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2018年06月14日20:26

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中国王朝史31−2 北虜南倭(再掲)

★北虜南倭
中国統一王朝として東アジア最大の国家として
周辺諸国に対して君臨していた「明」朝ではあったが、
対外的には北方民族を中心にかなり苦しめられている。

北方には「明」朝自らがモンゴルに追い返した「北元」朝や、
西モンゴルの「オイラート」部、
南方は日本人を含む海賊「倭寇」に再三国土を脅かされ、
「北虜南倭」という表現で「明」王朝の苦悩を表す言葉が出来るほどだった。

「オイラート」部とは攻防を繰り返す中、
正統帝英宗は自ら侵攻を開始するが、
逆に捕らえられてしまうという事件「土木の変(1449年)」が起きる。
歴史上、親征を行って逆に拿捕され、
しかも戻って皇帝に復位したというみっともないケースは
この英宗以外になく
(一方的に捕らえられるケースは、北宋の欽宗が「靖康の変」であった)、
国内でも稀にみる「暗君」として伝えられている。

もっとも遊牧民族である北方民族の殆どは
収入減が牧畜と掠奪に頼るしかないので、
国家として大きくなると中華帝国と通商をしないと維持できない構造にあった。
「遼」や「金」がその代表例である。
彼らは中華王朝に対し「朝貢」を行い、
王に封じてもらう事により属国の体で中華王朝に貢納し
一応は跪くポーズをとるのだが、
その実は数倍に当たる「回賜」と呼ばれる見返りを得る
という形で利益を得る「朝貢貿易」を行っていたのである。
その関係性によって不可侵を担保するという
半ば“金で買う平和”を創出していたのである。

しかし版図が広がる事で朝貢国が増え経済的に窮していた「明」朝は、
莫大な見返りを要求してくるオイラートと対立し親征するに至ったのである。
15世紀に入ると「倭寇」の侵略は活発になり、
一度は収まるが16世紀に再び活発になる。
これを「前期倭寇」「後期倭寇」と呼び分ける学説がある。
前者は「元寇」によって苦しめられた日本人海賊が
「元」朝の衰退に伴って報復行為の一環として行った日本人を中心とした海賊集団であり、
後者は「一部が日本人だが、7割は中国人であった」との記録も残っている。

また、16世紀の末には朝鮮半島の李氏朝鮮に対し
「文禄・慶長の役」と呼ばれる豊臣秀吉による侵攻があり、
「明」朝は属国の支援の為に救援を出すなどしてこれを退けるが、
国全体は更に疲弊し財政破綻を来してしまうのである。

1644年に北方から「後金(後の清)」に攻められる中、
明朝は李自成の乱の首領・李自成に北京を占領され滅亡したのである。

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