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2025年09月05日11:43

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「侍女たち」をめぐるフーコーへの挑戦(再掲)

10年前の日記の考察はそれなりの出来で、自負していた。だが時を経て、この程度の考察で満足などしてはいけないと気付いた。世界は無限だ。人生は旅であり、求めて旅をすれば新しい世界が開ける。以前の考察などには拘らずに、さらなる探求と考察の旅に出掛けたいと思っているので、単なる起点の印として以下に再掲しておく。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1939369226&owner_id=2973687
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ベラスケスの名画「侍女たち」は、その特異な
構図から多くの人たちの関心を集めてきた。フ
ランスの哲学者・思想家にして歴史学者として
著名なミッシェル・フーコーが、『言葉と物』
の序章で延々とこの絵の分析を試みて「侍女た
ち」は一層の脚光を浴びることとなった。

私はフーコーの著作はかなり読んだ。フランス
現代思想を学びたかったわけではなく、「世界」
を分析する一つの道具として有効だったからだ。
あくまでも道具だ。だから、かぶれた連中がシ
ニフィエがうんたら、シニフィアンがかんたら
などと得意げに話す連中が愚かしかった。

だが、フーコーの「侍女たち」解釈には釈然と
しなかった。『言葉と物』に掲載された「侍女
たち」を何度も眺めながら、この特異な構図の
秘密に思いをめぐらせた。ふとある仮説に思い
至った。絵を実際に鑑賞する機会があり、私は
自分の分析に自信を持った。

以下は、私が知る限り誰も述べなかった「侍女
たち」に関する分析だ。この日記を読まれる方
は幸いなり(笑)。

奥の鏡に映っている国王夫妻は他の人物に比べ
非常に小さく描かれている。宮廷画家が国王夫
妻をこのように描けば、即死刑だ。国王夫妻は
絵の鑑賞者の位置に立っている。ベラスケスは
絵の外にいる国王夫妻を描いているのだ。

絵の構図は実に計算され尽くされている。国王
夫妻はベラスケスに次のように依頼したに違い
ない。

「私たちの可愛いマルガリータ王女をいつまで
も愛おしく見つめていたい。絵がある限り、永
遠に」

絵の外でモデルとなった国王夫妻はマルガリー
タ王女を見つめているのだ。国王夫妻は王座か
ら王女を見つめるのではなく、絵のモデルとな
りながら、侍女たちに世話される日常の王女を
見つめている。だから他の人物たちは眼前に国
王夫妻がいるにもかかわらず、緊張した様子も
なくいつものように王女の世話をしている。

国王夫妻の依頼を受けたベラスケスはこの構図
を思いつき、これを夫妻に話して了解を得た。
だから、国王夫妻は奥の鏡に小さく描かれても、
もちろんベラスケスを死刑にはしなかった。

重要なことは、国王夫妻は絵の外に立ってマル
ガリータ王女を見つめているのだが、この位置
は絵の鑑賞者の位置でもある。すなわち「鑑賞
者=国王夫妻」であり、この絵が存在して鑑賞
者がいる限り、マルガリータ王女はいつまでも
優しく見つめられているのだ。

もう一つ重要なことは、国王夫妻の要求を実現
させつつ、ベラスケスは自身をも絵の主人公に
したのだ。実に大胆な画家であった。

この解釈でいかがだろうか?

以下はミッシェル・フーコーの解釈の要約だ
が、これでこの絵の構図の秘密が分かったと
思う人はほとんどいないのではないか。

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http://borges.blog118.fc2.com/blog-entry-1318.html
A) 描かれた画家(ベラスケス)は我々観者を見つめている。見つめながら、おそらく我々のうちの「誰か」を描いている。しかし画廊を想起すれば判るように、我々は必ずしも一枚の絵画のみに立ち止まらない。したがって我々は絶えず「交替」していくことになり、ベラスケスにおける客体は常に流動的である。「観る」という行為の主客関係においては、我々が観ている存在でありつつ、同時に観られている存在でもある。主客の交替、目まぐるしい流動。

(A-2) 我々観者は、ベラスケスの眼差しをメディウムとして、自分自身を見つめている。

(B)《ラス・メニーナス》を規定する視座、ポジションの三角形というものがある。一つ目の頂点は「描かれたベラスケスの目」であり、二つ目は「不可視である我々のいる領域」、三つ目は「ベラスケスの描いている見えない絵の内部形象」である。これら三つの視点が互いに重合する絵画空間が《ラス・メニーナス》に他ならないが、実は三角形の中心には「国王フェリペ四世と王妃」のいる真に重大なポジションが存在する。

(C) 画面の前景にいる王女と侍女たちは、我々の方を見つめている。しかし後方の鏡面には、ちょうど我々観者のポジションに重合するかのようにして、「国王フェリペ四世と王妃」が存在している。彼女たちが見ているのは国王と王妃である。にも関わらず、二人のいるポジションは絵画空間の外部としての観者のポジションとも重なる――このように、ベラスケスにとっての「客体」は二重化している。

(C-2)ベラスケスの師パチェコは、「イメージは枠から<外>へ出なければならない」と述べていた。

(C-3)前景の少女たちのそれぞれは、マルガリータ王女とその侍女、及び小人である。王女は空間の「軸」に存在する。本章二節でフーコーは「画家のモデルである二人の人物」として、スペイン国王妃をはっきり明示している。

(D) 奥の「階段から覗いている男」は誰か? それは明らかではないが、フーコーは「空間への訪問/退却」という運動において「宙吊り」にされた存在者として位置付ける。

(E) 最も重要な核心であるが、我々観者のポジションに重なって存在しているはずの「王と王妃」(「コンポジションのまことの中心」)は、この絵画空間に位置する総ての人物のポジションを秩序付けしているにも関わらず、姿は「鏡面」の中に退隠している。フーコーは「表象と基礎付ける者の消滅」とか、「本質的な空白」などと表現している。

(E-2)王はマニエリスム的なillusionismを感じさせる。彼らは支配すると同時に、姿を見せない。何らかのカフカ的空間と表現することも可能であろう。また、これは「王の不在」でもあり、近代の黎明を象徴する「神の後退」を象徴化しているとも解釈できる。主客が宙吊りにされ、脱中心化されたポジションによって中心者が逸れているという視座は、「近代的な視の体制」として規定することができる。
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