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原始仏教コミュの「身の程を知る」と「恩を数える」

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僕がやっている修行について書きます。原始仏教の修行を若干アレンジしているのでそこは注意してくださればと思います。





     1.身の程を知る
     2.恩を数える







僕はいつも神棚にお参りしてから二つの修行をそれぞれ四秒ほどやっています。


一つは「身の程を知る」と心の中で言葉で考えて四秒ほど念じます。きっかけは徳川家康公の「人はただ 身の程を知れ 草の葉の 露も重きは 落つるものかな」からで「身の程を知れ」というのは家康公の教えの根本です。原始仏教から言えばこれは俗なる法念処の一部に相当し聖ではありません。聖としての法念処は五蓋や五取蘊や六処への束縛や七覚支の有無や四諦を念じて自覚する修行です。

「身の程を知る」と念じていると自分にある法と自分にない法が分離して見え始めます。超常的な知覚ではなくて普通の自覚です。たとえば「自分にはこの力があるがこの力はない」とか「自分はここまで外界に影響を与えているがここから先へは影響を与えていない」というように、まずは自分の力の限界の自覚として現れて来ます。

この「身の程を知る」という導入口からの法念処を僕は四秒ぐらいやってから、次に「恩を数える」と頭の中で言葉で考えて四秒ぐらい念じています。



「恩を知り恩に感じる」というのは原始仏教では善人の要素であり善法の一つですが、僕は漠然と恩に感じて感謝するのも良いと思うのですが、具体的な事実から遡行して恩に達する方法を取りたいと思ったので「恩を数える」というふうに実践しています。

「恩を数える」と家族親族の中でも特に両親が莫大な利益をもたらしていることがより一層明白になってきます。多くの人は肉体を相続しただけでなく、成長段階においても継続的な援助を受けています。肉体相続が一番重要な利益なのですが、それだけでなく継続的に援助してくれる親がいるという「その安心感がサマーディに転じる」ことによって、学力やその他の能力を身につけることが可能になります。

家庭が心の拠り所として機能し、安心感を生み出し、心身の疲労を回復できる場所ならば、子供の心は安心を得て、安心を原因として心身は静止し、心身の静止から集中状態が結果され、その集中を得るならば欲することを実現することができます。家庭が避難所や回復所として機能している家族は子供だけでなく両親も様々な能力を育成できる可能性が高くなります。逆に家庭が崩壊している場合、家族全員の進歩スピードが遅れるだけでなく、心身の疲労やストレスも回復できないためにさらなる悪行の温床となります。

良き両親から生み出される家庭の安心感、そこにおいて子供は集中を得て必要な力を身につけるがゆえに、両親から受けた恩は肉体相続を含めて莫大なものがあります。兄弟やその他の家族・親族からの恩はそれに次ぐものです。「勉強しなさい」と口うるさく言うよりはまず子供に安心感を与え、家でくつろがせたほうが成績のみならず心身の向上にもつながると思います。

不快感や焦りという五蓋のゴミ袋をかぶっていると、勉強してもサマーディに達せず、記憶も困難であり応用力の開発にもつながりません。「好きこそものの」だと思います。好きでやれば集中し、しかも長続きするからです。

さらに「恩を数える」を続けると全人生において経験してきたことの全て、六処に流れ込んできた全ての情報、三行によって為してきた全ての行ない、これら全ての経験によって受けた恩(仇は水に流すとして)は社会と世間を接点として無限に展開していきます。世間の一般常識を共有せしめるところのテレビ・新聞、受けて来た全ての教育、生産され製品化された衣食住他の財産。これら原材料は別として加工・流通は人々から受けた恩恵です。

一方で各地方の季節は全て山川海の位置関係と地球の自転による毎日毎日、月の公転による毎月毎月、地球の公転による毎年毎年のことです。四季の恵みとしての恩は太陽と地球からの恩の流れとして外すことができないものです。このあたりから、つまり自然からの恩恵を考慮し始めるあたりから、人々からの恩だけでなく人間以外の存在者たちから受けた恩を計算せざるを得なくなってきます。

地球上にある全ての気体・液体・固体、鉱物・植物・動物・人間・財産は全て天か地から得られたものです。ゴータマは一世界を一つの太陽と一つの月の光が届く範囲として設定しており、それは太陽系に相当すると思うのですが、確かにそれで一つの必要最低限の世界としての要素が揃っていると思います。銀河をもって一世界と設定せずに、一つの太陽系をもって一世界と設定したというのはそういうことだと思います。

恩を数えると連鎖的に生じるところは、親・家族・親族・友人・学校職場・地域・国・地球・太陽系・銀河系・全宇宙という順序ですが、しかしもっとも多大な影響を与えているのは「メディア」だと思います。メディアは莫大な利益と莫大な不利益の双方を世界に垂れ流し続けている無視できない存在です。身の程を知り、恩を数えるところにより得られるものというのは、結局のところ自分がいかに外界からの影響を受けてきたかということであり、いやむしろ自分を作っているものはほとんどが一方的に与えられた外界からの影響であり、自分が外界に影響を与えたというのはどんな存在者でも必ず部分的にはあるにしろ、それは極微小なものでしかなく、受けた影響と与えた影響を比較した場合、ほとんど話にならないほどの差があるということです。大多数の人は世界を変えようとは思いません。なぜなら自分の無力さをこの人生によって日々思い知らされ続けているからです。力の生滅の知がない存在者は無知を原因とする不信と懈怠と諦めを結果します。

さらに身の程を知ろうとして念じ続けると、自分という存在者がほとんど機械のように必然的にある考えを受け入れ、必然的にある考えを排除し、必然的に限界ある精進力の中で揺らぎをもって加速したり減速したりしているという事実に気がついていきます。と同時にこれを自覚した段階でこの自覚知を原因として生じるところのさらなる可能性の獲得という利益も見逃せないことにも気付きます。しかしこれもまた必然であるというところに再度志向すると、自分というものは自分の自由になるものではなく、むしろ機械的に自動的に必然的に自分が進歩せざるを得ない状況作り・思考回路作りが有意義であるということに気付いていきます。もちろんこれらの思考につれて無我性はより一層明確に認識されてきます。自動的に向上するための心の要素としては慚愧を含む五有学力(五つの学ぶ者の力。善への信力・慚力・愧力・勤力・慧力)がアクセラレータとして機能します。



僕が「身の程を知る修行」と「恩を知る修行」をセットにしているのは相乗効果を期待してです。身の程を知れば自分のできることと自分のできないことを知ります。自分のできることと自分のできないことを知れば、自分ができていないのに今の生活がなぜ可能なのかという方向に意識が向かいます。すると必然的に他者が自分に利益を与えているという事実を認識します。こうして身の程を知ることと恩を知ることをリンクしており、他者が自分にどれだけ利益を与えているのか知れば知るほどに他者を傷付けることが自分の不利益に直結することを知り始めます。家康公も「身の程を知れば過ちを犯すことはない」と言っていますが、そういうことです。

他者の全てが自分に利益を与えているわけではなく、明らかにこちらに不利益を与えている場合もあります。その場合に悪行を制御するのは「業の報いへの信」というこれしかありません。しかし身の程を知れば業の報いとは別に「現実的に他者を傷付けることが必ずしもこちらの利益にならない」ということを明らかに知り始めます。この知を原因として他者の利を知ります。他者の利を知れば他者を守ります。それが上に立つ者として相応しいことであり、四摂事のモチベーションの根本原因です。ゆえに家康公は大御所という最高権力を獲得し、俗なる四摂事の力において追随を許すことがなかったのだと思います。もっとも家康公に学ぶだけでなく、三英傑他の武将の長所だけをすべていただき、三英傑他の武将の短所はすべて削減によって削ぎ落とすのが最善の道です。武将や英雄はせいぜい三十三天かヤーマ天への転生が限界と見て、古今東西の聖者はさらに上を行くと大雑把には言えるかも知れません。ブラフマーを目指す人はイエスを越えることを念頭に置くといいと思います。


原始仏教は俗世の教えを無に帰する教えではありません。大切なことは聖なる利に導く教えと俗なる利に導く教えを区別することだと思います。「これだけで苦滅に直結する」という教えと、「これは苦滅には資するがこれだけでは苦滅に達するには十分ではない」という教えです。たとえば念身ですが、ただ身体を念じていればいいと理解してしまうとダンサーや格闘家やアスリートや礼儀作法の所作を究めた人間が先に解脱することになります。しかし現に解脱していません。しかしその訓練によって身体操作だけでなく、精神力も向上していることも事実です。ではこれはどう見るべきかというに「彼らが解脱していないのは彼らの念身が遠離に依拠し、離貪に依拠し、滅に依拠し、放棄に行き着く念覚支としての念身ではなかったからだ」というのが正しいと思います。一方で如来の教えを知らずにたまたま身体を念じることが気持ちよくてそればかりやっていた単独修行者が解脱したという場合は「彼の念身は遠離に依拠し、離貪に依拠し、滅に依拠し、放棄に行き着く念覚支としての念身だったから彼は解脱したのだ」と言えると思います。

漏尽に達すればそれを聖とし、漏尽に達しなければそれは俗と見なされるがゆえに、聖と俗を見極める方法はある意味で結果論でしかないとも言えます。しかし四諦や七覚支はそれだけで聖性を備えた教えです。他の俗なる教えがどれだけ聖性に寄与するか、その俗なる教えを単独で突き詰めて聖性にまで達するか、それはその教えそれぞれを各自が判断するしかないと思います。


すでに過去の事実として他者がこちらに利益を与えていたということがあります。その事実を「恩を知る」という修行によって次々に再発見し再認識していきます。一方で他者がこちらに与えた不利益は全て許して水に流していきます。負の感情は自らに苦であり利益がないのみならず、それを原因として三悪行を行なえば必ず一滴残らずこちらが悪業の報いを相続することになるからです。一方でこちらに不利益を与えた他者は必ず一滴残らずその業の報いを相続します。そうであるならば復讐は機械的にはたらく業の法則にまかせて、こちらは業の法則をうまく使って福の連鎖が発生するような行ないだけに傾注していればそれだけで後は人生右肩上がりだと言えます。

身の程を知って恩を知れば、人を傷付けずに人を使うがよいということも見えて来ます。原始仏教を原始仏教という枠に閉じ込めずに、原始仏教を知る前と知った後も変わらない因果連鎖と原始仏教を知る前と知った後とで変わった因果連鎖に着目すれば見えて来るものがあります。最終的には原始仏教と何の関係もない場に自分が出たとして「さあ自分はどれぐらいの高みにまで上ったか」ということだと思います。つまり「本物でなければ意味がない」ということです。


「身の程を知る」という法念処の亜流と「恩を数える」という言い換えは僕が勝手にやっているものなのでやりたい方は考えてみてください。一方で蓋・蘊・処・覚支・諦の法念処と「恩を知り恩に感じる」というのは正当な原始仏教の修行です。自分が今まで受けてきた恩を知れば、自分が愛されてはいないにしても、どれだけ多くの他者が自分に利益をもたらしていたか気付き、そのときは業の報いがあるという信と合わせれば、さらなる善人への道に導かれると思います。



「善人こそが幸せになるのであり、悪人がその悪性によって幸せになるのではない」というのは善き信・善き有学の信力だと思います。




  


・サイト「厭離穢土欣求浄土」>「家康公御話集」>家康公の御話 から

「 22.処世安全の極意とは

 ある時、家康公は、若い小姓連中を集めて、話しを始めた。
「お前たちに、処世安全の極意を教えてやる。これさえ守れば、過ちを犯す事はない。その極意とは、5字で表すのと7字で表すのとあるが、どちらを聞きたいか」
 と言った。
 小姓たちは、どちらも教えて頂きたい、と、言った。
 そうか、と言うように、家康公は頷き、
「では教えてやる。5字で言えば、上を見な、だ。7字で言うと、身の程を知れ、だ。そんな事か、と思ったら間違いだぞ。この2つとも、しっかり肚にしまっておけ。今にお前たちにもわかる時が来る」
 と言ったのである。」 引用終わり。




 ・関連トピック「両親は梵・先阿闍梨・応請」
  http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=38719902&comm_id=951429

コメント(1)

「恩を数える」と表現すると「自分には恩など重荷だ」と思われる人もいるかも知れません。


その場合は他者から与えられた「利益を数える」というふうにすると気持ちも楽になるかも知れません。別に恩に感じなくともよいので、他者からの利益を数えるとどれだけ他者が自分に利益を与えているかわかります。そうすると、別に恩返しをしなくてもいいので「自分に利益を与えてくれる他者がいなくなるのは自分にとって不利益だ。どうすれば今後も自分に利益を提供し続けてくれる状態を維持できるだろうか」という方向に思考が向くと思います。業の報いがある可能性を考慮すれば、さらに手堅い判断が得られます。

「恩」という言葉に重荷があると感じる人は「利益を数える」方法でも、結果的に自分に有益な考察が得られるということです。そもそも恩は重荷ではなく、恩返しは義務ではないので、恩を返さなくとも有罪ではありません。恩を返さなくとも無罪です。返さないといけない恩というものははじめから代償を伴う明確な契約ですので、その場合は恩とは言いません。

「この恩知らず」という場合は、そのように言う人が相手に勝手な契約を押し付けている場合があります。「これだけのことをしてやったから、これだけは返してもらわないと」と考えているのです。それは双方の間で明確に約束して契約したならばいいのですが、勝手に恩着せがましく利益をこちらに押し付けて、後でその代償を請求するというのは有罪行為だと思います。そういう誤解がないように普段からの報告・連絡・相談は大切だと思います。

ですから「恩は重荷だ」と感じる人は「恩は返さなければ有罪で、恩を返さないと後でとんでもないことが起こるのだ」と憂慮している可能性があります。そういう勝手な契約のような恩の押し売りは断ったほうがいいですし、こちらも恩の押し売りをしないほうがいいです。姑息で強引な分は有罪になります。値段がわからない商品を購入する契約はしないことが賢明です。

どれだけ勝手な契約を押し付けられて損害を加えられても、こちらが相手に三悪行を犯さなければ業の報いに関しては安心です。後はその悪人から距離を取って離脱するだけです。無害は押さえておいて、自分に利益を与えてくれている他者について考察を巡らせば、色々と利益があると思います。

また「善業の報いは必ず自分が相続する」と考えれば、恩着せがましい態度を取ったり、後で借金を取り立てたくなるようなこともありません。福の報いは利益を与えた相手がこちらに返してくれるのではなく、業の法則が機械的に正確に返してくれるのだと信じれば。こうしてまた一つ嫌われる性格を除去すれば、また一つ人に好かれる要素が増します。

もちろん業の報いが実在するかどうかを今までの自分の人生の経験から、善悪の行為と楽苦の感受の対応関係を比較して、検証していくのは大事な作業だと思います。「あの楽受はあの善業に対応している可能性がある。あの苦受はあの悪業に対応している可能性がある」という状況証拠の収集です。いずれにしろ、かなりの天眼通を獲得するまでは業の法則の有無について結論を下すのは早急です。しかし、業の法則は有るという前提で生きていったほうが手堅いということについては以前述べた通りです。結論を出すことと暫定的な方法論の区別もまた大切だと思います。と言いつつも僕はすでに業の報いはあるとほとんど信じ込んでいますが・・・という自分の状態も僕は自覚できていますので、その点に関してはより安心だとは思います。

恩は重荷ではないので「勝手な契約による請求分」とは区別したほうがいいです。勝手な契約であっても利益を与えられた以上は広義の恩ですが、その恩と「勝手な契約による請求分」とは区別が必要だということです。勝手な契約による請求分というのはあちらの有罪行為です。勝手な契約であってもこちらに利益を与えてくれたことは確かに事実です。それらの明確な区別です。ゴミも分別すれば処分が容易になるように、心のヴィジョンも分別すれば処分が容易になり、頭からすっぽりかぶる五蓋のゴミ袋も減って来ます。

また「恩を数える」のと同様に、「利益を数える」という方法でも現状の損得の流れの分析に有効です。「不利益を数える」場合は、業の報いは本人相続と思って水に流すのがいいです。


複雑なこと関係なく「今の自分の生活の土台をさらに強固にする」という意味で、他者からの利益を数えれば利益が多いと思います。

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