私は反実仮想が好きである。
だから、SF的な状況を勝手にこしらえては、いたずら好きのタイムトラベラーが歴史上の人物に妙なものを置いていったらどうなるか、などと想像してしまう。
今日もまた、そんなことを考えた。
たとえば、和算史上最大の学者とも言われる関孝和の前に、高木貞治の『解析概論』が、いたずら者のタイムスリッパーの手によって、『塵劫記』の横にしれっと置かれていたらどうなるか。
いや、『解析概論』では少し重すぎるか。
寺沢寛一の『数学概論』ならどうか。
あるいは、岩波の『数学辞典』だったらどうなるのか。
関孝和が最初の数ページで本を閉じるのか、それとも目をむいて読みふけるのか、想像するだけで落ち着かない。
数学だけではない。
江戸時代の天文学者、麻田剛立の前に、岩波の『理化学辞典』を置いたらどうなるか。
あれはもはや辞典というより、近代科学の圧縮ファイルみたいなものだから、開いた瞬間に頭がくらくらするかもしれない。
いや、くらくらするのはこちらのほうで、当人は案外、平然と「ほう」と言って読み始めるのかもしれない。
さらに舞台をヨーロッパに移す。
ライプニッツやガウスのもとに、カントールの無限の濃度に関する論文や、ゲーデルの不完全性定理の論文が、「査読をお願いします」と送られてきたらどうなるか。
ライプニッツは喜ぶのか、顔をしかめるのか。
ガウスは黙って赤を入れるのか、それとも途中で机を叩くのか。
そんなことまで考え始める。
もちろん、これらを本気で展開すればSFになる。
だが、そこまで行かなくても、考えているだけで十分にわくわくする。
歴史を変えるとか世界を救うとか、そんな大げさな話ではない。
未来から過去へ持っていけるのは、必ずしも機械ではない。本一冊でも文明は揺らぐかもしれない。
ただ、本の置き場所を少し間違えるだけで、学問史がとんでもない方向へねじれるかもしれない、という想像が楽しいのである。
こういうことを面白がっている私は、やはり少し変人なのかもしれない。
もっとも、その自覚は今さらである。
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