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2017年11月24日01:57

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井伊直弼ってワル?

前回は尊王攘夷の登場人物の中で、
孝明天皇の扱いがやや忘れられがちというか
現代のフィーチャーが不足しているというか
しにくいんじゃなかろうか、という指摘を随分と遠回りにした

幕末の大きな出来事は
何だかんだ言っても大政奉還ではあるけれども
それを軸に色々あるんだよね、てな話は
その前にしたような気がする

何にしても、尊王攘夷というキーワードが
象徴的であるように
ややこしいのである。

幕末期の最大級の出来事が薩長同盟の成立である。
討幕派の筆頭であり、
朝敵にもなってしまい追い詰められつつあった長州藩と
雄藩連合によって幕政改革を進めようとしていた薩摩藩は
それまで激しく対立していたが
遂に同盟関係を結んでしまうのである。
長州藩は、不平等条約を結ばされたり列強との交戦能力の低さから
倒幕するしか日本に残された道はないと考えていた
薩摩藩は、それまで徳川家、譜代大名と辛うじて親藩だけで
政策を推し進めようとしていたのでは「日本」は駄目になるので
代わって雄藩連合を結成し
それまで疎外されていた外様大名でも実力の高い薩摩藩なども
加わって国難を乗り切ろうという
極めて合理的な体制を目指していたのである。

しかし、長州は倒幕の姿勢は変えないし
薩摩は雄藩連合で幕政改革を目指し
対立していたお互いが和睦し、何かあったら助け合う
という約束を結んだに過ぎない。

実に微妙なこの出来事は
幕末も幕末の1866年3月に行われた
長州と薩摩の仲立ちをしたのが土佐藩を脱藩した
坂本龍馬だったのである。
この出来事はのちの明治政府が
ほぼほぼ天皇を戴き雄藩連合で政府を形成し
国難を乗り切ることになったのであるから
非常に評価が高く後世に持ち上げられたもんだから
政治的或いは軍事的には
さほど大きな役割を果たしたわけではない坂本龍馬が、
陰ひなたで活躍した旨が
司馬遼太郎らに大きくフィーチャーされ
スターになる契機の一つである。

よほど西郷隆盛や桂小五郎(木戸孝允)の方が
有名で重要人物なのであるが坂本龍馬の方がスターなのは
多分にフィクションも交えて司馬遼太郎が小説で
フィーチャーしたからである。
僕個人の考えとしては、坂本がこの世に居なかったとしても
どうあれ似たような結果になっていたのではないかと
思うのであるが、実際にそれを実現した人物は坂本その人に違いないと
坂本はそういう意味で時代が生んだ象徴的な人物であり
彼はたまたまというか正にそれを実現した人物だったという事では
無かったのだろうかと。
勿論、彼が行った事実は大きく日本を変えたのであり
大人物であったことは間違いないのだろうが
司馬が描いた部分は憶測が大きく働いていたフィクションであり
後世に語られたような人物であったかどうかは
明治以降に残った人たちの伝聞やその記録を
照らし合わせて構成された部分が大きいであろうと
そう考えるのである。
無論、司馬が出鱈目を小説化したわけではないだろうから
逸脱したわけではないだろうが
坂本以外に坂本に匹敵する人物や
彼が活躍するまでに死んでしまったり、彼が死んでしまったら
彼に代わって同じ役割を果たしたであろう人物は他にもいただろうと
そういう思うのである。
それぐらい、
坂本は幕末から明治にかけての時代を象徴する人物で
そういう人物を生み出す土壌が幕末期にはあったと
感じているのである。

さて、1860年の桜田門外の変まで
幕政を仕切っていた井伊直弼という人物も
悪人的或いはピカレスク的に描かれるわけであるが
実は極めて優秀な官僚であり
それまでの幕閣もそうであったが開国が既定路線であった。

1840年のアヘン戦争で
アジアの大国であった清はイギリスにケチョンケチョンに敗れ、
次いでアメリカの黒船が相次いで日本に来航し開国を迫る。
1856年のアロー戦争でイギリス・フランス連合軍がこれまた
清を叩き潰した事で決定的に日本は開国するしかないところに
追いつめられていたのである。
遂に1858年に日米修好通商条約を結んだところで
世間が動き出したのであるが

幕府=開国論
朝廷=鎖国、攘夷論
水戸藩=勤皇、攘夷論
長州藩=倒幕、勤皇論
薩摩藩=勤皇、公武合体、開国論

てな構図になっていたわけであるから
色々と複雑なのである。
特に、朝廷に代わって政治を執る名目の征夷大将軍が
夷敵(異民族、外国)を征討する将軍という意味を持っており
幕府=軍事政権であるにも関わらず
諸外国の軍事的圧力に屈して「開国」を選択しようというのが
なかなか理解もしてもらえず、立場的にゆるれなかったという点
これがややこしい。

朝廷と各藩の軍事力を奪い取ったのは
幕府が軍事を預かるから軍事力は持たせないようにしていたわけで
外国からの勢力に対しては幕府は軍事的には全面的に責任があるわけだ。

それと桜田門外の変を後に実行した水戸藩
正しくは水戸藩を脱藩した元藩士たちが実行犯なのであるが
それは藩に迷惑をかけないように離脱したわけである。
「水戸学」という水戸藩伝来の「勤皇論」に従って
天皇が「開国じゃなくて攘夷」と言っているのに
幕府が、それを司る大老・井伊直弼が開国しやがった!と
暗殺に走ったのである。
水戸藩と言えば、徳川御三家の一つであり
何となく幕府に敵対しない存在、
あるいは佐幕派の筆頭格であるべきだと認識されてしまいがちだが
実は、最後の将軍・徳川慶喜は水戸家の生まれで
彼に至るまでは一度も将軍を出していない、
ちょっと徳川家の中では異質の勤皇ファミリーだったのである。


井伊直弼が悪人として描かれる原因は、
この桜田門外の変が
なかなかのテロで、現代の感覚では許され難い事件でありながら
時代の流れで仕方なかったくらいの勢いで表現されるからであるが
それくらい彼がとんでもないことを直前にしでかしているからである。
そのとんでもない事、というのが
かの有名な1858年の「安政の大獄」である。
文字通り「やり過ぎ」の域で
幕府或いは井伊大老に敵対する存在を
悉く捕縛・刑死させ弾圧を行ったため、
倒幕を主張する勢力の主要人物は多く死んでしまった。
偉人と呼ばれる人物も含まれており、
井伊直弼の評価は後世からすると劇的に下落するのである。

何しろ、被害者でもあるのに
桜田門外の変で井伊直弼が死んだ後に
安政の大獄を批判して井伊家は罰を受けるほどに
安政の大獄は「やり過ぎ」だったのである。

ただ、井伊直弼の政治的選択は
開国であり、後の感覚からいえば正しい方向だったのであるよ

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