリカ日本協議会」(東京都)も抗議文を送り、コラム撤回を求めている。
同紙は公式サイトに、小林毅・執行役員東京編集局長名で「当該記事は曽野綾子氏の常設コラムで、曽野氏ご本人の意見として掲載しました。コラムについてさまざまなご意見があるのは当然のことと考えております。産経新聞は、一貫してアパルトヘイトはもとより、人種差別などあらゆる差別は許されるものではないとの考えです」とのコメントを掲載した。【町田徳丈】
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