●明代末〜後金の台頭、「清」王朝へ
「明」朝は「李自成の乱」によって1644年に滅亡してしまうが、
それより以前に「清」朝の前身である「後金」が中国史に登場する。
「明」朝は1572年〜1620年に在位した
「万暦帝(ばんれきてい)」の時代が爛熟期で、
国内に流入する大量の銀で経済が潤い、国内は活況であった。
一方で、国の財政としては「北虜南倭」で苦しんでおり、
「朝鮮の役(文禄・慶長の役)」で
日本の豊臣秀吉軍が朝鮮半島に進出してきたのに対し兵を差し向け退けたのも、
万暦帝時代である。
「万暦帝」は若くして即位したため、
政治は宰相の「張居正」が仕切っていたのだが、
その張居正の死後は、親政を行った。
ところが国内が活況なのを良い事に彼は政治への関心を失い、
政治を放棄し、軍備や役人の数も揃えないまま
その後の混乱期を迎えることになった。
これが結果的に後世に悪影響を残し
明は滅亡(1644年)へ向かったのである。
「後金」朝は満洲に展開していた女真(女直)人の国で、
当時の中華王朝である「明」朝から見れば
「北虜南倭」の「北虜」そのものであった。
女真族を統一し「満洲国」を興した愛新覚羅氏のヌルハチは
1616年に「八旗制」と呼ばれるその後の清代に続く軍制&社会制度を確立し、
「明」に向けて挙兵する。
1626年、ヌルハチはその志半ばにして死んでしまうが
その跡を継いだ二代目の「皇太子(皇太極)と書いてホンタイジ」は
更に覇業の実現に努め、内モンゴルや朝鮮を服属させたのち、
明の領内にどんどんと侵出していった。
ホンタイジから三代目の「順治帝」に代わった1644年には
「李自成の乱」により「崇禎帝」の「明」朝が滅亡すると、
「明」の部将だった「呉三桂(ごさんけい)」の投降に応じて北京に進出、
明にとっての逆賊・李自成を滅ぼした。
これによって、比較的「清」朝は漢人に好意的に迎え入れられることになり
圧倒的多数の漢人の支配を圧倒的少数の満人(満洲人)が行う事を
容易にさせたと言われている。
また科挙を維持したり、景山で自害した崇禎帝の墓所を整えるなど
明朝への敬意を示して大義を得たことも大きいとみられている。
「順治帝」は、もともとは「フリン」という名前だったが、
ここから中華皇帝風の呼び名になって「順治帝」と呼ばれている。
廟号は「世祖」であり、
やはり北京に進出した事、中華王朝としての要件を満たした事が偉業と見做され、
廟号「太祖」に次ぐ尊い扱いを受けているのである。
従って、世界史の授業なんかで
初代ヌルハチ、二代目ホンタイジの扱いがカタカナのままで
(本当は漢字を使っての呼称はある)
なんとなく軽んじられているのは
外から見れば覇業を達成していない「先代」の扱いであり、
しかし「清」王朝の愛新覚羅氏の祖としては
ヌルハチに始まるので「初代」として扱うという微妙な位置づけなのである。
余談でした
ログインしてコメントを確認・投稿する