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2016年06月06日23:12

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時間通りに事は進まないものだ

洋上3日目。
渤海に入ったのは3日目の朝だったが
到着予定のはずの正午になっても
船は天津に到着していなかった。
陸地も見えないほどの距離の洋上に停泊したまま
エンジンも止めて微動だにしない。

先日まで死体のように横たわっていた
他の日本人学生が船室からまろび出てきて
船上は俄かに騒がしくなっていた。
まもなく始まる中国旅行の第一歩に抑えきれない興奮があったのか
はたまた単に仲良しの友人たちとの旅行で盛り上がっているのか

一方で、僕のような男独りで旅行に出ている人も明らかに
一定の比率で存在していて
そのうちのさらに何割かは現地の大学の留学生で
さらに何割かは現地在住の日本人なのである。
彼らは旅慣れていて、尚且つ中国語も喋られると思うが
僕は地理も分からなければ言葉もわからない状態で
ガイドブックすら持っていなかった。

「染谷さん」に
「ガイドブックとか持ってらっしゃったら、少しだけでも
見せて頂けませんか?」
と尋ねたが
「生憎持っていないよ。もうあっちに留学して1年以上になるからね
しかし君は初の中国が初海外で言葉も喋れない上に
ガイドブックも持たずに単独行って、結構な冒険だね」
とややこちらの不安を煽るような言い方をした。
彼の指摘はその通りかも知れなかったが
僕が気にしていた点はそこではなくて
初日に宿まで辿り着けるかどうか、一点のみだったから
そこは問題にはしなかった。

午後遅くになると再び船が動き始め
陸地が見えてきた。
その間、僕は船の屋上デッキ上で(独りで)クイーンの曲を歌ったり、
フォークギターを持ってきていたどこかの誰かと一緒に歌を歌ったり、
船室内にある卓球場で卓球を楽しんだり
見知らぬ人たちとも触れ合いがあった。


天津とは中国の中でも結構大型の都市だが
港湾都市として発達している他
近くには軍事的要衝も多く
歴史的大事件も多数あった地域である。
北側の大連と旅順のある遼東半島と
黄河の河口である煙台、威海のある山東半島に挟まれた
湾部が渤海と呼ばれる内灘で
ここには中国の誇る軍隊である
人民解放軍の軍艦が鈍い黒光りを放ちながら
客船が通り過ぎるのを睨んでいる。

何が怖いって、砲台が自分たちの方を向いている軍艦が
至近距離に居るというのはこのあとも体験するけど
戦争というものを現実味として伝えてくるには十分のショックがある。
テレビや教育などで知らされる事実よりも
修学旅行で訪れた沖縄の米軍基地周辺の戦闘機たちよりも
その時に初めて
兵器が目の前で息をして動いているのを見た事実は何よりもショックであった。

天津は河口からしばらくの間は運河を遡上してやっとたどり着く場所にあり
大型船の接岸可能な大きな港である。
当時「天津新港」と呼ばれていた港はタンクーという呼称で
一体どの辺りだったのかは今ではよく判らない。

深刻なのは
「早く下船したほうがいい」
と染谷さんが僕に耳打ちしたあとからである。
僕がビザを発給してもらうのにほんの5分ほどロスはしたのだが
それ以外はスムースに下船できた筈だった。
しかし、下船した時間は既に4時を回っており
中国の旅に慣れている染谷さんは
「もしかしたら、日本円を中国元に替える時間はないかも」
と恐ろしいことを示唆し始めたのである。

京都大学の4年生二人組と青山学院大学の学生二人組と
卓球場で仲良くなったのだが彼らと
染谷さんと僕の六人が集まって下船後の動きをどうするか、など
話し合っていた席での指摘に動揺が走ったのである。
もっとも若い僕は20歳。年上は染谷さんで30前。
京大生は何年か浪人していると言っていたが翌年に卒業するので
24〜25歳。
青学の二人は学年が僕より1年先輩だった。
その全員が初めての海外、初めての中国で
染谷さんだけが何度も訪れていて
それまでも北京の外語学院に短期留学していたというツワモノだったのである。
頼りにしない筈がないのである。

「中国語なんて、通じなくても何とかなる」
染谷さんはいつもそう言った。
現地の人ですら、地方が違うと言葉が違いすぎて通じなくなり
最終的に筆談していることも少なくないのだという。
だから、
「どうせこいつは日本人だ」
となめられなけれさえ居ればどうにかなるのだと
彼は繰り返し力説したのである。

下船者は港で通関を通って
やたらに天井の高い石造りの建物の
出口付近にある両替所と呼ばれる小さな小屋に
長蛇の列を作っていた。
おばちゃん二人でとろくさとろくさと作業をしていて、
その横に制服を着た屈強そうな男性が一人立ち尽くして監視していた。

100人は並んでいたと思うが
そこで驚愕の事件が発生する。
行列の8割程度を飲み込んで、いよいよあと何人かで
僕の番になろうというタイミングで
窓口が突然閉められたのである。

残された20〜30人の両替を待つ旅人たちは騒然となった
「どうしろ、というんだ」
窓口の人間に
「業務を続けろ」
と怒鳴り散らす人もいたが彼らは取り合わない。

「4時45分になったから閉めたんだと!」
前方で別の日本人が吐き捨てるように言っていた。
そう言われると身も蓋もない。
船が延着したせいで時間が無くなったのである。
すると、染谷さんが耳打ちする。

「こういう時は間違いなく、闇チェンジマネー屋さんが
出てくるから大丈夫。それに」
「それに?」
「大抵、そっちの方がレートが良い」
理由は分からないが、役人が居なくなる5時過ぎになると
港付近の商業施設などに
たくさん、闇の両替屋が現れるというのだ。

ただ、彼らが提示した交換率が得なのか損なのか
或いは元々の両替所の相場も分からない。
染谷さんは元々中国元を持っていたので困らない感じだったが
それ以外の日本人はどうしたら良いのか
分からないので当惑するしかなかったのである。

「とりあえず」
怪しい風体の年齢不詳の男が声を出した。
「俺が代表して両替してくる。
3000円もあれば、北京に移動して食事しても
そこそこの宿に泊まれるだろう。
ここに集まっている10人で2万円ほど両替するので
一人2000円ずつ後で両替してあげるのでどうだ」
なかなかの申し出だったが、その男自体が胡散臭くて信じられない。

「じゃあ、俺もついて行くよ」
船内で仲良くなった青学の学生が一人、その男について
両替家探しに加わった。

僕と染谷さんは、彼らが両替している間に
皆で便乗する白タクを捕まえることにした。
白タクには5〜10人乗って
一人100元(当時で日本円1000円から1200円)で
北京まで運んでくれるという便利な乗り物だが
これを捕まえて一人50元まで値切ったのだ。
但し、「10人乗せる」というのだ。

20分ほどで、怪しい男と青学の男が帰ってきた。
「やっと両替した」
日も暮れかけた6時前、日本なら7人乗りが限界の車に
運転手合わせて11人乗って
天津から北京に向かって僕たちを乗せた白タクは走り出した。

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