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2016年07月28日01:12

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まず最初に問われること

昨日も触れたので続きを書こうと思う。
社会の授業で習った通りの話だが
イスラム教は明らかにキリスト教を下敷きにしている。

イスラム教の唯一神はアラーである事は有名だが、
そのアラーの啓示(神の言葉)を開祖ムハンマド(マホメット)に授けたのは、
ユダヤ教の教典にもキリスト教の教典にも登場する大天使ガブリエルである。
イスラムの言葉では“ジブリール”という。

キリスト教は、
“ユダヤ教は間違いで、その神の奇跡を体現するものとして現れた(ナザレの)イエスこそが救世主=神だ”とする宗教で、
救世主(キリスト)はイエスだよ!と信じる宗教である。
そもそもが人間も造りたもうた筈の造物主こそが、
人間として現れたイエスでもある。
また、実際に奇跡を起こし続ける存在の聖霊と合わせて、
(造物主、父なる)神、(子である)神=キリスト、聖霊の3つの形態を持つという
理屈の上の矛盾を
4世紀の「ニケーア公会議」などでとりまとめて
矛盾解消を図ったのが「三位一体説」である。

余談だが
関西人にはなじみが深い、神戸屋パンの
「サンミー」というパンは
ケーキ地のパンに、チョコとクリームと
三位一体となった味わいが同時に味わえるので
そう名付けられた。
もう一味加えられたものが「ヨンミー」という名前で売られている。


世界史の授業などで習うのは、
4世紀にキリスト教がこれら公会議を経て、
教義の調整や統一を図った、という事実であり、
唯一無二の神を如何にして“正しい”とするかの
教団としての政治的側面が目立つわけだが、
これが現在に到るまでの欧米社会、
ひいては英語・スペイン語圏を中心とした自由主義国家の
倫理観の根底にあることを我々はまず、意識しなければならないだろう。

そして、明治維新以降、更には
第二次世界大戦以降の日本における
倫理観にもそれらが影響し
我々の生活様式においても強く影響を及ぼしていることも
理解せねばならないだろう。

だって、それまで我々日本人には
人類は平等である、なんて発想は
少なくとも無かったのであるから。
戦後に至るまで天皇=現人神の存在を
許容する認識の土壌には
人間が神と同等というよりは
自分よりも高貴で優秀で位の高い人間、の存在を
認める文化が定着していた証拠なのである。

中国は律令制度の確立をもって
導入した「科挙」という世界最初のテストによる人事考査をした国である。
平等ではなく、区別である。
優秀な人間と能力が低い人間との区別は
平等主義とは真逆な感覚である。

欧米にも王政があったが、それらとは全く違っていた。
何故なら欧米の王たちは
聖職者のトップであるローマ教皇が任命するという
二層構造があったからである。
そして、唯一絶対神の神の元では
「王と云えども神の前では平民と同等みたいなもんだ」
という考え方があったのである。

アジアを中心に広まった仏教では、
神や仏の信仰に値する存在が多数複数あり、
信仰の多様性や解釈の多様性については寛容的である。
唯一無二であったり、相手の信仰との対立を理由に
宗教戦争にまで至るケースは稀である。

これが、後々の「非科学VS科学」の社会的成長のもとで
科学的根拠を受け入れやすい土壌を作っているのは明らかだが、
ユダヤ教やキリスト教、イスラム教と言った
“自分たちの神”以外は神ではない、という絶対的な信仰に対しては
逆に酷くアレルギーがある。
宗教や信教が絶対的な加護を及ぼすものではないと
そもそも考えられていたのである。


特に象徴的なのが、平等と平和の根本思想だ。
一神教のもとにおいては
自分たちが迫害されたり受難の時期は、
困難から逃れる為なら何をしても良い、
正義は自分たちにある、と彼等は強く信じている。

これは、教義の上でイスラム教もキリスト教も
神が民に対し神への強い忠誠を試し、
それを証明するためには
(日常的な感覚では)道を外すような事も辞さないまでの姿勢を求めるからだ。
多神教の文化では信じがたいことである。
「お前は、私を信じられるか?信じるためにはわが子を生贄に捧げるか?」
と問い、その子供の喉元に匕首を向けて初めて
神は民を祝福するといった、強硬な態度を取るような絶対神なのである。

その結果、争いやいさかいや
悲劇や戦争が起きても
「救われるのは自分だ」と信じる信者を無数に増やすのである。
だからタチが悪い。

しかし、これは具体的にイスラム教徒を“タチが悪い”と言ったわけではない。
飽くまであらゆる点で中立に立った時、
宗教間の対立は不可避である、と明らかにされる事で、
突き詰めれば
争いや殺し合いや戦争が避けられない事が
議論の行方を曇らせる点に於いて、極めて“タチが悪い”と述べたのだ。

それは、ユダヤ教がヤハウェ以外の神を信じる者を認めず、
キリスト教がイエスを、
イスラム教がアラーを唯一無二の存在と明確に規定している以上、
“お互いがお互いの信教を冒し合わない”と決めない限りは
争いが不可避だからだ。

加えて、ユダヤ教には数千年に渡り迫害されてきた歴史が
彼等の教えの一部に組み込まれ、
イスラム教は後から確立した分だけ、明確に神の啓示が刻まれている。

この100年だけの歴史を振り返っても、
かなり劇的なかなり劇的な科学の進歩と技術革新、
加えて目を覆いたくなるような激しい戦争を人類は繰り返したと云うのに、
最新の世界宗教であるイスラム教は7世紀の基準で善悪を規定するのである。

キリスト教はそういう意味で
広く解釈を修正してきたので「古代宗教」の一つと呼べるかもしれない。
僕に言わせれば、現代ナイズされた古代宗教なんて
古代に現代の様子を予測も予言もしなかった神が全知全能であるはずもないわけだから
ユダヤ教とキリスト教は少なくとも信じるに値しないと思っている。
居るとすれば、別の神、例えばアラーかも知れないが
アラーですらどうなんだ?
現代社会と現代の科学を予想していたのか?
と思っているのである。

揚げ足取りをして楽しんでいるわけではない。
新興宗教がそれに代わると言っているのではない。
ごく簡単に少し先の未来を予測できる神こそが
信じるに値するのかもしれないなぁ、と
そう思っているのである。

もちろん、信徒たちが自分たちの神を信じるのは自由であるが
どうして信じているのか、を理解することが大切なのである。
科学を信奉する人間は
「まず、そこに神がある」という非科学をどう説明するかが
最初に問われるんじゃないか

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