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2023年02月05日18:32

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三英傑って言ったって。。。

名古屋界隈では「三英傑」といって
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の愛知県出身の「天下人」を
尊敬を込めてそう呼び、祭りのシンボルにすらしている。
しかし、織田信長は所領こそ名古屋にあったが、
清須城(愛知県清須市)からキャリアを固め、
最初に開発した拠点は岐阜の斎藤氏から奪った稲葉山城を
「岐阜城」として改めたとこからと言われている。
※生誕地は名古屋城内にあった「那古野城」とも

また、長く江戸幕府を反映させた徳川家康は
名古屋のある尾張国出身ではなく、隣の三河国の岡崎城の
城主の息子として生まれています。
現在の名古屋城は確かに家康が建てたものだが、
初代城主は家康の九男・義直である。
築城を命じた当の家康はもちろん、城主の義直も江戸にあり、
※家康は駿府に移住
城代を置いて本人は死ぬまで入城もしなかったというから、
彼らを名古屋のシンボルにするには些か寂しい話である。

従って、生誕地もキャリアのスタートも厳密に「名古屋」と呼べるのは
残る豊臣秀吉のみであると言える。
彼は現在の名古屋市中村区の農民の息子であり、
そこから人類史上もっとも「成りあがった」人物であり、
名古屋人は最も愛すべき「おらが村のヒーロー」である筈だ。
ところが、三人の中では秀吉が最も名古屋では人気が無い。
何故なら、彼の象徴である城は「大坂城」であり、聚楽第であり
伏見桃山城だからである。
名古屋の史跡として扱いにくいものをシンボルとして抱えているから
崇めにくいのである。

信長と秀吉が名古屋を一大商業地として大きく成長させたのは間違いない。
家康はそれをそっくりそのまま召し上げただけである。
日本屈指の寺社の一つである熱田神宮の寺社町として、
そして東海道と中山道の合流の地として発達した名古屋ではあったが、
産業として大きく成長したのは室町後期に栽培が始まった
綿花による木綿産業の一大生産地&販売地としての成功が大きい。
それまで主流だった紙や麻で作られていた衣服が、
軽くて丈夫で着心地が良い木綿製品に変わったのはこの地での発達が大きい。

そもそも苧麻(からむし)から木綿に繊維が移り変わる契機を作ったのは
斎藤氏とも織田氏とも言われているが、大きく貢献したのは
江戸時代以降の生産推奨によると言われている。

さて、そういった「デコボコ」を殊更に有耶無耶にしてしまう
「三英傑」だが、いずれも「天下統一」を果たした戦国武将として
ひとまとめにしてしまうと、それこそ宜しくない。
信長が尾張の一地方領主の分家の嫡男に過ぎない立場から身を成した存在で
歴代の家臣団というものを持たなかったのに対し、
今川家に従属こそしていたが家康は松平家の出身で
守るべき城も父祖からの家臣団も揃っていた。
それも他家が羨むラインナップで。
この差この違いは果てしなく大きいのである。

ただ彼らは三河の岡崎の家臣団であり、
名古屋に縁もゆかりもないのである。
一方で秀吉も譜代の家臣団はなく、
信長配下時代の同僚や親戚筋の武士で家臣団を形成したのである。
正室の大政所(ねね)が武士の娘であったため、可能だったのである。

福島正則や加藤清正は天下に名だたる武将だが、
秀吉の親戚筋であり名古屋出身である。
僕は彼らなどの秀吉とその宿将たちこそが
「おらが村のスーパースター」として祀られる対象で
あった方が良いと思っている。

ところで戦国時代の「革命児」的な扱いを受けている信長だが
彼が最も長けていたのが人材活用術であり、
最も弱い部分はその維持にあったと言われている。
彼が革命の歯車を力強く回したのは事実であり、そこは一切否定しない。
彼の功績で最も称えられている事の一つに
「楽市楽座」というものがあるが、
実はこれを最初に採用したのは越前の朝倉氏であり、
地元の寺社勢力を抑えて「法治国家」建設に成功したからこそ
実現した事なのである。
名古屋は寺社町、宿場町として発達した経緯から
寺社勢力が強かったため実現が難しいと目されていた地域で、
そこに信長が実現した事が偉業なのであり、
「楽市楽座」を発明したわけではない。
つまり、ナイスアイデアを領国に落とし込む天才なのである。

また家臣団が脆弱だったのにこれを補完する力も天才的だった。
織田家臣団の宿老筆頭は後に信長の妹・お市を嫁がせた
鬼権六こと柴田勝家であるが、
父の信秀死後に織田家内紛の時は
信長勢と弟・信行勢に分かれて戦が行われたのだが
この信行勢の家臣筆頭、信行を担いだのが柴田勝家である。
信長は信行を破った後、信行と勝家を許し配下に加えている。
再度歯向かった信行は謀殺されたが、勝家は信長の筆頭家老となった。

また素性の怪しい明智光秀や、のちに謀反を起こす松永久秀ですら
信長は配下に従えたわけであり、有能なものを引き立てる事で
有能な家臣団を形成する事にかけては天才的であったと言える。
その最大の「成功例」が秀吉の起用である。
一介の足軽頭が信長存命中に宿老幹部にまで出世したのは
世襲制や身分制が不可逆的な存在であった当時では考えられない事であり、
他の名門大名には絶対に不可能な「必殺の人事」であった。

これを応用したのが「兵農分離」である。
領国も狭く人口も多くなく石高も低い尾張において
他国にない強みは経済力だった。

一般に「石高」とは
一人の大人が一年間に食べるコメの量に匹敵すると言われ、
「百万石」とは「最大人口が百万人の国」を意味する。
つまり石高が低い国は動員できる兵力が少ないのである。

人口百万人の国、があったとして、その半分は女性であり
三分の一は老人と子供である。
つまり戦闘員として導入できるのは
百万石なら最大で33〜40万人が成年男子である。
外征をするときは少なくとも半数は領国保護のために残す必要があり、
またそれだけの数の農産体制を維持するには
さらにその半数を残さねばならない。
従って百万石の国であっても他国に攻め入る人が出来るのは
10万人、強めに動員しても20万人が限界であろうといえるのである。
その彼らも戦争が無いときは農業に勤しむ必要があり、
繁農期に戦争に動員してしまうと、
翌年のコメ生産量が落ちてしまうため
繰り返しまたは長期の戦への動員は
国力の低下と衰退を意味していたのである。

ところが信長は経済力で得た余剰金で
専従兵士を増やすことに成功した。
当時の家督は長男が総取りではなく、
次男がその半分、三男がさらにその半分、と
分配していくのが一般的で、兄弟がいる場合の末弟は
主家の下働きに置かれることが多かったのだ。
そこで次男や三男を中心に年中動員できる「専従兵士」を増やしたのである。

当時の兵力の強さは刀や槍による白兵戦が中心だったが
弓矢や騎馬による戦闘は長く訓練を受けた
専従戦闘員である武士による専売特許であり、
彼らの数がすなわち兵力と言っても良かった。
従って、名門でもなく石高の低い織田軍は
同じ数なら他国より「弱い」と目されていたのである。

これを覆すにあたり、
当時国内に持ち込まれた鉄砲(火縄銃)の導入と
その導入に必要な火薬(の原料)が不可欠と考えた信長は
堺など当時から諸外国と交易のある港と交流し、
せっせと軍備を整えたのである。
長期の訓練を受けずとも鉄砲隊は編成可能で、
損耗しても農家の次男や三男は掃いて捨てるほどいるので
補充が容易である。
加えて繁農期に戦を仕掛けることで、
相手より優位に戦えるのである。
こうして「兵農分離」を実現した織田軍が
当時の我が国のヘゲモニーの様相を一変させていったのである。
ある意味これは「革命」と言えるだろう。

これにより、
過去の先入観を一気に覆したのは「桶狭間」であり、
さらにその評判を落としたのが「三方ヶ原」であったが、
再び評判を取り戻したのが「長篠」である事はよく知られているだろう。

この過程で「天下取りの戦」とは白兵戦のみではなく
戦略による戦へと移行していくのである。
これらをはっきりと意識し理解していたは
信長と秀吉と家康だけだったかも知れない。
そういう意味では「三英傑」とは彼らのことなのである。

有能で素性の怪しい連中を重臣に引き立てた結果、
信長は本能寺に散り、その後継の秀吉によって
織田家ごと奪われてしまう。
信長の全国制覇の夢を成し遂げたのは
全てを簒奪した秀吉であった。
既に家督を嫡子・信忠に譲った信長は
健康で余命があるうちに後継者を擁立し、
自身に万が一があってもお家騒動が勃発しないように
充分に手を配っていたのである。
※結果的に親子ともに京都に居たので本能寺の変で討たれてしまった。

歴史観は研究家によって大小分かれるものであるが、
戦に勝って、その後も見据えて展開していたのは
信長の終末期の特徴であると考える人は多い。
早い代譲りは、余計なお家騒動を避ける有効な手段であり、
親子同時に同じ戦地に身を置かないことも
天下人の責務だと考えていたのではないか。

家康はこの点を強く意識してその後の差配をしていたのは
明らかであるし、秀吉は同じように出来ない事から
秀次に家督移譲を健康な内から進めていたようである。

秀吉はこの点とは別の
身分に係る問題解決に苦慮していた。
槍一本で身を起こすことに生涯を捧げようとする
武断派の武将には「戦」以外に出世する術がなく、
常に国内に「戦」を求めようとする動きがある事は
「天下統一」において最大の問題点となる事を予見していたからである。
秀吉は戦争の拡大を回避するために
「兵農分離」を強化すべく「刀狩」を実行した事は有名である。
農民による「槍一本」のサクセスストーリーを封じたのである。
信長は「兵教分離」で東奔西走し、秀吉も家康もこれに従事した。

だが、武士から戦争を取り上げることは最も困難であり、
家康が真の意味で実現した最大の功績であると言えよう。

秀吉が行った「唐入り」と呼ばれた「文禄・慶長の役」は
彼ら武断派のはけ口作りと考える向きと、
秀吉の誇大妄想によるものと考える向きと、
さらに世界情勢の読み違え、と考える向きとがあるが
真相は定かではない。
秀吉はこういった突出した行動は弟の秀長に窘められるなどして
抑制していたが、秀長を失った事で実行に移してしまったとの考えも
あるのである。
いずれにしても「代譲り」で望み通りに事が運ばなかったため
豊臣氏は早々に徳川氏に覇権を奪われていくのである。

三英傑とは言うけれども
秀吉は政権を簒奪しながら信長の偉業の未完の部分を補完し
家康は秀吉のそれをそれして同じようにナニしたのである。
同じような意味は持っていない。
革命を始めたのは信長だけれども。
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