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2024年02月12日02:30

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近畿の県名の由来 仮原稿

書き溜めている文章の中の一つのテーマが
「ものの名前」である。
過去にも色々と「ライスバーガー」は物凄く気持ち悪い、とか
述べてきたが、その系統として「地名」を選択した形である。

以下、「県名の由来」として書いたものである。
まだ途中であり、推敲も検証もまだである。

<序章>
 県名の由来には首を傾げるような経緯が多い。
そして、往々にして「県庁所在地」を定めた経緯に影響を受けている。
 「県庁所在地」は、明治維新最大の改革と言われた「廃藩置県」の手続きを経て定められたのだが、「大日本帝国憲法」が発布されるまでは藩の政庁に代わって権力の中心となった「裁判所」がその役割を担っていたのである。そしてそのまま県庁の前身となっていたのである。

 幕末期にあった300弱の「藩」には、それぞれ統治者、即ち「お殿様」が居たわけで、
彼らは基本的に世襲であるから「お世継」即ち継嗣を用意する必要があった。
それらの任命権は幕府が握っているが、「山田が隠居するので山田二世に代替りする」となれば、それを理由もなく幕府が拒む理由はない。つまり世襲が前提だったのである。
 寧ろ後継者が擁立できない藩は「お家取潰し」か「他家からの養子縁組」しか道はなく、現代のようなM&Aや業種拡大は出来ない上に、戦争で豊かな隣国(藩)を奪う事は幕府から禁じられているので、富める藩、つまり選択肢が多い藩と貧しい藩の格差は石高以外でもかなり大きかった、と言われている。
 廃藩置県時に単純にギブアップ(今で言う破産宣告)をした藩も少なくなく、重い責務と引換えに与えられた数多くの利権を奪われると藩政維持が出来ないところも次々と現れたのである。

 「廃藩置県」では二度に渡り大規模な統廃合を行い、ほぼ現在の県域に当たる「県」となったが、旧律令制の「〇〇国」を県名とせず、県庁所在地の郡名を県名にしたケースが多い。
 そこには新政府の基盤が不安定な時期に士族(旧武士)の反乱を恐れたとも、複数の律令国を束ねて一つの県にしたための公平性を保つためとも言われるが、「旧〇〇国」或いは「旧〇〇藩」がそのまま「〇〇県」に改称したパターンは比較的少ないのである。


◆奈良県
 歴史の授業で突然教えられる「奈良時代」だが、当時は「大和国」とか「ヤマト朝廷」だった筈なのに、そう呼ぶ理由や、いきなり現在の「奈良県」という呼称になった経緯に説明が足りない。県民も違和感を覚えて然るべきところなのに、そこはサラッと流してしまうのは何故だろうか。
 「奈良県」の県名の由来は、現在の奈良県の県庁が奈良市に置かれた事に由来しており、奈良市の地名の由来は前身が奈良府であった事に由来する。面倒くさいが最初は順を負う事にする。その奈良府の由来は当時の地域名だった「添上郡奈良」に由来しており、添上郡奈良の由来は平たい土地を指す「添(そほり)」にある「均(なら)した」土地である現在の奈良盆地に字を当てたものである。
 その盆地と京都の街区(への道)を隔てた山が「平城山」と呼ばれる土地であり、その読み方も「ならやま」なのである。いわば、由来の由来の由来が平城山(ならやま)である、と言うのが正しい説明かどうかは分からないが、廃藩置県の後、府県の再統合を繰り返した結果誕生した県であり、元は奈良府で後に大阪府の一部となり、再び分離して奈良県になった、のである。意外かも知れないが、「大阪の一部」扱いがあったこともあるのである。

◆滋賀県
 滋賀も前述の奈良同様に、廃藩置県後の再統合の折に県庁所在地のある大津市が属していた滋賀郡から県名を定めている。古くは律令制度で区分した近江国(おうみのくに)と珍しくほぼ一致するので“近江県”でも良かった筈だが、江戸時代はこれを細かく藩で分けており、これを維持しながら再統合の結果、県庁のある大津に由来する県名となったため、そうはならなかった。
 その滋賀郡の由来は、色々と言われているが「滋賀院」という寺社領から広く採用された地名である。比叡山坂本駅から徒歩で行ける日吉大社の周囲は「滋賀院」の看板が溢れている。この滋賀院領が現在の大津市の市域を広く占めており、この土地が古くから「滋賀」と呼ばれていたのが名前の由来である。
そして、この「滋賀」とは“石の多いところ”を指す言葉の当て字なのだそうだ。少なくとも滋賀院はそうらしい。

◆和歌山県
 文字面からすると雅やかで京の都に匹敵する雰囲気を持つ県名だが、ご当地の雰囲気は今となっては鄙びたど田舎を地で行く土臭い県である。高層ビルは県内に一棟もない。大阪方面からは居る時に高速道路から見下ろす風景が和歌山市全域とは都会の人間には夢にも思えないだろう。しかし、海洋資源にも満たされた、ああ“自然豊かな”と云えば角も立たないか。
 ただ、県名は秀吉が築城し命名した「和歌山城」に由来する。旧国名は「紀伊」であり、地名や地域としては今も紀州と呼ぶ事も多い。そして藩名も「和歌山藩」だったのだが、江戸時代は誰もがこの地を「紀伊」と呼ぶので正式名称の「和歌山藩」とは呼ばれる事は少なく、紀伊藩、紀州藩、紀伊和歌山藩など、呼ばれ方にはバラつきがあった。
 ここの城主が「紀伊徳川家」と云うのがミソである。明治維新に於いて最大の反乱軍は徳川家を戴く武士たち“士族”であった筈だが、こちらの紀伊徳川家は将軍家には与しない御三家だった事で士族の求心力が低く、また徳川幕府による相互監視システムで岸和田藩の徳川氏(岡部氏)とにらみ合いをしていたお陰で、富める藩では無かったようだ。
 「廃藩置県」も和歌山藩の藩政改革の瓦解が大きく起因しており、西洋式の軍隊の導入や組織改革は図らずも全国のモデルケースとなった。特にお殿様の徳川家の財政を切り離すという大改革が成立した事で、士族への大きな戒めに繋がった事は意外と知られていない。「徳川家も従う改革」の効果が大きかったのである。
 和歌山城の由来は、古くから知られたご当地の「和歌の浦」であり、秀吉の時代は「〇〇山」を城の名前につけるのが流行っていたとも言われ、城の名前を「和歌山城」と名付けているからである。そこにそのまま県庁の前身の裁判所を置き、県庁としたのである。

◆兵庫県
 兵庫県出身者の多くに出身地を問うと、かなりの確率で「神戸の方」と回答がある。しかし、県民530万人のうち、神戸市民はわずか150万人であり、もっと多くのエリアの人が「神戸」を名乗っている印象がある。
 電車で30分の距離にある大阪市との間にある阪神地区の住民や北部隣接の三田市や三木市、西側に隣接する明石市、更には海を隔てた淡路島の島民までが「神戸の方」などと言うからこうなるのである。しかも西区や北区は「どこが神戸やねん」とツッコミを受けるほどの「インチキ神戸」であり、注意してもらいたい。(笑)
 しかし「神戸の方」と答える人が「兵庫の方」と答えるより圧倒的に多いのは、「名古屋」「横浜」などと同じく、県名より県庁所在地市名の方が名が通っているからに相違ない。
 無論、県庁や裁判所があるのは元々“兵庫”と呼ばれる地域には在ったのだが、その由来は幕末に開港した「兵庫港」とその守りの為に開設した「兵庫鎮台」にある。古くからちゃんと「兵庫」と云う名の政庁があったのだ。しかし当時は「摂津国」の一部であり、何なら現在の大阪府北部までが県域だった。そこで廃藩置県で再編がされる際に現在の兵庫県南東部に区分けした兵庫県(第一次)を発足させ、後に姫路を中心とした「飾磨県」、「淡路島」、北部の「但馬県」を組み入れて、大阪府北部の「豊崎県」を切り離して、現在の兵庫県(第二次)に組替えたのである。
 「兵庫」という名のの由来は奈良時代に開港した「大輪田泊」が「兵庫の津」と呼ばれる場所に出来たのが始まりで、それが現在の「神戸港」に連なるという長い歴史がある。その所在地名が「神戸市兵庫区」であり県民からすると「兵庫」とはこの地を指す時に呼ぶので、「ご出身は?」の問いには「兵庫」と答えにくいのである。「えっと、兵庫じゃなくて…神戸の方」は実は自然なのである。(笑)

◆三重県 東海地区の時に触れる

◆京都府
 唯一無二の都道府県名の正統派の由来を持つのが「京都」である。そもそも平安時代にこの地に都を置いてから、明治時代に天皇の拠点を東京に移すまでのおよそ千年(平安京が794年に置かれたとすると、明治の始まりが王政復古の詔の1867年とすれば1074年の計算)の間、都だった事になるのだ。
 もちろん、平安京を「平安京」と呼んでいたわけではなく、帝=天皇のおわす場所として“みやこ”と呼べば当時は良かったわけで、「京都」と呼び始めたのは鎌倉時代に入って、鎌倉という政庁が機能してからという事になる。帝を守る、或いは見張るという意味で「京都守護」を置いたのが「京都」の始まりだと言われている。言い換えれば、それまでにこの地を「京都」と呼ぶ考え方は無かったわけだから、言い出しっぺはこれである。
 ただ「遷都」という考え方が無かった当時は、御所を幾つも造っても「都とは京都」という概念は強く、それを覆しきれなかった事は東京を「東の京」と書いて読んでいる事からも示されている。現在の御所が江戸城があった場所にあり、天皇がそこに所在する事でようやっと「かつての京の都が京都」として定着したのである。
 そして、第二次世界大戦でも連合国軍に空爆されずに済んだこの古都は「京都」のまま保全されていたのである。

◆大阪府
 最も知られて良い筈だが、知らないのが大阪府の府名の由来である。
勿論、「大阪城」が由来であり、今も府庁はお城の前にあり、そこから取ったのだが、では何故「大阪」なのか。
 有名な話として「大阪」は江戸時代まで「大坂」と書かれていたのだが、明治に入って「坂」を「阪」に改めた。前述の通り、「士族の反乱」を恐れた明治新政府が「士が反する」と書く「坂」の字を嫌ったとも言われ、道の勾配を指す同じ意味の「阪」に置き換えたと言われる通説が有名である。何れにしてもその地名の由来は、大きな坂があった事が由来である。
 現在の天王寺区付近には、聖徳太子が開闢したと言われる四天王寺の奈良時代から、平安時代に安倍晴明が開いた阿部野神社まで、古くから市街地が展開していた事が窺えるのだが、この辺りは「上町台地」と呼ばれる丘陵地帯で、この地から大坂城のある天満橋付近までが「大きな坂」だった事に由来しているのである。
 そして、四天王寺も難波も天満橋も皆、その当時の岸線に当たるエリアであり、言い換えればそれより大阪湾側は皆、海だった事を意味しているのである。現に今でこそ、陸地の真ん中で市街地面している梅田は「埋め田」の当て字であり、「難波」は「浪花」の当て字で海岸線だった事が知られている。大阪市域の西半分は秀吉、家康時代に大幅な灌漑事業が進められて出来た埋め立て地であり、海に関する地名が多い上に、現在も碁盤の目のような道で出来ているのである。
 有名なエピソードとして知られているが、信長は現在の大阪城にあった難攻不落の「石山本願寺(石山御坊)」を9年間も「海上から包囲」し屈服させるなどしてこれを落としたと言われている。これは、当時は現在の大阪城が海に面したロケーションだった事を意味しているのである。
 ということで、大阪城のある地域から四天王寺に至る今の谷町筋は高台にあり、巨大な坂道だった=「大坂」と示されるのである。

 但し、市街地として栄えたのは大阪城築城以降で、それまでは堺や岸和田といった海運業で潤う大阪南部が市の中心であった。信長の時代までは戦うための城と政庁としての城は必ずしも一致して居らず、天守という概念も確立して居なかったが、織田氏の安土城や、後北条氏の小田原城のような総合的な役割を果たす巨大城郭を秀吉が成立させた事で、天下人の居城の城下町として急速にかつ劇的に発達したのが、大阪市中心部の歴史の始まりである。そのお陰で、京都や奈良、堺などの古くから発展した都市部からは、“ポッと出”の存在として軽んじられはしたが、信長も目を付けていた大阪のロケーションは経済発展に適したロケーションであり、京都とともに「上方」と呼ばれ、後の江戸と同様に世界で最も経済的にも文化的にも発達した街だった時代を迎えたのである。
 県名に影響を与えたのはこの時の城の名前、城下町の呼び名、経済圏の呼び名が「大坂」だったからに他ならず、律令制での行政区分は「東成郡」、「西成郡」だったわけで、それとは違う経緯だという事である。
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