●清の時代
ご存知、「清」朝は
中国最後の長期安定統一王朝で皇帝一族は女真(満州)人の国である。
女真はツングース系民族であり、狩猟にも農耕にも長けた民族である。
当初は、北方に所在し中華王朝からみれば夷狄(いてき)そのものであった。
しかし、「夷狄」とは「中華」の対義語のようなものであり
後に女真が「清」王朝となり、自らが「中華」王朝となった事で
夷狄ではなくなるのである。
初代ヌルハチが興した時は
「後金」という国号(※正式な国号は「金」だが)を使っていたが、
三代目順治帝の代に中国本土に侵攻し
北京を拠点とした際に「清」という国号に改めている。
「元」朝の時もそうだったが、
皇帝一族は強く自らを“異民族”である事を意識した王朝であったが
「元」の時はモンゴルの政治体制を
そのまま持ち込んだ(が思い通りに行ったとは思えない)が、
「清」朝の場合は、多民族国家を満州人がまとめる、という意識が強く、
満州人を頂点にモンゴル人、漢人、チベット人、イスラム人などによる
“同君連合”と位置付けて統治が行われていた。
やはり少数派で戦闘集団としては優秀な満州人も、
漢民族の土地で圧倒的多数の漢民族を相手に統治することは
とても困難であり、官吏も常に満州人と漢人を配置するなどして
どうにかバランスを取ろうとしていたのである。
王家は愛新覚羅(アイシンギョラ、あいしんかくら)氏で、
「ラストエンペラー」という映画にもなった愛新覚羅「溥儀」が
「清」代最後の皇帝の宣統帝であるが、
彼は清朝が滅んだ後に、「満州国」という日本が建てた傀儡国家の皇帝にもなっている。
建国時は中国からは「後金」と呼ばれる北方民族の国家だった。
初代・ヌルハチは軍政を整え、
二代目のホンタイジ(皇太子)が中国に侵略を進め、
「明」王朝軍を打ち破り中国支配の足がかりを作り、
首都・盛京(現在の瀋陽市)を中心に民族名「女真」を「満洲」と改める。
第三代・順治帝の時の1644年、
降伏した明の宿将・呉三桂の要請に応じ
「明」を滅ぼした李自成を討伐して北京に入り、
国号を「清」に改めるのである。
第4代・康熙帝の治世に起きた「三藩の乱」は、
長江以南に展開していた「明」の旧臣でもある呉三桂らが起こした反乱で、
「明」朝の再興を目指して国を興そうとしたものである。
これを鎮圧し、中国南部も勢力下に置くことになるのである。
同時に、北モンゴルに展開していたオイラート系のジュンガル部、
「鄭成功」が展開していた台湾なども服属させ、
チベットも保護下に置くなどし、
現在の中国の領土の原型になり
また中国文化が色濃く影響を及ぼす地域を決定づける事になるのである。
これによって「中華王朝」の要件を満たすのである。
現代から呼ぶ「中華」の定義もこの段階があってのことで
中国がチベットや台湾を力づくで勢力下に入れようとする「侵略行為」も
この康熙帝の版図がイメージに寄与しているのは間違いない。
因みに日本では徳川家光の治世の頃である。
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