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原始仏教コミュの感謝について

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感謝について考えたことを書きました。



もし三福業事で分類するならば、感謝も他者に与えるところがあると見て、施・戒・修の施に入れてもよいと思います。感謝を戒に入れては義務になり、また感謝を修に入れるにしては対外的に過ぎるので。


原始仏典においては尊重すべき七法などに師・法・僧・学・三摩地・不放逸・礼儀などが尊重されるべきであるとあり、感謝もその礼儀に含まれるのかも知れません。ただ感謝や謝辞を述べるという語がパーリ語ではどうなのかというのは僕はあまりわかりません。原始仏典における感謝の記述も記憶が定かではないです。ここでは日本語の感謝それ自体から考察してみたいです。

僕は感謝とは「相手によって与えられた利益に対して『あなたにより私は利益を得ました』という主旨のことを身体・言葉・心のいずれかにより、相手に表現して伝えること」であると思っています。

身体によって感謝の意を示す場合は、礼やお辞儀や頭を下げること、手を合わせることなどです。言葉による場合は「ありがとうございます」他の相手が理解できる言葉を使います。心による場合は心の中で言葉を使って「ありがとうございます」と念を使って飛ばす場合や、無尋無伺にして言葉を伴わない感謝のイメージを送る場合などがあると思います。単体・複数・無量でも可だと思います。

心によって感謝の意を念じて伝える場合は、相手に明確な実感は生じないかも知れませんが、なんとなくあの人は感謝してくれているような気がするということぐらいは念力によって影響させることが可能であると思います。慈心の代わりに感謝の念を送るという感じだと思います。

身体・言葉・心によって感謝の意を表わすことによって自他が傷つくということは微妙なケースを除いてはあまりないと思います。しかし感謝すべき順序を間違えるなどして礼を失することがないような注意は必要ではあるとは思います。また自分が感謝することで自分の立場が下になると考える人もいるとは思いますが、虚勢を張るよりも率直に相手から受けている恩恵を謙虚に認めたほうが双方の利益になると思います。これは感謝によって自分を傷付けるというよりも、何が自分の利益不利益になるかという見解の相違の問題によるものだと思います。いずれにしても感謝することによって自他が傷つくケースは他の三行に比べて少ないとは言え、無害を留意しつつ感謝するに越したことはないと思います。

感謝することを原因として何が結果するかということが、感謝に関する最重要の知であると思います。感謝を原因として利益が生じなければ感謝することは無意味ですから。感謝とはこちらが相手によって利益を得たということを自ら認めていることを相手に伝達することですが、相手がこちらに利益を与えようと意図している場合と意図していない場合があります。どちらのケースであっても感謝されれば相手は喜ぶことが多いと思います。相手と敵対関係にある場合を除いては。

六和合法であり六つの念ずべき法の第六である最も重要なものに、見解の一致があります。考え方が一致しているから人と人は仲良くなるということです。できれば四諦知という聖性を備えた見解を所有し、その見解において一致・共有することが決定的な聖者同士の友情に至るものと思います。感謝の意を伝えることも「部分的な」見解の一致に導きます。

相手がこちらに利益を与えようと意図していない場合は、感謝も期待していない場合が多いので感謝をしなくとも今後も利益を与えてくれることが予期されます。しかし感謝すればなおさら、さらなる利益を与えてもらうことができると思います。問題は相手がこちらからの感謝を期待しつつ行動している場合です。そのようなときに、もしもこちらが相手に感謝しないならば、「恩知らずに利益を与えるのは無意義にして徒労に帰すのみ。無益なことはやめるにしかず」という考えにいたることが多いことと思います。業の報いを信じていなくとも「いずれ彼・彼女はわかってくれる」と信じて利益を与え続けることもあり得ますが、利益授与者がいつまでに期限を切ってそのように考えているかは明確にならず、その信はぶれやすく不安定です。

利益を与える側と利益を受ける側、双方の関係性をより強固なものとするために部分的にでも見解の一致が必要です。社会において人々の情報を共有する根幹となる言語やメディアがどれだけ互いの見解の一致に寄与しているかは想像に難くありません。しかし、皆が皆同じ見解を持つわけではないからこそ、内部分裂や外部との抗争があります。肝心なことは考え方や見解や価値観や世界観や宗派や生き方ややり方が異なっていても、「私はあなたによって確かに利益を得ているところがある」という意思表明、それによって最低限の見解の一致を得て、双方が互いの利行において同じ見解に達することによって「互いを傷付けない範囲での関係」を保持することができると思います。社会や世界はそうした常識という名の見解の共有によって回っていると言えます。

利益を与える側と与えられる側の見解の一致の中で重要なものは「あなたの行為によって私は利益を得て喜んだ。嬉しかった」という感情や気持ちを利益を与えた側にも伝えてその感情を共有することだと思います。これによって利益を与えた側も相手の感受を通して自分が予期していたヴィジョンと現実に認識される五感内容の結果の一致によって喜びが生じるという因果連鎖が生じます。

すべからく他者に向けられた三行は、他者の感受内容が本人によって明確にされることによってはじめてその影響性を行為者が明確に認識するからです。他心通がない限りは。また特に鈍感な人には伝わったと確認できるまで、はっきりと伝える必要があります。利益享受者がうんともすんとも言わないのであっては行為者は空しくなるばかりです。人が行為するときは予期するところがぼんやりとではあっても確実にあるからです。それが生ける者に向けられるときはいかなる感受を相手が感じたかが特に重要になってきます。人が他者に対して行為する場合、その意識は相手の感受や感情や気持ちに向けられることが多いです。完全にお金目当ての商取引は別として。

慈悲喜捨の四心を他者に送ること、あるいは三慈行・四摂事・利行は、相手に直接利益を与える行為です。これが先手となります。後手として利益ある三行を受けた側が、感謝の意を表する三行を行ないます。これによって先手は意を得たりと喜び、今後も利益ある行ないを継続する原因の蓄積となります。消極的な意味ではあっても利益を与えれば喜んでくれる他者が外界に存在するということは、利益を与える側にとっては利益です。そこに充実感や存在意義ややりがいや勢力拡大を見いだすからです。

感謝することの利益は、何よりもその受けた恩恵を今後も継続的に受けることができることにつながるというところです。感謝は一連の恩恵に関する双方の見解の一致と和合、連帯感と協力関係の持続に寄与します。逆に感謝しなければその恩恵を継続的に受けることは困難になり、相手が「ここは感謝すべきところだろう」と思っている分は自分の考えと実際とに一致が得られず不快となり、その不快感は相手と結びつけられて嫌われていきます。感謝することは愛される原因の一つとなり、感謝しないことは嫌われる原因の一つとなります。愛されることは継続的に援助を受けることを可能にする要因の一つです。また「こいつはきちんと感謝ができるやつだ」と思ってくれることにより自分の評価も上げ、基本ができる人間として認められることにもなります。

原始仏教では恩を知り恩に感じることを善人の条件として設定しており、恩を知らず恩に感じないことは悪人の証左であるとします。受けた恩に感謝することは与えた側と受けた側の双方に利益を与えます。恩に報いるのは自他を傷付けない範囲でやっていけばよいと思います。報恩を義務と設定して恩を施すのは、恩着せがましくもあり、むしろ恩の押し売り、勝手な契約であり悪行の一環です。あとで愛の借金取りのごとく取り立てるのですから。従って、真の意味における恩恵や優しさ、恩を施すということには、恩に報いなければならないという義務は常にないはずのものです。恩に報いるということは自発的なものであり、お互いの信頼関係をさらに強固にしたいと望む者のみが自他を傷付けない範囲で行なえばよいものであると考えています。

業の報いを信じている者による恩恵は、感謝されなくても持続しやすいものですが、世間の多くの人々は業の報いを信じておらず、自分の行為に対しては感謝を求めるものです。そして感謝しない人を見捨て、感謝する人に近づこうとするのが普通です。感謝する人のほうが可愛いですから。従って、感謝を習慣にすることによってより一層人に愛され、人から恩恵を受け取り、その喜びの意を相手に伝えることによって相手にも充実感と自信という利益も与えながら、相互扶助による良好な関係を築いていけば双方の利益になります。

利益を与えれば、業の報いによって後に利益を与えられることになるはずです。そして与えられた利益に感謝すれば、業の報いによって今度は自分が他者に与えた利益に感謝されることになるはずです。他者が膨大な時間と労力をかけて築き上げて来た技術や能力をただ利行と感謝という方法によって自分のものとすることができるならば、これは莫大な利益を自らにもたらすテコの原理です。その究極が不死に導く教えを聞くという聖なる聞財です。過去七仏の苦労は計り知れません。しかし大した努力も感謝もせずにこれを手に入れることができるというのは世界というゲームの不思議なところです。全外界というものは自分の行ないを増幅して返してくる反射装置のようです。少ない労力で大きな利益を得る道が利行と感謝だと思います。しかしそれも正しい修行が生み出す莫大な利益には劣りますが。

以上は主に感謝を原因として生じる外界への影響ですが、感謝をすることによる内界への影響も見逃せません。感謝をすると「自分はこの人から利益を得ていた」ということを自分で再確認することになります。「この人は自分に利益を与える」という知を原因として、その他者との関係の重要性をより自覚します。そうするとその関係を自ら破壊する三悪行などの行為を事前に抑止することにも転じます。「この人がいなくなればこのような利益は得られなくなるだろう」というふうに。これは感謝を原因として感謝対象である行為と行為者への知識を与えるきっかけとなります。

また感謝を習慣にしていれば照れくさくなく率直に感謝することに慣れるので、大切な場面においても不器用な表現の感謝にならず事前の練習に便利です。感謝に慣れておけば所作は円くなります。しかし気持ちのこもらない感謝はバレますが。また不必要に気持ちを込め過ぎる感謝も気持ち悪いです。なかなか難しいところです。そういう意味で感謝の技術の習熟としても感謝を習慣にすることは良いことですが、それはあくまでも礼儀作法と立ち居振る舞いの技術の習熟に関してのことです。そのような外界への表現への洗練さとは別に何よりも内界においては感謝する人は心が素直になるという利益があると思います。

心が素直であるということはバカ正直になんでも「あなたは◎◎ですね。前から思っていました」とかそういう他者を不快にする語る必要のない不快語を言うことではなく、自分の気持ちをよく自覚することができるということです。悲しいときは「自分は今悲しんでいる」と自覚し、嬉しいときは「今は嬉しい」と自覚するのが素直であるということです。そのときは「自分は今妬んでいる」と負の感情も自覚します。自覚するがゆえに妬みに伴う不快感をはじめとする様々な妬みの苦性、悪を結果する悪性に関する知識が生じて結果的に嫉妬や吝嗇や不満などの悪感情を排除することになります。

素直な人に悪感情が生じないのではありません。誰にでも修習がない限りは悪感情は生じます。しかし素直でない人は悪感情に正面から向き合うことなく、悪感情を意識から反らします。それが蓄積して今さら感がつのって、ついにはひねくれてしまうのだと思います。普段から自分の悪感情を素直に感じて真っ正面から向かい合って「やっぱり嫉妬や不満はよくないな」となるまで自分の気持ちを処理していれば、次第にそれが修習となって心は綺麗になります。素直というのはバカ正直に何でも喋ることではなく、自分の気持ちをよく自覚していることだと僕は考えています。本音で感謝することは味方を増やし、結果的に自分の悪感情の下劣性をより一層深く認識させる原因となると思います。それが悪徳の減少と美徳の増大につながります。ただしこのような効果を期待する際は、身体と言葉だけで感謝するのではなく、心による感謝が不可欠であるとは思います。そうでなければ「ありがとうございます」を連呼する接客業の人が最速で美徳を獲得してしまうでしょう。

以前、僕は「恩を数える」ということを書きましたが、実際に自らが受けている恩を数えて恩の内容を明白にしてから感謝したほうがより一層内実を伴っており善いことであり自身の心も納得できる感謝となると思います。しかし逆に感謝してからその後で恩恵を探すという順序でも良いと思います。人はあるヴィジョンを生じさせるとそのヴィジョンに対応する別のヴィジョンを連想によって探し出して来ようとする働きがあると思います。あまり可愛くない人や動物や物に対してでも「可愛い可愛い可愛い可愛い」と連呼しているとその対象物から少しでも「可愛い」という言葉に伴うヴィジョンに対応するものを対象から探し出して関連づけさせようとします。一種の脳内検索です。

同様にバカの一つ覚えだとしても、ひたすら対象を特定せずに「ありがとございます。ありがとございます」と感謝していると「何か知らないところで恩恵を受けているに違いない」と無意識のうちに受けている利益を探し始めます。あるヴィジョンは別のヴィジョンを生じさせる原因になるということです。結果的に物事の因果連鎖は非常に複雑で必ず全宇宙の全ては何らかの相互関係を有しているわけですから、探そうと思えば恩恵はいくらでも探せるので確かに感謝する理由は正しく存在すると言えます。原始仏典にあらゆるものには清浄な側面も不浄な側面もあるから、サーリプッタのようなものは見たい側面を見ることができるという主旨のことが書いてあったと思います。恩恵もその一つなのだと思います。

この方法は「無常無常無常無常」と連呼して無意識のうちにそれらの中にある無常性を探すのと同様です。また異性の身体に対してひたすら「不潔で汚い。不潔で汚い」という不浄想に住して性欲を減退せしめるのも同じだと思います。先に結論を出して、後で理由を探すという順序です。ヴィジョンとヴィジョンの相関関係を利用したものです。

この方法は正しいヴィジョンであれば有意義ですが、間違ったヴィジョンで実行すると自他に不利益なこととなります。「無駄無駄無駄無駄」などと心で繰り返していると人や自分のやっていることの全てが無駄であるように思えて来て、ついには正しい修行も無駄なのではないかと思い始めます。それは邪見です。正しい修行は善い結果を起こし無駄ではないからです。もっとも間違った努力は確かに無駄な努力に相違ありませんが。いずれにしても心で繰り返すヴィジョンは善相に限ります。善相とはそのヴィジョンを原因として自他に利益と楽が生じるようなそういうヴィジョンです。また一部にしか適用できないヴィジョンを全部に適用するのも間違っているので注意が必要です。

こうして感謝をしていると自分が受けている恩恵に関する知識が増し、恩を知り恩を感じる力が高まってきます。たとえばいかなる財産、衣食住他や不動産である建築物などを見たり享受しても「そこに人の手を想像する」習慣などが生まれてきます。これら外界に存在する利益の因果連鎖を人や非人の三行にまで還元するようになると感謝は事実の知によって裏付けを得ます。

そうすると、自分はなかなかに人や社会から恩恵をすでにもらっており、逆に言えば自分はそれだけの人間であったか、あるいは福業を積んできたのだな、恵まれているのだなと思うようになります。これが少欲満足に少なからず資するところがあり、自尊心を高め自信を与えて人や社会に対して前向きにさせます。また「人や社会は敵ではなくて味方なのだ。自分はこれだけの恩恵を受けているのだから。人や社会から受けた損害は水に流すとして」と思えるようになります。こうして反社会性の無益な側面を削り取ることができます。社会と良い関係を築き上げることができれば、街を歩くときのストレスは軽減されます。

利益を与えたり与えられたりして人は友情を結びます。そうであるならば、社会が自分に与えている利益分は、こちらから見て街を歩く人々において友情を見いだすことができます。「みんな友達」という言葉がありますが、この言葉は恩に感じて仇は水に流す人にとっては真実になると思います。許すことができない人にとっては単なる綺麗事に過ぎませんが。

感謝は内界においては「外界から与えられている利益に関する知の増大」を結果します。そして外界においては「外界から与えられる利益の今後の継続」を結果します。付随的に人に愛される性格の形成となり、嫌われる要素の削減になり、内界と外界における利益の動きを見切るがゆえに、自分の利益保全のためにより良い関係を外界と築こうという気を起こさせます。また人格が円くなり、与えられた利益は与えられたものとして認め、受け入れるところの誠実さが増大します。事実は事実ということで。それが傲慢さを減じて謙虚さを生み、身の程を弁えた言動をするようになります。そして、外界への連帯感や仲間意識が増長するので、それが転じて安心感とリラックスを生み、それが集中力にも転じます。そしてその安心感に裏打ちされた集中力により、知りたいことを知り、向上させたい能力を向上させてますます繁栄するというわけです。感謝をすれば最低限の礼節としての義務の履行を行なうことになり、それが安心感を生じさせます。

恩恵を受けっぱなしで沈黙している場合、四無量心など他者に利益を与える行為をしていない人にとってはかえって不安と困惑を呼び起こします。そしてそれは恩恵を受けてばかりで申し訳ないという罪悪感を生み出します。彼が無償で他者に利益を与える人間ではないから、彼らも返済を求めるだろうと考えるからです。それは彼の勘違いもあるのですが、人は誰もが自分と同じように考えるのだと思いがちです。恩恵を与えるときの心情が業の報いとして今度は自分が恩恵を受け取るときに返ってきます。嫌々恩恵を与えれば、恩恵を受け取るときにそういった罪悪感を抱くことになると思います。業の報いを考慮すれば他者に利益を与えるときも感謝するときも嫌々ではなく心から喜んでというのが結果的に自分の利益になると思います。

感謝に転じる原因の一つとして「他者からこれだけの利益を与えられたこと、あるいは今も与えられていること、その事実を事実として自ら率直に認めること」、これが特に感謝の姿勢として重要だと思います。この想を生じさせることができれば、それは心行において正見にもとづく感謝が生じていると言えると思います。また利益・不利益の流れを見る法念処の一環にもなります。



以上のこれら感謝に関することはあくまでも外界との関係のことです。感謝だけでは苦滅には至りません。四無量だけでは苦滅に至らないのと同様です。もっとも四無量中に無常・苦・無我を見れば漏尽に至るように、感謝中に無常・苦・無我を見れば漏尽は可能です。しかし無常苦無我を見なければ感謝だけでは無理です。苦滅に至るためには内界自体を劇的に改変させるところの正しい修行、いわゆる三学、特に四念処、中でも自己の四諦に関する法念処、これこそが進歩への最高の加速装置であると思っています。もちろん無常・苦・無我を見続けることも五蘊の生滅に絡めた法念処の一つであり、漏尽の修行法です。

三学を学ぶ環境を今後も維持するためにも三行による感謝は非常に有効だと思います。その上で三行による利行、わけても四無量を行なえばより一層外界における未来は安泰だと思います。恵まれた環境で三学を学ぶということ、それは在家であれ出家であれ良いことです。そのためにも今の暮らしを支えている家族・親族・職場・友人・社会・神々・その他へ感謝することは手堅い方法論だと思います。そのための先祖供養や餓鬼供養、神々への供儀だと思います。

「いつか漏尽の阿羅漢になって、阿羅漢になることに寄与してくれた存在者たちに感謝するような日が来るのだろうか、阿羅漢になってゴータマに挨拶しに行った比丘たちのように」と思います。僕の実力ではまだ遠い先の話だと思います。先に阿羅漢になった人には指導をお願いしたいです。そのときは根掘り葉掘り聞きたいです。




振り返って見れば、「人生、恩に感ず」。
そして「両親は神様です」。





 感謝・・・他者から与えられた利益に対して「私はあなたから利益を得ました」と
      自ら認めていることを身体・言葉・心の行ないを通じて相手に伝えること

 結果・・・外界 利益授与者の行為に感謝分の価値を与えて行為に報いる。 
         行為に関する見解の一致が今後の信頼関係に寄与する。
         援助継続の可能性の向上。
         業の報いにより後に感謝されることになる。他諸々。
      内界 利益と利益授与者との関係性とその利益性の再認識。
         今後の相手との関係に対して前向きとなる。
         感謝に伴う謙虚さなどの美徳の向上。他諸々。
         


・利益を与えてくれた人への対応

  1.恩に感じず、恩を仇で返す
  2.恩に感じない
  3.恩に感じるが感謝しない
  4.恩に感じて感謝する
  5.恩に感じて感謝してできる範囲で恩に報いる
  6.恩に感じて感謝して不死を与える

コメント(6)

感謝は「あなたによって私は利益を得ました。その事実を事実として私は認めて、私はあなたに三行を通じて感謝の意を伝えます」ということだと思います。不利益を与えられたことは別のこととして分別しつつ。



内界と外界の関係は主に四つに分類され、為すべきでない対応と為すべき対応もそれぞれあると思います。


 1.他者に利益を与える     恩に着せないこと
 2.他者に不利益を与える    謝罪と反省と罪滅ぼし
 3.他者に利益を与えられる   感謝と無害範囲での報恩
 4.他者に不利益を与えられる  許しと寛容


自己の三善行と三悪行と他者からの三善行と三悪行、その接触後の新たなる行です。

他者に利益を与える際は、業の報いに期待してその人に期待しないことによって恩着せがましい態度を取らないことがより利益ある態度だと思います。もし恩に着せて相手の心に負担をかければ利行としては相手に利益を与えていても、相手の心に負担をかけるという新たなる不利益の行を相手に行使することになり、相手は複雑な感情を抱きます。これを避けます。ただし相手が勝手に心の重荷にしている場合は相手の自己を傷付ける意悪行に過ぎないのでこちらは無罪です。

他者に不利益を与えてしまった場合は、率直に非を認めて謝罪し、未来にこのようなことがないように防御し、さらに相手に生じた損害分を無害の範囲で補填することができれば理想だと思います。贖罪と罪滅ぼしです。

他者に利益を与えられたときのさらに利益を生じる対応が感謝であり、できる範囲で恩に報いることだと思います。感謝も報恩も義務ではないと思います。

他者に不利益を与えられたときは、相手のその罪を許すことが利益ある態度であると思います。許さなければ復讐か、あるいは相手が二度とこちらにそのようなことがしたくなくなるまで痛めつけるように行動することになります。それは報復の連鎖を生み、双方に不利益です。侮辱や損害を耐え忍ぶことが双方の利益になります。その様子はアスラ王に侮辱された神々の王サッカがそれを耐え忍ぶところとして原始仏典にも記されています。

苦受が生じたとき相手を許すことは内界においては忍耐として現れ、外界において苦受への忍耐は許すこととして現れます。他者がこちらに悪行を行なうということ、それを避けることは困難であることを考察し、他者が実際にこちらに悪行を行なった際においてはその損害分の補填を他者に求めるのではなく、自己の努力にそれを求めることによって怒りと違逆を滅するのみならず、その流れに乗って自己の生産性をさらに高めて自らの五力に寄与します。

財産の損害は四無量によってカバーし、肉体の損傷は死後においてさらに善き身体を獲得するための修行に転じ、名誉毀損においては陰に陽に他者に利行を行なうことによって名誉の挽回を粘り強く自ら次第に構築していきます。これらを行なうのはただ他者を破壊することが最終的には悪業の報いとして自分に降り掛かり自分の利益にならないことを見るからです。ゆえに復讐以外の解決策を求めます。
もっとも重要なことは自分と他者とが利益不利益を与えたり与えられたりするだけでなく、それらの接触がさらなる想を自己と他者に連鎖的に引き起こし新たなる三行を双方が結果することです。それらへの対応として自分は三悪行に分類されるものを行なっているのか三善行に分類されるものを行なっているのかが重要です。ここにおいて善循環が形成されるか悪循環が形成されるかが分かれるからです。意図的に善循環を作り出せる者は栄え、悪循環の道しか取れない者は衰退します。

時は止まらず、行為は行為を生み、事はそれだけでは終わっていません。それぞれの生ける者が自己と他者の関係の中で思うところの全ての意行、怒りや恨みや軽蔑嫉妬、感謝や寛容他の感情、これらはさらなる行為として自他双方に影響を与えます。これら心の中で思うことが重要だと考える人は心を清めて美徳を獲得することが期待され、これらを軽視する人はその漏れの分が心を汚して悪徳の増大を招き性格は悪くなります。

意行がもっとも重く、語行と身行がもっとも重いのではないということが原始仏典に書いてあります。自分の心の動きの全てを知り尽くすところに四念処の本懐があると思います。受・想・尋の生・持続・滅の完全なる自覚であり、ゴータマはそれをマスターしていました。

自他が互いに善悪の三行を行ない合うときにさらに自分が心に何を思い、言葉と身体で何を行なうのか、それらをよく自覚して吟味することは必然八正道の修習にもなります。これら自他の関係における最善の心と言葉と身体の三行、これこそが真の礼儀であり、ただ言葉と身体が丁寧なだけで心に優しさと麗しさが伴っていないものは礼儀としては画竜点睛を欠くと思います。


真の礼儀は自ら内に省みて恥じるところがないことを至上目的とし、他者に良い印象を持ってもらえるか否かに一喜一憂するところにはありません。礼儀作法によって得られる評価は副産物に過ぎず、最優先すべき目的は無害性と利行性にあり、そこに一切の清浄さと麗しさが宿ります。ゴータマは無害を極めたナーガの称号を獲得した者であり、隠す要のなき心の動きと完全なる身の所作と不死に導く善語を備えています。そんなゴータマでも不快になり気に入らなければ黙ってそこを立ち去ります。

自分だけを守って他者を傷付けるのは礼儀ではなく単なる自分勝手であり、他者の言いなりになって自分を傷付けるのも礼儀ではなく追従に堕しており自尊心を傷付けています。ただ自他双方を傷付けない範囲において三行を行なうところ、そこに真の礼儀と正義があると思っています。単にやられたからやられた分をやり返すところの同害復讐法は守るべきものがある欲界においてのみ成立する正義であり、聖者はこれを取りません。自分も世界も暴力や誹謗中傷と理由なき嫉妬から守り切ることはできないと見るからです。そして全ては手遅れであり、復讐し切ることも恩を返し切ることも正確な意味においては不可能だからです。

ただ新たなる三悪行を自らが行なうことを怖れ、また三悪行を行なず行なわせないことによってのみ人と自分を守ることができると見るからです。転輪王はよく国土の民と動物たちを守るが、如来は為すべき三行と為すべきでない三行を教えることによってよく人々を守るという主旨のことが書いてある通りです。そして貪りと渇愛という自己への悪行を断てば、そこに不死があります。

ゆえに聖者は政治に参与せず。またブラフマーから三十三天と四大王天の神々が行なうところの世界運営と魔群の防衛と捕縛した魔族の管理にも参加しません。悪を為すことによって善を得ることを聖者は嫌います。暴力や強制による平和の維持や社会管理です。

外においては軍隊、内においては警察、それらは暴力への恐怖による自己防衛です。それらが不必要というのではなく、聖者はそれらと関わらないということです。聖者は手を汚さず汚させません。ただいまだ執着があり守るべきものがある者たち、いまだ業の報いを覚らざる者たち、彼らがそれらを聖者たちが止めても為すだけです。
正義という言葉はすでに社会的な意味合いを含み過ぎています。しかし真の正義は利益と直結したものであり、利益においてのみ真の正義性の基盤は得られます。そして他者に危害を加えられた者の利益とは、即ち無害、そこにあります。ゆえに正義は復讐を意味せず、許しを究極とします。対外的には。一方で内においては自己の苦因をもはや決して自ら形成しないところの渇愛滅尽、それが内における正義の究極だと思います。

外においては最高度の寛容と忍耐を堅持し、内においては渇愛滅尽としての自己の最大善利益に達すること、これこそが外界における真の正義であり、内界における真の正義であると思っています。この二つの自他双方への完全無害性、これをマスターした者に送られる称号がナーガです。

そこに達するために自己の三行を常に省みるラーフラへの鏡の法門があります。これは間断なき自覚である四念処のうち、法念処に関わってきます。自己に三悪行の法があるかないか、三善行の法があるかないか、常に自覚し点検します。全ては業の報いというシステムがあるかないかにかかっています。ゆえに正見がまず最初に先行し、他の七支はそれに従い展開します。

それゆえにも、業の報いという自動システムの実在の有無は自己の利益を求める人が必ず検証しなければいけない法則だと思います。業の報いを信じる者の三行は裏付けを得ますが、業の報いを信じていない者の言動も表情も全て上辺だけのことであり、その心の本音はせこいものです。せこさは偉大性と反発します。陰に陽に慈しみという麗しさが宿るためには業の報いの有無の検証が不可欠です。三無害を達成した者にナーガの称号が送られるならば、僕は三慈行を達成したブラフマーに等しい者には「麗しの君」という称号が相応しいと思っています。


欲する人は渇愛滅尽をはじめとする美徳の宝石を獲得するために急ぐことが自分の利益になると思います。あるいは美徳の輝きをすでに知っている人は。
三行によって感謝の意を相手に表することには原因があります。


感謝への信か感謝に関する知か、あるいは感謝への正見、これが原因として感謝が生じます。八正道で言えば感謝に関する正知、これが恩に感じず恩を知らないという悪徳からの正解脱を結果させます。

感謝に関する正知のうち僕が最重要だと考えているのが感謝に関する生滅の知見です。生滅知は感謝のみならず五蘊・六界・六処他の領域に関する知においても最上であると考えています。五蘊の生滅の考察により僕は得るところが非常に多くありましたし、今後もこの正式な無常想である五蘊の生滅を見る修行を続けて行きたいと思っています。ウダーイもまた五蘊の生滅を観じることを原因として七覚支をものにして流れに入りました。

これがあるとき感謝があり、これがないとき感謝がないというこれは、感謝の利益についての知と感謝しないことの不利益に関する知です。この知を原因として感謝に関する正見が生じ、感謝のための三行は展開します。

感謝の質にも優劣があります。四禅・四無量・倶分解脱の巧みさにおいても優劣があるように。ただし解脱における一切執着の放棄においては差異はありません。如来のほうが弟子の阿羅漢よりも執着を捨てる力とその巧みさにおいては圧倒的に優れていますが、一切執着の完全放棄の状態においては如来も弟子の阿羅漢たちも差異がないものと考えています。

分かりやすいもので言えば、言葉と身体で感謝の意を表しても心で感謝していない場合、根本を欠きます。一方、心で感謝していても言葉と身体で感謝の意を表しない場合においては心があってもそれを載せる器がなく、他心通のない人間に伝わるのは微妙な雰囲気のみです。しかし霊的な存在には伝わると思います。意行が語行と身行に先行します。できれば三行全てに感謝の色を沿えてしかも不自然でなくぎこちなくなく、丁寧で圧迫感や重荷を与えない真心からの感謝ができればハイレベルだと思います。これは三行における感謝の質です。

知見の領域としての感謝の質に関して言えばこれが一番重要なのですが、「何からどれだけの恩恵を受けているのか」に関する知見、これが決定的です。受けている恩恵と利益を知らなければ、その無明分においては感謝や知恩は生じません。無自覚領域においては放置がつきまといます。

その他者からの利益と不利益の流れを知るために生滅を見ることが推奨されます。両親がいなければ自分はどうなっていたか。家族、親族、友人がいなければ自分はどうなっていたか。地域や国や地球がなければ自分はどうなっていたか。太陽系と銀河系、全宇宙がなければ自分はどうなっていたか。

この外界からの不利益の流入をも見ますが、その不利益分は今まさに自分が全てを水に流せば全ての復讐はここで終わります。仮に自分の大切な人や物や場所を傷付け破壊し続ける他者が今もいるとしても今ここでその敵の悪業を全て許せばそこで全ての復讐は終わります。一切が変化するなかで誰かを守り切ることはできません。必ず全ては滅びます。ただ変化し続ける者たちへの援助ができるのみです。

仇は水に流して外界からの利益分の流入を見ます。時間の経過によって恩恵は増大したり減少したりします。世界の堕落の結果、以前よりも自分が受けている世界からの恩恵分は減少している可能性があります。しかし自分の堕落と世界の堕落はある意味、相似の関係にあり、また自分が以前よりも幸福でないからと言って今自分が利益を受けていないわけではありません。楽受が生じなくてもさらなる苦受分が生じないようにしてくれている他者の恩恵に対して感謝し恩に感じるのが誠実です。
次第に全宇宙が「思いの固まり」であるようにとらえられてきます。全宇宙は善悪の心の思いより成っているのだと思います。この自分という内界は、外界からの善悪の心の思いの流入と、内界における自分の意志、自分の思いも含めたそれらの相克から成り立っています。聖なる知は最高の浄化力を持ち、五蘊生滅知はその究竟であると見ます。すなわち聖慧根・聖慧力・慧学・正見・正知・超知・正覚であるところのものです。

全ての財産や経済活動に人の手を想像することは優れたことです。しかし、森羅万象において生ける者たち一人ひとりの思いを想像することのほうがより一層優れています。身行よりも意行を見るほうが優れています。色よりも心を見るほうが優れています。物質とは思いの集積であり、色に関連した受・想・行・識もまた思いの集積です。

外界からの善悪の流入を見るときは利益分への感謝の念が生じ、不利益分への遺憾の意は生じます。しかし不利益分を上回る力を獲得するに至ったときは、たとえば四無量の梵力であり、四禅の天力であり、漏尽力の聖力、これらの力を獲得したそのときは全ての災いは転じて福となります。そのときは不利益分における遺憾の意は感謝に転じます。これらを達成する前から信によって苦受へ感謝する者もいれば、達成してから感謝する者もおり、感謝しない者もいます。それは苦受と不利益分をどう見るかにかかっています。勇者にとっては楽受も苦受も修行の機会です。

喜びを原因として感謝することもあれば、感謝を原因として喜びが生じることもあります。このうち後者のほうがより一層優れています。喜ばされて感謝するときは楽受による自覚分から必然的に恩恵を与えられた知が生じ、その分が自然に感謝に転じます。一方で、感謝を原因として喜びが生じるときは、感謝に先行する知として他者による自分への恩恵の生滅を知るがゆえに、実際には他者がいなくなった場合の損失を蒙っていないけれどもそのような損失を想像するがゆえに、普段は不満があって現状に違逆する想が脳裏にとどまっていても、その損失分を想像した分は普段の不満の違逆分が緩和されて、現状が意にかなってものとして認識され、その一致分において喜びが生じるからです。他者から生じる利益の生滅に関する知が今の生活の土台の知へとつながり、その知分が違逆と不快を滅して喜びを生じさせるという因果連鎖になっています。

ゆえに現在楽受がなくとも、幸せでなくとも、喜ばされていなくとも、外界からの利益の流れを見切ることによって知を得て、その知に立脚して喜びと感謝と恩に知ることと他者への信頼を育むことができます。これは賢明な者にのみ可能であり、感謝を知る者は必ず外界に関する適切な知と適切な対応へと導きます。こうして賢い者はますます賢くなり、知恵と善人性がいかに密接で不可分の因果連鎖にあるかを知り、善人になることへの疑いは払拭され、善人として大成するための信は堅固なものとなります。そこに利益と快楽を見るゆえに。悪人こそが快楽を獲得するならば全ての賢者は悪人となったでしょうが、賢明なる者はみな一様に善人です。悪賢い悪魔は快楽を失うものと見ます。

外界に存在する他者はこちらに利益をもたらすことを意図せずにこちらに利益をもたらしている場合があります。その場合においてもこちらが感謝すれば相手は普通、喜びます。それが友愛と一致と信頼と絆を生みます。新しい仲間です。互いの始めて交す言葉が感謝から始まるのは意図せざる喜びです。

他者から与えられた利益と不利益を分離して考えられない人は感謝が困難になります。そういう人はこう考えます。「これだけの損失を加えられたのだからどうしてこんなわずかな利益を与えられただけで感謝しなければいけないのか。まだ受けるべき利益が足りない。感謝したくはならない」。そういう人は、勝手な自分の中でのみ通用する足し算と引き算を行なうよりも、損失分を水に流して利益分を感謝したほうが互いの関係は改善されて双方の利益と楽に転じることを比較しつつ考察する必要があります。


以上は感謝ですが、謝罪の生滅に関連する因果連鎖においても同様の考察を行なうと自己と世界の関係の理解と適切な外界への三行に転じる原因になりますので、余力があれば考察すれば知恵と利益に資すると思います。


人は解脱しない限りは人に愛され認められたいと思わざるを得ません。生計と肉体の維持と他者の中にある自分の評価は密接な関係にあり、漏尽力がないかぎり必ず流されます。それゆえに「素直に感謝し謝罪する人間はより愛され認められるのだ」と考えて美徳の収集に精を出すのが良いと思います。外界との関係が良好になれば五蓋は減ります。五蓋が減れば初禅に資して、それが聖知見に資し、解脱と涅槃に資します。すべて美徳は得て損がないものです。
ゴータマが食事に招待してくれた優婆塞に感謝する記述が、中部経典第91経「ブラフマーユ経」にありましたので紹介します。


内容は120歳のブラフマーユ・バラモンの命を受けた弟子のウッタラ青年が七ヶ月間ゴータマに張り付いて、ゴータマの素行調査をしたその結果報告の一部です。



・中部経典第91経「ブラフマーユ経」

「彼(ゴータマ)は食べてしばらく沈黙して座る。しかし感謝すべき時を逸するのでもない。
彼は食べて感謝する。しかしその食事を非難せず、また他の食事を希望もしない。
また必ず法の話によってその人を教え、取らせ、励まし、喜ばせる。
彼はその人を法の話によってその人を教え、取らせ、励まし、喜ばせて、席を立って去る。

・・・・・・

彼は足を拭って座り、結跏趺坐して身体を真っ直ぐに定め、面前に念を維持する。
彼は自己を害することを思わず、他者を害することも思わず、両者を害することも思わない。
自己の益・他者の益・両者の益・一切世間の益をかの先生ゴータマは思って座る。」

   『南伝大蔵経11上 中部経典3』大蔵出版 P184−185 に相当


 註 感謝する anumodati 随喜する、喜ぶ、感謝する




「感謝」に相当するパーリ語はアヌモーダティ(anumodati)、伝統的には「随喜」と訳される語が日本語の感謝に相当するようです。食事を終えて、給仕してくれた人に感謝し、感謝した後で相手の利益を思ってゴータマは説法するのがお決まりのコースのようです。

後半の記述は僕が賢人七思と命名している賢者の七つの思考をゴータマもまた完全に実行し、その賢人七思をもってまず最初の思考としていることがわかります。四利を見てその後で観察された利にのっとった善想に傾注するのだと思います。

この経典だけでなく他の多くの経典でもゴータマの三十二相はバラモンやその弟子たちにチェックされるのですが、三十二相はバラモンたちの間でも学ばれるものであることがわかる記述があるので、カッサパ・ブッダ時代の教えの名残りが当時のインドのバラモン教に残存していたのではないかと思います。


このウッタラ青年の素行調査は七ヶ月間にわたるゴータマの行動パターンの観察なので、ゴータマが感謝をする習慣を持っていることは確実だと思います。また感謝とは別に恩に報いる行為としてゴータマが正覚して阿羅漢になった後にも、在家時代や出家時代にお世話になった人々への恩返しを続けていたということも重要だと思います。

たとえば五比丘を真っ先に解脱させてあげるとか、サキャ族の人々への特権(他の教えを奉じていてもサキャ族は出家の前段階としての別住をしなくてもよい)、また祇園精舎を布施したアナータピンディカをはじめとする多額の布施者への特別待遇としての多くの説法などです。

原始仏教は自利の教えであることはもちろんですが、利他として人間関係をより一層良好にする和合の教えも多々あります。その明確な根拠の一つが今回のような「ゴータマは正覚後も感謝と恩返しを続けていた」ということが知られる記述です。阿羅漢になれば凡夫よりも遥かに優れた存在です。遥かに優れた存在にして阿羅漢であるゴータマであっても他者に利益を与えられれば、それがたとえ劣った凡夫からのものであっても謝辞を述べているということが重要です。立場が上になると素直に人に感謝できなくなる人が多いですから。

感謝する人と感謝しない人のうち自分はどちらと仲良くなりたいかとイメージすれば、そこに感謝の美徳の意義があると思います。感謝は義務ではないですが、感謝をすれば友好度が上がります。感謝を始めとする礼儀の数々、謝罪や許しや寛容や親切といったものはいずれも相手の中におけるこちらの評価を高め、好意を得させ、友好と親善に資するものです。


感謝は対人関係における友好度を上げる行為としてはかなり効果が高い行為だと思います。




[パーリ語原文]
So bhuttāvī muhuttaṃ tuṇhī nisīdati, na ca anumodanassa kālamatināmeti.
So bhuttāvī anumodati, na taṃ bhattaṃ garahati, na aññaṃ bhattaṃ paṭikaṅkhati;
・・・・・・
So neva attabyābādhāya ceteti, na parabyābādhāya ceteti, na ubhayabyābādhāya ceteti;
attahitaparahitaubhayahitasabbalokahitameva so bhavaṃ gotamo cintento nisinno hoti.

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