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2020年08月14日11:38

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うらめしや。表うどん屋

この報道を真面目に毎日新聞が報じているのが実に笑える
彼らにとって「遺跡調査」からみ、それも
大阪のキタのそれは地雷のようなものだからである

年配の人は記憶しているかもしれないが
毎日新聞大阪本社の社屋は現在はJR大阪駅の南側、
大阪環状線の線路沿いに200メートルほど福島方面に進んだところにある
住所は「梅田3丁目」なのだが、
人々が「ウメダ」と呼んで親しんでいる地域とは違う

阪急電車の梅田駅の住所が既に「芝田町」
阪急百貨店の所在地も「角田町」
であり、若者が「うめだー」と言って足を運ぶのは
ご存じ「茶屋町」である

件の毎日新聞の本社社屋は、長く「堂島」と呼ばれる
現在の曽根崎新地の西側入り口付近に鎮座し、
現在は「アバンザ堂島」というビルのある場所にあった
それが建て替え時にすったもんだして、現在の梅田三丁目に移転したのである。
この時、当初の移転予定地は梅田でもキタでもなく
別の場所だったと言われている
その候補地が掘り返せば遺跡が出る事が確実視されていた場所で
当然、安く購入した後に国が高く買い上げる事が見越せた場所だった、
というものである。
結果的に代替地として提供されたのが現在の社屋の場所なのである
堂島の旧社屋は一等地であり現在も土地所有し、
ビルは保険会社などと共同保有している
ここで大きく利益を上げた上に、
移転地の転売目的での取得から「インサイダー」とも言える転売で
大きく利ザヤを得た毎日新聞は経営危機を凌ぐことが出来た、
というのが20世紀終わり頃の1991年の話である。

当時、梅田駅の南側は
真南には阪神百貨店、JR大阪駅には大丸百貨店、その南方に
大阪駅前ビル(第1〜第4)が並んで聳え立っていたが
梅田三丁目は大阪中央郵便局とホテル阪神があるだけで
何もなかったのである

ヒルトンホテル大阪は1986年に開業で、比較的古い方だが
その界隈に高いビルといったら、
ヒルトン、ホテル阪神、郵便局、大弘ビルと毎日新聞くらいで
旧ホテル阪神は99年まで存在したが、現在は環状線の福島駅付近に移転した
その跡地に「ハービス大阪」と超高層ビルで超高級ホテルの
リッツカールトン大阪が現れ、モード学園が移転して建ち、
大和ハウス工業ビルが建ち、ダイビルが建ち、安田生命ビルと大阪中央病院が
相次いで建設されたのは2005年頃までの話である

それまでは空き地だったのである
JR大阪駅の西南側も再開発が始まるまでは、
そう、環状線のホームからでも毎日新聞ビルは見えたのである。

斯くして、「遺跡が出そう」「何か出そう」という情報を
どこよりも早く入手しては
土地購入を進めて、国など必要な団体に「それなり」の金額で
買い上げてもらう、という仕組みは毎日新聞に限った話ではない
政治家にそれをあっせんする事もあれば
他の新聞社、系列のテレビ局なども同様なのである。

梅田で人骨、は意外な話ではなく
古地図などを見ると
江戸時代までは「埋立地」的な扱いを受けており
田圃や畑が展開していた、とも聞いている。
文字通り、それらを「埋めた」から
「うめだ」「梅田」と地名の由来を説明する学者も居る

僕が言いたいのは、既に「うめだ」から乖離しつつある
本来の梅田地区を引きずったような
「うめきた」とか「北梅田」などと言った呼称は
遠方から来た人に対しては極めて分かりにくく不親切なのであり
正しい住所を必要とする人には認識の上で混乱を招く、と思うので
思い切って違う愛称の地域を作ったらどうか、と言いたいのである。

確かに「梅田」といえば聞こえがいいのか、
商業地としての価値も上がるのかも知れないが
そんな調子じゃ前回の「バブル崩壊」で再開発計画が吹っ飛んだように
売れることありき、でしか土地計画が立てられなくなってしまう

そうなのだ
実は「うめきた再開発計画」は
今から30年ほど前に進められていたプロジェクトの
リターンマッチなのである
それすら、人々は忘れかけている
実に嘆かわしく思っているのである。

僕はね
人骨が埋葬されている墓のような土地を
やむを得ず掘り返す事は仕方ないとしても
分かってて転売したり、そのまま工事したり、みたいな
事をするのであれば宗教的な倫理観も軒並み崩壊して
最終的には即物的倫理観一辺倒のカオス状態になってしまうんじやないかと
懸念しているのだ

大阪・梅田で人骨1500体超
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=6192956
 江戸〜明治時代に、現在のJR大阪駅北側再開発区域「うめきた」(大阪市北区)にあった「梅田墓(はか)」について、大阪市教委と市文化財協会は13日、発掘調査で1500体以上の埋葬人骨が出土したと発表した。市内でこれほど多くの埋葬跡が一度に見つかるのは初めてで、全国的にも珍しいとしている。庶民階級の墓とみられ、今後は骨を調べたりして葬送文化や生活環境などを詳しく分析する。

 梅田墓は、江戸時代初期に天満周辺にあった墓を現・大阪駅の南側付近に集めたのが始まりで、その後現在のうめきた南西部に再移転したとされる。大阪に7カ所あった「大坂七墓」の一つで、近松門左衛門の浄瑠璃「曽根崎心中」や「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」などにも登場する。

 発掘調査はうめきた再開発事業に伴って始まり、2017年2〜6月の調査では、墓地の南北端の石垣や約200体の埋葬人骨が見つかった。19年9月から始まった今回の調査では、北を上として逆L字のような形とみられる梅田墓の東半分を発掘し、東端の石垣を見つけた。敷地内では亡くなった人が木おけや四角い木棺、かめ棺に入れて整然と土葬され、火葬後に埋葬したものもあった。

 墓地内の北側は石垣で区切られて一段低くなっており、土をかけたりしただけの埋葬や、穴に何人もまとめて入れた埋葬例が複数あった。発掘担当者は「疫病で一度に亡くなった人などが埋葬された区画かもしれない」と推測している。

 副葬品には数珠玉や六文銭のほか、キセルや土人形、二朱金などがあった。今回の発掘調査の結果、墓地は江戸時代の終わりごろから明治20年代までの19世紀に使われたものとみられるという。駅南側から現在地への移転は、これまで1680年代とされていたが、間に別の場所を挟んでいた可能性が出てきた。

 墓の考古学に詳しい大阪大谷大文学部の狭川真一教授は「東京では江戸時代の墓の調査例はいくつかあるが、これほど大規模な調査は非常に珍しい。墓が密集しているのが都市的で、短時間でこれほど大規模に造るのは農村では考えられない」と指摘した。

 埋葬されたのは大坂城下町と周辺に住む一般庶民らしい。今回見つかった骨の分析結果は出ていないが、前回調査の分析では埋葬人骨は平均30歳代と若く、子どもの埋葬も少なくなかったという。安部考古動物学研究所の安部みき子所長(人類学)によると、手足を中心に病変がみられる個体が3割近くあり、梅毒や骨腫瘍を患っていた可能性がある。過去に大阪府茨木市の千提寺遺跡群で100体近く見つかった同時代の人骨の平均年齢は高く、骨の病変もなかったという。安部所長は「都市部と山村部で全然違うので驚いた。今回見つかった骨を分析することで、文献資料などと合わせて江戸時代の大坂の様子が分かれば」と期待する。

 一連の発掘調査は8月末で終了予定。発掘現場は一般公開しない。【矢追健介】

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