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原始仏教コミュの二力 「三悪行と貪瞋癡を断つだけ」

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原始仏教の修行を簡略化すれば二つになります。



   第一に、他者を害する「三悪行」を断つこと
   第二に、自己を害する「貪瞋癡」を断つこと


  貪瞋癡によって三悪行をする人  → 性格が悪い人
  貪瞋癡はあるが三悪行をしない人 → 性格がいい人
  貪瞋癡がないから三悪行もない人 → 執着がない人



       [三悪行] [貪瞋癡]  [現世]   [来世]
性格が悪い人   有     有    嫌われる   地獄など
性格がいい人   断     有    愛される   天界など
執着がない人   断     断    マイペース  輪廻超越




これで修行は終わります。三悪行を断つことも貪瞋癡を断つことも「嫌なことをなくすための修行」であり、「楽しみを増やすための修行」であり、「幸せになるための修行」です。修行は自分をどんどん苦しめるためにやるものではありませんし、修行は自分をどんどん不幸にするためにやるものでもありません。



この分類は僕が勝手にしたものではなくて、原始仏典に記述されている思考力と修習力という二力に着目した分類法です(末尾にリンクあります)。

思考力というのは「三悪行の悪い報いを考えて三善行を修行すること」です。
修習力というのは「貪瞋癡を断つために七覚支や四禅を修行する有学の力」です。

思考力がない人を性格が悪い人・悪人として設定し、
思考力がある人を性格がいい人・善人として設定し、
修行を完成した人を執着がない人・阿羅漢として設定しました。





自分に優しい人と自分を傷付ける人が目の前にいるとして、どちらと仲良くなりたいかと言えば、誰でも自分に優しい人と仲良くなりたいと思います。


 愛の公式は「みんな自分に優しくしてくれる人が好き」
 ゆえに  「好かれたい人に優しくすればいい」
 さらに  「みんなに好かれたい場合はみんなに優しくすればいい」


ということです。イエスは優しいからこれだけ世界に勢力を張っているのだと僕は推測しています。優し過ぎる真面目なキリスト教徒は少し自己犠牲的になって自分を傷付けてしまうところがあるのが哀れです。心と身体の自傷行為は原始仏教では厳禁です。

「愛されたいから優しくなろう。認められたいから優しくなろう」と努力して優しい人になれば、実際に優しい分は愛され、優しい分は認められると思います。ついでに死後は天界に行けるので現世と来世で一石二鳥です。

悲しいことですが、愛されていない人は大抵優しくない人です。また認めてもらえていない人も大抵優しくない人です。優しい人は仕事が駄目でも人間関係で何とかやっていけています。しかし仕事は高く評価してもらっているが、個人同士の付き合いになると何だか人間関係に満足できないという人はやはり人に優しくない人が多いです。

「どういう異性がタイプですか」という質問ランキングで常に上位にくるこの「優しさ」という美徳の価値を認識していない人が多いです。優しい異性が誰であっても好きに決まっているので愚問には違いないのですが。

優しい人というのは身体の行為が人に優しく、言葉の行為が人に優しく、心の行為が人に優しい人ですので、腹の底で別のことを考えているようでは、心の行為が優しくないのでその点においては駄目です。

あと「人を傷付けないから私は優しい」と考えている人がたまにいますが、「人を傷付けないし、人に利益を与える」という二つがないと優しいとは言えません。「人を傷付けないが、利益も与えない」というのでは単なる放置・ネグレクトです。暴力さえ振るわなければ優しい人だと勘違いしている人は案外多いです。

高名な宗教家が優しくないと誰であれ、何かイメージに合致しない、納得できない何かを感じます。それは人々が「宗教家は人格者である」というイメージがあるからです。最近はそういう人格者・人徳ある人は減っています。

それはプロの宗教家ですが、コミュニティの参加者の方々の中には、自分を向上させるために精神世界の書籍を読んだり、宗教や仏教を調べたりしている方もいると思いますから、その時間と労力と金に見合った成果を上げるためにも「本当に優しい人間になる」という目標を掲げるのは実に立派な態度だと思います。優しくなれば、きっと毎日が前より楽しくなると思います。



後は、執着を捨てるだけです。執着を捨てることの一番難しい問題点は「自分が何に執着しているのか自覚するのは容易ではない」ということです。「失ってその大切さに気付いた云々」の歌詞はよくあるのですが、「失って心の苦受を痛烈に感じてはじめて自分が執着していたことに気付いた」というのは人ごとではありません。誰でも漏尽の念力を獲得するまでは多かれ少なかれあることです。

執着というのは顕在意識だけでなく、潜在意識を含め「自己存在の一切から」執着を断たなければその分は苦が残って転生の原因となりますから、甘くありません。授業中にボケッとしているような注意力・集中力・自覚力では大きな執着にしか気付けず、漏れ出る執着を止めることはできません。

戦争では敵が見えないことは致命的です。前線で眼をやられて視界ゼロというのは、一目惚れで頭がおかしくなってしまった状態です。一見、戦争では目の前の兵士を倒せばいいように思いますが、それは普通の視力がある人間の限界です。つまり、異性を好きになった場合、目の前の女性を口説き落とせばいいように思いますが、それでは凡人の視力です。

戦争を終結させるには、肉眼だけでなく心眼と慧眼も使って戦争を動かす黒幕を探しあて、さらにその邪欲に何らかの形で終止符を打つ対策を講じなければいけません。戦争の原因は大抵、マーラかサタンが絡んで後押ししていますから人間にはほとんど解決不可能な話ですが。そういうわけで敵は目の前の女性でもエロ動画でもなく、即ち、自分の心の渇愛です。これが見えない敵、自己の内なるテロ分子です。ゆえに渇愛さえ滅すれば、美女が絡み付いて来ようが、エロ動画がずっと流されていようがまったく興奮せず、五感は正常に異性の対象を捉えていても、1ミリも喜びや貪りが生じない状態になれば何の問題もないわけです。

しかし、この渇愛というウィルスはとても微細で実に発見しにくいものです。渇愛が生じた段階ですでに不快と欲求不満と興奮状態に突入していくので、街を歩いていたら突然物陰から殴られてラッシュをかけられるようなものです。殴られながら相手の顔を確認して、明確に弱点を見切って殴り返すのは至難の技です。不浄想が万事に効くらしいですが。だから事前に道場で護身術を集中的に習えば、いざというときに漏から心を守れるということです。

それだけ渇愛は発見しにくいのですが、逆に言えば「渇愛さえ逐一、即座に発見できる注意力」さえ具わりさえすれば、問題は解決したようなものです。あとは、シューティングゲームよろしく、超人的な注意力と集中力で「想」という画面上に現れる喜び・貪り・渇愛・執着の類いを打ち続け、叩き続けます。無常想という必殺ボムも使えばよいし、無我想という全体攻撃を使ってもよいのです。七覚支をマスターすれば最強装備でラスボスも余裕です。

しかし、全クリするまでどれだけ自機がやられて転生し、ゲームオーバーして人間と神を行ったり来たりするかはプレイヤーの腕次第です。基本的には「あと一機しかないと思って、ノーミスでクリアを目指す」ならば、その人は真のゲーマーの器だと思います。僕なんかまだまだです。僕は攻略本を書いてる中途半端な人間ですから、真のゲーマーはきっとどこかに隠れています。


僕は自分の器というものを確認するたびに自分に幻滅しますが、それは言い換えれば僕自身のオリジナリティは十分確立されているということです。これは自画自賛ではなく、全ての人にはその人特有のオリジナリティがあり、もちろん似たタイプというのはありますが、様々な経験の差異が色々な味付けに違いを出しているのです。しかも、その自分の個性を自分自身である程度、方向付けて変えて行くことができるのが、人生の醍醐味だと思います。この自分自身に漏尽の性格を加えれば、一区切りだと思います。

ただでさえ莫大な種類の個性が「個性個性」と連呼する以前に存在するのですが、原始仏教の修行をいくらかやっていると三十七道という三十七のヴィジョンとその展開・応用に関しては無限のヴァリエーションがあることに気付きます。それらの修習量が外界と内界の経験内容に変化をもたらし、化学反応を起こします。つまり、修行の内容が直結して人格の変化に大きな影響をもたらすゆえに、もう無限の人格の器と可能性が確保されているのです。これが真のキャラクターメイキングです。



人はすぐに「人を出し抜く事」を考えがちですが、これら個性の観点から言えば人を出し抜くこともできないし、人に出し抜かれる事も有りません。しかし、人を出し抜きたいという人は「集団からの評価への過剰な期待」があります。実際、みんなに称賛され拍手されても、それは一時間か長くて一週間ぐらいの名誉楽に過ぎません。そのために悪行までも犯す価値はありません。多くの人は「求める価値のないものを求めて度を越す」ものです。両親に愛されたい、認められたいという欲求が最たるものです。この欲は両親の実力の限界までは努力に見合った報酬がありますが、両親の実力の限界を越えた領域からは努力に見合ったものは手に入らず、苦しみしか生じないようになります。両親からの愛と受け入れが一種の「絵に描いた餅」になるのです。期待する愛と受け入れは両親の中に存在しないのです。

たとえば、りんごの木にみかんを求めるようなものです。両親に振り向いてもらいたい人というのは、りんごの木に肥料をやり、剪定し、受粉させてせっせと頑張ってる人です。りんごはできても「みかんじゃない!みかんじゃない!」とりんごの木を切り倒す。恐ろしいことです。子供に期待する親も同じことです。まず果樹の種類を見極めるために果樹の種類を学ぶことから始めなければいけないので人生は大変です。ましてや人間の性格タイプを変える遺伝子組み換えにどれだけ高度な技術が必要なことか。大抵は、有害な遺伝子組み換え作物ができるだけだと思います。周りに迷惑をかけて、周りの同種の遺伝子を汚して行くタイプです。


そもそも子供が愛されたい、認められたいと思う段階で「その両親にはその分は優しさという美徳の力がない」のです。親からの解脱、親からの離脱とは即ち「親に愛されたい、親に認められたい」と思わなくなったときに達成されるものです。親に何かを望んでいるかぎり、親の呪縛は断てず、親からは離脱できません。それは経済的な自立とは何の関係もないことです。しかし経済的な自立は別居を容易にし、別居による接触の減少によって執着が減少する利点は多いにあります。しかし、智慧によって焼き尽くさない限りは、接触が再開されれば執着が再度、復活する可能性は否めません。心の離脱だけでなく智慧の離脱も必要なゆえんです。乳母捨て山みたいに親を見捨てれば、親の呪縛から解放されていると勘違いする人もいるかも知れませんが、いずれにしろ親孝行という美徳がいかに難しいことが慮られると思います。



まとめると、今までの求道の実を結ぶためにも


 「三悪行を断って、性格のいい優しい人間になること」


これをとりあえずやれば、「自分の修行は無駄ではなかった。前よりも優しくなったのだから」と胸を張って言えるようになります。また家族の関係も改善し、友人にも慕われ、異性にもモテ、職場も順調、死後の世界が実在するなら死んで天界にも行けて損はないということです。

要するに「慈心さえやっていれば生計も立つし、優しくなれて万事うまくいく」ということです。一応、別の公式も最後に書いておきます。


  「嫌われる性質を自分からなくした分は、嫌われない。
   愛される性質を自分に増やした分は、愛される」


  「認められない性質を自分からなくした分は、認められなくならない。
   認められる性質を自分に増やした分は、認められる」





です。


・二力  思考力と修習力 (以下のトピックの後半)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42023141&comm_id=951429

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