ミシェル・フーコーはその精緻な歴史研究と深い考察によ
り、近代西洋における監獄と軍隊と病院と学校と工場が同
根・同型であることを指摘した。この様態は世界中に広が
り、日本も例外ではない。詳しくは『監獄の誕生』をお読
み頂きたい。あるいは、以下の解説をざっと読むだけでも
良いだろう。
http://digitalword.seesaa.net/article/112681699.html
軍隊と学校の同型性については様々な角度から検証可能で
あるが、小学校の運動会で軍隊式の行進を強制される子供
を見れば、冒頭の二つの写真だけでその同根・同型性を十
分理解できるはずだ。話しは逸れるが、立派な行進ができ
る軍隊が必ずしも強いわけではない。それでも規則正しい
行進をやりたがる軍隊とは、学校運動会とは何なのか考察
が必要だ。
フーコーに戻るが、以前の日記で彼への挑戦を試みて、自
分なりに成功したと自負している。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1939369226&owner_id=2973687
だが、『監獄の誕生』で私が学んだことは非常に貴重であ
り、これによってどれだけ社会や政治などを洞察できるよ
うになったか、その恩恵は計り知れない。とは言え,どの
ような偉人であろうと、そのまま有り難がる私ではない。
この日記を書いているのは、西暦2015年の年末。日本
で年末といえば、何故か日本各地でベートーベンの第九が
演奏される。私は西洋古典音楽とオーケストラ形式の音楽
にはかねがね違和感を抱いており、取り憑かれたように第
九コンサートラッシュが年末に集中する状況を滑稽だと思
っている。音楽という芸術を実践するのに、集団で鹿爪ら
しい恰好をする必要があるのか?
フーコーが言わなかったことを私が言おう。軍隊とオーケ
ストラは同根・同型であると。敷衍すれば、監獄とオーケ
ストラも同根・同型なのだ。
理由を以下に述べる。
(1) 軍隊は指揮官を必要とし、オーケストラは指揮者を
必要とする。指揮官あるいは指揮者が存在しなければ、ど
ちらも存立しえない根源的機構を有している。
(2)軍隊は明確なヒエラルキーを有する組織であり、オ
ーケストラもヒエラルキーを有している。また、西洋クラ
シック音楽の世界も明確なヒエラルキーが存在している。
ヒエラルキーとは統制かつ強制であり、そこには自ずと排
除という暗い論理がつきまとう。
(3)軍隊もオーケストラも各個人に徹底した組織への自
己同化を要求し、その形式的証明として制服の着用が義務
づけられる。軍隊は規則として制服を明確に定めている。
規則として明示されているかは定かではないが、オーケス
トラも制服着用でコンサートに臨む。芸術実践に何故制服
が必要なのかという問いを投げかけておこう。
(4)軍隊もオーケストラも、組織の目的を達成するため
に、各個人が組織の部品として機能するよう徹底的な訓練
を施す。そこでは個性の主張は許されず、個は埋没しなけ
ればならない。
(5)軍隊の背後には強大な政治権力と軍需産業が控え、
西洋古典音楽やオーケストラの背後にも権力組織が存在し、
音楽教育を含めた音楽産業が控えている。駅前音楽教室は
末端音楽産業なのだ。
(6)軍隊には戦術教書や服務規程などのテクストが必要
である。オーケストラも楽譜というテクストが必要であり、
これが西洋古典音楽の根幹をなす。
ここまで軍隊とオーケストラの同根・同型性を見てきたら、
両者の画像を比較しよう。本質的には同じではないと否定
できる人はまずいないはずだ。
以上のように軍隊とオーケストラの共通点を挙げると、次
に問題にしなくてはならないのは、人間抑圧装置としての
軍隊とオーケストラであり、さらに突き詰めればテクスト
が支配する西洋古典音楽の根源的問題にまでたどり着く。
ダ・ヴィンチのモナリザを古典として、これを解釈して再
び「モナリザ」を描いても模倣と言われるだけだ。しかし、
ベートーベンのテクストを元に解釈してオーケストラで演
奏しても決して模倣と言われることはない。ビートルズの
曲を再現して演奏すれば、技術は評価されようが芸術性が
評価されることはまずない。西洋古典音楽の演奏者たちが
芸術家を自負するなら、なぜ自分で創作・創造しないのか。
実に奇妙と言う他ない。
世界の民族音楽を鳥瞰すれば、テクストが支配する西洋古
典音楽の形態は異様と言うべきものだ。この異様な音楽形
態が、世界の多くの民族音楽を抑圧していることに我々は
気付くべきなのだ。
西洋古典音楽を擁護する人は次のように言うだろう。「西
洋古典音楽は他の音楽より優れてるから、世界の中で支配
的地位を確立した」。
私は次のように言おう。
「芸術として優れているかどうかは主観に頼らざるを得な
いため、容易な判断は下せない。だが、西洋の政治・経済
・金融・軍事が世界を暴力的に支配したように、西洋古典
音楽は、世界の民族音楽を抑圧し、音楽のヒエラルキーの
頂点に立つ暴力的本性を供えている。」と。
西洋古典音楽のテクストによる支配は明白である。テクス
トには文字や記号が必要不可欠で、文明史を論ずるとき、
文字の発明が文明発展に重要な役割を果たしたと誰もが
考える。
果たしてそうか。1万年以上も続いた縄文文明には文字は
なかった。ヲシテ文字・文献が縄文時代からのものである
との説があるが、これは疑問だ。シュメール粘土板は大量
に発掘されているが、縄文文字やヲシテ文字が刻まれた土
器や粘土板は発掘されていない。縄文時代には文字はなか
ったようだ。だから縄文は遅れた文明だと言いたいのでは
ない。文明には様々な形態があり、文字のない高度な文明
の可能性を考えても良い。
縄文文明は持続性を誇り、1万年以上にわたって戦争はほ
ぼなかったようだ。
一方、現代文明は醜い戦争と紛争の連続だ。産業革命以降、
現代まで約250年が経過している。この間、テクノロジ
ーは飛躍的に進化したが、様々な問題が噴出し、この文明
形態をあと50年維持できるかどうか。大方が危ぶむとこ
ろだ。
話しを元に戻そう。西洋古典音楽の世界はテクストが支配
している。文字は情報の記録と伝達には便利だが、それが
テクストとなって人間を支配・抑圧する暗黒面もあること
を忘れてはならない。
あくまでも妄想だが、異星の高度な文明には憲法などとい
うテクストは存在しないはずだ。(了)
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