前項では幕末ドラマの「幕末」が何時なのか、について
結構のんびりと遠回りして説明した。
間違いなく契機はペリー来航の1853年だが、
そこから大政奉還までの1867年を「幕末」とするのではなく、
その直前に来航して追い返されたピッドル提督来航の1846年から
コトは始まっていると指摘した。
追い詰められた幕府は兎にも角にも開国に舵を切ったが
ピッドルを追い返した事で強硬策に出た米国と不平等条約を結ばされ、
「異国嫌い」の孝明天皇の勅許を取らずに独断で開港を進めてしまう。
その結果、幕府の不甲斐なさを責める尊王攘夷派の急進派グループに
時の大老・井伊直弼を暗殺されてしまうのである。(桜田門外の変)
幕府は公武合体を模索しつつ、自力で開国路線を進めたいが、
国内は「尊王攘夷」という熱病に冒されたような状態となり不安定になり、
遂に「朝敵」とされる寸前にまで追い込まれるのである。
幕府中枢は将軍家に従順ではあっても
些か封建的で時代遅れで対外戦力に弱みのある
譜代大名と親藩で固められており、
その上、水戸家など勤皇グループと
将軍家の開国推進グループに分断されていた。
直接は外交をしない(できない)朝廷(孝明天皇)が、
面倒事を避けて「攘夷」などと言うので、
幕府は止む無く開国に至った経緯などを配慮せず、
勅許無しで開港した幕府を非難し、
幕府中枢から遠ざけられていた外様大名を
「尊皇攘夷」の旗印で引き寄せ、
「征夷」大将軍なのだから、将軍が攘夷を実行しろ、と迫ったのである。
その結果、朝廷から幕府に突き付けられた条件として
幕府による「攘夷」を約束する事になってしまう。
しかし、この「攘夷」は横浜港の鎖港に留まる生温い結果に終わり、
抑えられなかった攘夷派の先鋒である長州藩のみが
外国船を襲撃するという突出が起きてしまうのである。(馬関戦争)
一度は不意打ちで戦果を収めるも、報復に現れた列国連合軍は
長州藩をコテンパンに討ち果たし、言うに事欠いて
「幕府の命に沿って攘夷した」と敵国に宣った事で
さらに幕府は苦しい立場に追い込まれていく。
確かに幕命は攘夷ではあったが、
武力での攘夷を直前で撤回するなど二枚舌のような展開になり、
長州からすると漸くこぎ付けた勅命に基づいた幕命による攘夷実行であり、
混乱を生む原因は幕府側にもあったと思われる。
恐らくは長州には制止の声が届いていた上で、攻撃したに違いない。
幕府からすると長州藩による突出、暴走とするしかない。
現実に攻撃を受けたアメリカとフランスの商船に対する賠償は
長州藩からではなく幕府が行っており、
幕府側には一定の責任を認めざるを得ない状況だった筈である。
その後も長州は完膚なきまでに叩きのめされはしたが戦闘を行ったため
幕府は長州藩を処罰せざるを得なくなり、
攘夷派の旗手である長州藩を征伐する事になった。
その頃の京都の政局は、帝のお膝元でもあった事で
尊皇攘夷派が幅を利かせていた。
テレビドラマなどで良く描かれているのは
この頃の京都の幕末である。
各藩も兵を集めるなどして小競り合いが起きつつあったが、
会津藩から京都守護職に松平容保を置くなどして
辛うじて幕府側もこれを抑え込んでいた。
何度も繰り返すが、ここで整理しておく。
幕府は「開国路線」
親藩(徳川家ゆかりの一門)と譜代大名(関ケ原以前からの家臣一門)で
要職を固め、鎌倉時代から続く「帝はお飾りで実権は武士政権」を継続したい。
国内統治については強権的で外様大名(主に関ケ原で西軍だった大名)を
抑圧しつつ、幕命に恭順する藩の地位は安堵された。
経済的には重農主義により飢饉などで度重なる危機は訪れていたが
都度解消し、貨幣経済の導入で持ち堪えていた。
紀州藩、尾張藩は「御三家」で徳川家だが、
水戸藩は御三家ながら設立時から「勤皇藩」担当で
異色の存在だった。徳川家でありながら「鎖国継続」を唱えていた。
親戚筋は「松平」を名乗り、各地で外様を監視するなどしていた。
これらは幕府に追随し
西日本に多く展開する外様大名の中では
江戸から遠くの九州で最も力を持っていた薩摩藩が
幕府との融和政策を成功させていたが、逆に幕府から最も警戒されていた。
薩摩藩に好きにさせないために長崎に奉行所を置いて
幕府が直轄し、海外勢力との交易窓口を幕府は独占していた。
薩摩藩は事実上征服して領地としていた琉球を通じて
東アジア諸国と間接貿易を行っていたが、
幕府から国力の削減を狙われ経済的には困窮していた。
表向きは公武合体路線に同調し幕府に従っていた。
長州藩は下関などでの交易で経済的には富んでいたが、
西洋式軍備を長崎から整えられる幕府軍に対抗できるだけの軍備はなく、
一方で、軍備はあるが経済的に苦しい薩摩藩は「長州を攻めよ」と
幕府に命じられれば、それを断る事が倒幕の嫌疑が懸かる恐れがあり
抜き差しならない所歌だったのである。
この両藩がそれぞれ西日本に鎮座している事が幕府にとっては
一つの脅威であり、長州が「尊皇攘夷」の旗を振りながら
天皇や公家の身柄を確保せんと京都市街に跋扈し、
倒幕の機運を高めんと政局をも揺さぶろうとする事に
強い危機感を抱いたのである。
そんな折に京都守護職と薩摩藩は結託し
御所護衛を名目に入京した軍勢で長州藩を追放し、
一気に京都の支配を収めるというクーデタに成功する。(禁門の変)
後退を余儀なくされた長州勢はさらに態度を硬化させるが
こと長州征伐に事が及ぶと
薩摩藩は幕府の長州征伐に強い危機感を抱き、
「長州の次は薩摩か」と疑心暗鬼に陥り、
幕府恭順路線から雄藩連合を目指す道を模索し始める。
この、いわゆる長州征伐が時代の引鉄を弾く事になるとは
この時点では誰にも予想されていなかったと思われる。
そして長州藩は、外国勢に全く歯が立たない事を
身をもって知る事で、明確に幕府に対して危機感を抱く。
近代兵器をもって幕府軍に対抗する事は、
諸外国への対抗策になる事も意識されたに違いない。
蒸気船や殺傷力の高いライフルのミニエー銃を手に入れるなど
より強硬な姿勢を固めていくのである。
土佐藩に至っては、関ケ原の後に山内家が土佐に来た事で
それまでの領主であった長宗我部家の家来衆の武士を身分差別などしたため、
不満が爆発しており、被差別対象となった武士層を中心に
「土佐勤皇党」なる組織が結成され各地で暗殺事件を繰り返していた。
土佐は譜代であるから藩論は「佐幕」である。
「勤皇」党は「倒幕」に繋がりかねない危険分子となったのである。
有名な坂本龍馬も当初は勤皇党に属していたが、脱藩。
開国して軍備増強を目指す勝麟太郎の元に走ることになる。
後に江戸無血開城まで導いた勝の非戦路線は坂本の海援隊設立にも
大きく影響を与える事になる。
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