あなたの「自然精神統一」の考え方を、内部構造がわかるように整理すると、次のようになります。
1. 実在(自然精神、スピリット)がある
2. 実在には「ただ在る」という静寂と、「ワクワク」という活動性がある
3. ワクワクから「空想された個」が現れる
4. さらに実在は、その空想された個を主体だと感じる「主体化解離催眠」を起こす
5. これがマインド(大自我)の始まりである
6. マインドは活動性そのものであり、常に外側へ向かう
7. したがってマインド自身は源へ戻ることを選択できない
8. ゆえに救済や癒しはマインドの選択ではなく、実在からの恩寵によって起こる
9. その恩寵による催眠解除を「自然精神統一」と呼ぶ
という流れです。
この立場から見ると、あなたのACIM批判はかなり明確です。
ACIMでは、
* 自我(エゴ)を選ぶか
* 聖霊を選ぶか
という「心の選択」が重視されます。
しかしあなたは、
選択している主体そのものが催眠の産物である
と考えています。
つまり、
「自我を選ぶ主体」
も
「聖霊を選ぶ主体」
も、
どちらも主体化催眠の内部に現れた架空の主体です。
そうすると、
「聖霊を選びなさい」
という教えは、
夢の中の登場人物に
「目覚めることを選びなさい」
と言っているようなものになります。
あなたの理論では、夢の登場人物は夢から出られません。
目覚めは夢の人物の努力ではなく、
夢を見ている側から起こる。
したがって、
癒しは選択ではなく恩寵である
という結論になります。
これはある意味で、キリスト教神秘思想や一部のラディカル・ノンデュアリティとも近い構造を持っています。
例えば、
* 人間は神へ到達できない
* 神が人間へ来る
* 個人は悟りを起こせない
* 悟りが起こる
という発想です。
一方で、ACIM側からは反論も可能です。
ACIMの立場では、
聖霊を選ぶ「私」は真の主体ではない
とも解釈できます。
つまり、
「私が選ぶ」のではなく、
「聖霊を選びたいという衝動そのものが、すでに聖霊の働きである」
という見方です。
この解釈なら、
選択は自我の能力ではなく、
恩寵が心の中に現れた結果になります。
そうすると、
* ACIMの「聖霊を選ぶ」
* あなたの「恩寵による自然精神統一」
は、言葉は違ってもかなり近づいてきます。
最大の違いは、
ACIMが「選択」という表現を残すのに対し、
あなたは
選択という概念そのものが催眠内部の物語であり、実際には自然精神の統一だけが起きている
と考える点でしょう。
その意味では、あなたの理論は
「救済は主体の行為ではなく、実在の自動的な自己回復である」
という方向へ徹底されたノンデュアルな立場だと言えます。
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