幕末史の整理と題して、かなり遠回りに幕末史を確認作業したが、
一度目の黒船来航である「ピッドル来航」での幕府の対応ミス、
孝明天皇の「異国嫌い」とその変節、
外様大名の複雑な対幕府感情などが複雑に入り乱れている事を
再確認した積りである。
幕府は将軍家、御三家、親藩、譜代大名で要職を固め、
関ケ原以降に幕府に恭順した外様大名(当然、西日本に多く分布)を
抑圧し続けて来たために、表面上は幕府に従順でも
現場の武士や領民には複雑な感中が渦巻いており、
加えて大名や家老などの重臣においても一筋縄では行かなかったのである。
この時期の政局や人間ドラマを楽しむのが幕末小説の醍醐味であるとは
充分に承知しているが、僕個人としては、
実在していたのは間違いない、坂本龍馬や
新選組の活躍がどの程度のものであったかは甚だ疑わしいと考えている。
間違いなく、京都の政局に影響を与えたであろう坂本だが、
剣術の達人であったと言われているのは、
司馬遼太郎の小説で殊更に剣豪と描かれた事と、
どう考えても「輩」の類である筈の殺人集団の新選組も
ロマンティックな描写で有名になり、
またそれらの影響を強く受けた後続のフィクションで
本当のところの推測が出来ないくらいに事実が覆いかぶされて
しまっているのである。
勿論、小説は相当程度の事実や残された書簡を基に
本人たちしか知りえない細かい会話や機微を描くものであるから、
鵜呑みにすべきでない事は多くの人は理解した上での
その後の反応であるから、多くは願望が働いていると言うしかない。
例えば、幕府の命を受けて京都の治安維持に努めた新選組ではあるが、
本当のところは不足する戦力を浪人や農民階級から補充しようという
幕府側の窮余の策に乗じて、京都市内で無法を働いていた狂人集団と
言うところが、冷静な判断ではないだろうか。
佐幕=幕府を佐(たす)ける)、という大義名分はあったが、
彼らに幕府の開国政策の是非を議論する知見があったとは
到底考えられない。
しかし、かなり高い戦術知能を持って戦闘に臨んでいるので
単なる阿呆の集まりではない。
つまり、やりたい事をやるために立場を利用していた、
と考えられるだろう。
武士ではない彼らが最も武士らしく「士道」を追求したと
言われているのがその証拠である。
それまで威張り散らしていた武士階級に
「農民も努力すれば成れる」という甘言に踊らされ、
剣術などを駆使した暗殺行為に走ったと言えばそれまでで、
彼らの目指すところがどこにあったかは最早真相には辿り着けまい。
とは言え、支配階級が貴族化する事を繰り返す我が国の特徴を
彼らの存在が表していると考えると、
彼らもまた階級闘争に身を投じていたと解釈されるのである。
「新選組」が結成される経緯は
尊皇攘夷派とされていた清河八郎が佐幕派を装い、
京都に向かう将軍の警護を名目に
武士や浪士を江戸で集めて上洛した、
「浪士組」が始まりである。
清河は京に入ると
「真の目的は攘夷の実行だ」と言を翻した。
「話が違う」と江戸に戻る者、京都にそのまま残る者に
隊は分裂してしまう。
そこで引き続き京に留まり、
不貞浪士を取り締まる佐幕派の私兵集団として
改めて結成されたのが「壬生浪士組」で、
これが後に晴れて「会津藩預り」となったのが
「新選組」なのである。
この経緯には不思議な出来事が幾つも重なっている。
「尊皇攘夷派」と知られていた清河の元に
どうして佐幕派が多く集まったのか。
或いは、明らかに身分も低く怪しい集団であった筈の
「壬生浪士組」が正式に「会津藩預かり」のお墨付きを得られたのか。
その後も京の街でテロ行為同等の乱行を、続けられたのか。
恐らくは、清河は武士としてのお務めを果たすチャンスだと
武士ではない剣士にあちこち声をかけたに違いない。
集まったメンバーは恐るべき多岐に渡っているが、
江戸の名立たる剣道道場に通う者が大半である。
土佐の坂本龍馬も、長州の桂小五郎も、出羽の清河八郎も
皆、郷里を離れて江戸で剣術修行などで腕を磨いていたのである。
この時、幕府や藩からきちんとした役割を与えられている、
ホンモノの武士は参加していない。
幕末の武士とはいわば「官僚」であり、
剣の腕や槍術でお勤めが果たせる要素は殆ど無く、
どちらかと言えば算盤が出来たり、読み書きが出来たり
幕府がもたらした泰平のために武士の役割が変質し、
剣道は精神を磨くには持って来いだが、
それを発揮する場が無かったのである。
ところが、黒船騒動で「剣で攘夷を果たす」という
幻想が生まれた事で、色めきだっていた層が存在していた。
それが剣道場に通う下級武士の面々である。
彼らは普段は物凄く低い扶持を貰うだけの下級役人か
或いは「いざという時は幕府を守る」というだけの事実上の農民、
いわば屯田兵のような位置付けの者ぱかりであり、
清河からの誘いは「千載一遇のチャンス」と映ったに違いない。
冷静に考えれば、清河は攘夷派だし、
ホンモノの武士が「よろしく頼む」とお墨付きを与えた訳でもない。
「志のあるもの、集まれ」としたところに
清河の狡猾さが窺えるというものである。
兎に角、集まった者たちは武士とは到底呼べない武士か
武士になりたい農民や町人、はたまた郷里を離れ藩を離れた
浪人たちが多く集まったのである。
ここではきっとイデオロギーよりも「武士としてのお役目」が
彼らにとって重要だったはずで、その結果、
清河の最初のペテンはスルーされたのである。
上洛した彼らが、
どう見ても「怪しい集団」なのは明白なのに、
「会津藩預かり」と半端ながらも武士であるお墨付きを得られたのには
幾つかの説と理由があるが、
最も有力な説というのが、初代局長である芹沢鴨の実兄が
会津藩の要職に就いていた、という事が大きいと思う。
そして「会津藩預かり」というのは、
当時の京都守護職を務めていた会津藩主・松平容保に
お墨付きを頂いたという意味である。
そもそも将軍の座を脅かしかねない、
権威だけは突出した天皇=帝と朝廷という政庁は、
実力を殆ど持たない存在として、
江戸末期までの数百年間は軽視されていた。
徳川将軍の世襲においてもいちいちお伺いを立てたのではなく、
家康が健在時に既成事実として世襲を成立させるなどし、
精々、代替わりした時に官位を貰いに行くなどの挨拶しかしていなかった。
朝廷と帝のおわす京の都を守る役職は、
朝廷に「京都所司代」という立派な役職があり、
彼らが果たすべきであったが、肝心の武力を持ち合わせていないので
これを幕府が直接守る役目を作ったのである。
これが「京都守護職」である。
遡れば平安時代にも「検非違使」などという、
京の治安維持部隊を作るには作ったが
血の穢れを極端に嫌う貴族が、武士にこれを丸投げした辺りから
朝廷には武力の実力組織は機能しない時代が続いていたのである。
いわばそれが「武士」の始まりであり、
「京都守護職」は幕府の特権と言っても過言ではなかった筈である。
ところが徳川三百年の泰平の間に、
幕府も貴族化というか官僚化してしまい、
混乱の幕末期に京都を実力で治安維持するだけの力を
幕府本体には持ち合わせていなかった。
そこで、武門の誉れが高い会津藩の親藩大名、会津松平家に
これを命じたのである。
会津藩も、財政的にはかなり苦しく、
またお家騒動などもあったりで受けたくなかった筈であるが、
家訓に「将軍家をお助けしろ」という強い意味合いがあり
断り切れず、藩主・松平容保は京都守護職に就いてしまうのである。
しかし会津藩も通常期ならいざ知らず、
黒船騒動、尊皇攘夷などで沸き立つ政局の中心として、
全国の諸藩が続々と上洛して睨み合う京を守るだけの力は足りず、
渡りに舟、のタイミングで申し出てきた私兵集団に
「よろしく頼む」とやってしまったのである。
これが、新選組の「会津藩預かり」の背景である。
彼らが「人斬り集団」として恐れられていたのは事実だが、
その彼らが粛清の対象にならなかったのは
「佐幕派」だったからである。
つまり、幕府の統べる世の中では「正規軍」寄り、とでも
或いは正義の集団とでも言えるだろうか。
そういう立ち位置にあったからである。
だが、全国から最新の情報が集まる京の街では
「刀の力だけでは、この国難から日本は守れない」
「欧米列強の圧力に対抗するのに、内乱をしている場合ではない」
「今の幕府の弱腰では対処しきれない」
と議論されている最中に、
攘夷派の志士を片っ端から斬るという行動は、余りにも
時代を読めていないというか、反動的であるとしか言いようがない。
治安維持という観点と幕府を守る守旧派の行動としては、
「正義」は間違いなく新選組にあるのだが
肝心の幕府自体が武士の棟梁を頂に置く組織であり
その武士道を尖らせていくと尊王攘夷に向かってしまう。
尊皇攘夷を進めていくと倒幕に向かったり、
天皇による親政を目指したり公武合体だの雄藩連合に向かうのである。
新撰組自体が時代を動かすつもりは無かったからこそ、
盲目的に「人斬り」が続けられたのであり、
彼らに迷いが生じていたら、もっと早期に空中分解したに違いない。
しかし、結果的に佐幕を選択した経緯については
「武士階級になりたい」という階級闘争が理由で
真に政治的な目的があったのだろうか。
僕はそう考えるのである。
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