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2018年06月08日18:20

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中国王朝史31 明の時代

●明の時代
「元」代末の1368年、中国全土は「紅巾の乱」という宗教的農民反乱が起こる。
この乱の首領の一人が朱元璋、すなわち「明」の太祖・洪武帝である。
このように朱元璋自身が農民の出身で、
また明代に王陽明の手によって発展した「陽明学(※日本での呼び名)」
にも象徴されるように重農主義を採り、
特に創業の地である湖北・湖南地区での充実ぶりは目覚ましく、
有名な言葉で「湖広熟すれば天下足る」と呼ばれることになった。
建国当初は、首都は金陵(南京)で、
後に永楽帝の治世に北京に遷都することになる。
朱元璋が庶民出身の皇帝で宋代以来の漢人王朝であり、
比較的民衆には支持されていたようである。

フビライが毛嫌いしていたという科挙を復活させるなど
モンゴルナイズドされていた政治体制から
純中華的な政治体制への回帰は悪くはなかったが
一方で宦官や閨閥による専横などを防ぐため
絶対君主的に皇帝に権利を手中させたのが後に仇となる。
名君であれば国は整うのだが暗君を迎えた時
国全体が弱体化してしまうのである。

★北虜南倭
中国統一王朝であり東アジア最大の国家として
君臨していた「明」朝ではあったが、
対外的には軍事的にかなり苦しめられている。
北方は自らがモンゴルに追い返した「北元」朝やオイラート、
南方は日本人を含む海賊「倭寇」に苦しめられ、
「北虜南倭」という表現で「明」王朝の苦悩を表す言葉が出来るほどだった。

オイラート部と攻防を繰り返す中、
1449年正統帝英宗は自ら侵攻を開始するが
逆に捕らえられてしまうという事件が起きる。
この「土木の変」でオイラートに捕まったという
歴史上親征を行って逆に拿捕され、
しかも戻って皇帝に復位したというケースはこの英宗以外になく、
国内でも稀にみる「暗君」として伝えられている。

また15世紀に入ると「倭寇」の侵略は活発になり、
一度は収まるが16世紀に再び活発になる。
これを「前期倭寇」「後期倭寇」と呼び分ける学説がある。
前者は「元寇」によって苦しめられた日本人海賊が
「元」朝の衰退に伴って報復行為の一環として行った
日本人を中心とした海賊集団であり、
後者は「一部が日本人だが、7割は中国人であった」との記録も残っている。
性質の違う出来事なのでは無かったかと考えられている。

また、16世紀の末には
朝鮮半島の李氏朝鮮に対し「文禄・慶長の役」と呼ばれる
豊臣秀吉による侵攻があり、(いわゆる秀吉の「唐入り」)
「明」は属国の支援の為に救援を出すなどしてこれを退けるが、
肝心の本国は疲弊し、財政破綻を来してしまうのである。

1644年に北方から後金(後の清)に攻められる中、
李自成の乱の首領・李自成に北京を占領され滅亡した。

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