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Standard Jazz Songコミュの雑談はこちらに

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気の向くまま、心の向くまま、よもやま話、井戸端会議、なんでもどうぞ。

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訃報が多いのでインデックスを設けました。
投稿降順です。
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2024年5月12日 デビッド・サンボーン(David Sanborn)78歳ー(#497)
2024年1月19日、マリーナ・ショウ (Marlena Shaw) 84歳 - (#494)
2023年12月16日 カルロス・リラ(Carlos Lyra)90歳ー(#490)
2023年11月27日 西条孝之介(サイジョウコウノスケ)91歳ー(#493)
2023年10月17日 カーラ・ブレイ(Carla Bley)85歳ー(#486)
2023年7月21日 トニー・ベネット(Tony Bennett)96歳ー(#479)
2023年7月17日 ジョアン・ドナート(Joao Donato)88歳ー(#473)
2023年6月23日、シェルドン・ハーニック (Sheldon Harnick) 99歳 - (#471)
2023年6月5日 アストラッド・ジルベルト(Astrud Gilberto)83歳ー(#468)
2023年4月25日、ハリー・べラフォンテ (Harry Berafonte) 96歳 - (#467)
2023年3月28日 坂本龍一(サカモト・リュウイチ)71歳ー(#465)
2023年3月2日  ウエイン・ショーター(Wayne Shorter)89歳ー(#463)
2023年2月2日  ブッチ・マイルス(Butch Miles)78歳ー(#466)
2023年1月23日 キャロル・スローン(Carol Slone)85歳(#461)
2022年11月日 ガル・コスタ(Gal Costa)77歳ー(#459)
2022年10月7日 ロニー・キューバ(Ronnie Cuber)80歳ー(#456)
2022年8月22日 クリード・テイラー(Creed Taylor)93歳ー(#454)
2022年7月19日、マイケル・ヘンダーソン(Michael・Henderson)71歳ー(#453)
2022年4月4日、石塚 孝夫(イシズカ・タカオ)89歳ー(#452)
2022年3月8日、鈴木 勲(スズキ・イサオ)89歳ー(#448)
2022年1月8日、マリリン、バーグマン(Marilyn bergman)-(#445)
2021年12月8、バリー・ハリス(Barry Harris)91歳ー(#443)
2021年12月9日、デニース・ペリエ(Denise Perrier) - (#441)
2021年11月26日、スティーヴン・ソンドハイム (Stephen Joshua Sondheim) 91歳 - (#439)
2021年11月1日、パット・マルティーノ(Pat Martion) 77歳 - (#437)
2021年9月8日、ニッセ・サンドストロム(Nisse Sandstrom) 79歳 - (#435)
2021年9月28日、ドクター・ロ二−・スミス (Dr. Lonnie Smith) 79歳 - (#430)
2021年9月16日、ジョージ・ムラーツ (George Mraz) 77歳 - (#429)
2021年6月26日、土岐英史 71歳 - (#425)
2021年6月21日, 原信夫 94歳 - (#424)
2021年5月8日、カーティス・フラー (Curtis Fuller) 86歳。 - (#422)
2021年5月29日、B・J・トーマス(Billy Joe Thomas) 78歳 - (#419)
2021年5月13日、ノーマン・シモンズ(Norman Simmons)91歳 - (#418)
2021年4月15日、パット・リゾ (Pat Rizzo) 79歳 - (#417)
2021年4月29日、マイク・コステリー (Mike Costley) - (#416)
2021年3月1日、ラルフ・ピーターソン (Ralph Peterson Jr.) 58歳 - (#415)
2021年4月13日、ソニー・シモンズ (Sonny Simmons) 87歳 - (#414)
2021年2月9日, チック・コリア (Chick Corea) 79歳- (#409)
2021年1月17日, ジュニア・マンス (Junior Mance)92歳 - (#407)
2020年12月17日, ジェフ・クレイトン(Jeff Clayton)65歳- (#404)
2020年12月17日, スタンリー・カウエル (Stanley Cowell)79歳 - (#402)
2020年9月21日, アイラ・サリバン(Ira Sullivan)89歳 - (#401)
2020年9月5日, ゲーリー・ピーコック(Gary Peacock) 85歳- (#400)
2020年8月23日, チャーリー・パーシップ (Charlie Persip) 91歳 - (#399)
2020年8月13日, スティーヴ・グロスマン (Steve Grossman) 69歳 - (#398)
2020年7月21日, アニー・ロス (Annie Ross) 89歳 - (#397)
2020年6月29日, ジョニー・マンデル (Johnny Mandel) 94歳 - (#396)
2020年6月27日, フレディ・コール (Freddy Cole) 88歳 - (#395)
2020年5月28日, レニー・ニーハウス (Lennie Niehaus) 91歳- (#393)
2020年5月24日, ジミー・コブ (Jimmy Cobb) 91歳- (#390)
2020年5月2日, リッチー・コール(Richie Cole) 72歳 - (#388)
2020年4月17日, ジュゼッピ・ローガン(Juseppi Logan) 84歳 - (#387)
2020年4月15日, ヘンリー・グライムス (Henry Grimes) 84歳 - (#386)
2020年4月15日, リー・コニッツ (Lee Konitz) 92歳 - (#383)
2020年4月9日, アンディ・ゴンザレス (Andy González) 69歳 - (#382)
2020年4月10日, ジミー・メリット(Jymie Merritt) 94歳 - (#380)
2020年4月6日, オナージェ・アラン・ガムス (Onaje Allan Gumbs) 70歳 - (#379)
2020年3月30日, ビル・ウイザース (Bill Withers) 81歳- (#378)
2020年4月1日, バッキー・ピザレリ (Bucky Pizzarelli) 94歳 - (#377)
2020年4月1日, エリス・マルサリス (Ellis Marsalis jr.) 85歳 - (#376)
2020年3月31日, ウォレス・ルーニー (Wallace Roney) 59歳 - (#375)
2020年3月22日, マイク・ロンゴ (Mike Longo) 83歳 - (#373)
2020年3月13日, 行方均(なめかたひとし)68歳 - (#372)
2020年3月10日, ジョージ大塚(本名大塚敬冶)82歳- (#371)
2020年3月6日, マッコイ・タイナー (McCoy Tyner) 81歳- (#370)
2020年2月17日, ヨン・クリステンセン (Jon Ivar Christensen) 76歳 - (#367)
2020年2月10日, ライル・メイズ (Lyle Mays) 63歳 - (#365)
2019年の12月27日, ジャック・シェルドン(Jack Sheldon) 88歳 - (#356)
2020年1月17日、クラウディオ・ロディッティ (Claudio Roditi) 73歳 - (#354)
2020年1月19日, ジミー・ヒース (Jimmy Heath) 93歳 - (#353)
2019年12月26日, ジェリー・ハーマン (Jerry Herman) 88歳 - (#352)
2019年10月12日, ミルチョ・レビエフ (Milcho Leviev)81歳 - (#350)
2019年10月4日, ダイアン・キャロル (Diahann Carroll) 84歳- (#346)
2019年9月30日、ジェシー・ノーマン (Jessye Norman) 74歳 - (#345)
2019年9月19日, ハロルド・メイバーン(Harold Mabern)83歳 - (#343)
2019年6月1日, フェイス・ウィンスロップ (Faith Winthrop) 87歳 - (#342)
2019年7月6日, マーティン・チャーニン (Martin Charnin) 84歳 - (#341)
2019年7月6日, ジョアン・ジウベルト (Joao Gilberto) 88歳- (#339)
2019年5月13日, ドリス・デイ (Doris Day) 97歳 - (#332)
2019年2月28日, エド・ビッカート (Ed・Bickert) 86歳 - (#329)
2019年2月28日, アンドレ・プレヴィン (Andre Previn) 89歳 - (#326)
2019年2月23日, アイラ・ギトラー (Ira Gitler) 90歳 - (#320)
2019年2月3日, 児山紀芳 82歳 - (#317)
2019年1月26日, ミッシェル・ルグラン (Michel Legrand) 86歳 - (#315)
2018年12月31日, アビー・グリーン (Urbie Green) 92歳 - (#313)
2018年12月23日, 杉原淳 82歳 - (#311)
2018年12月27日, ミウシャ (Miucha) 本名は、エロイザ・ブアルキ 81歳 - (#310)
2018年12月13日, ナンシー・ウィルソン (Nancy Wilson) 81歳 - (#309)
2018年11月25日, 前田憲男(まえだ・のりお、本名・暢人=のぶひと)83歳 - (#307)
2018年11月2日, ロイ・ハーグローヴ (Roy Hargrove) 49歳 - (#306)
2018年9月14日, マックス・ベネット (Max Bennett) 90歳 - (#305)
2018年9月16日, ビッグ・ジェイ・マクニーリー (Big Jay McNeely) 91歳- (#303)
2018年8月26日, ニール・サイモン (Neil Simon) 91歳 - (#302)
2018年3月22日, モーガナ・キング (Morgana King) 87 - (#301)
2018年8月16日、アレサ・フランクリン (Aretha Franklin) 76歳- (#299)
2018年6月18日、レベッカ・パリス (Rebecca Parris) 66歳 - (#296)
2018年4月23日、ボブ・ドロー (Bob Dorough) 94歳 - (#292)
2018年4月5日、セシル・テイラー (Cecil Taylor) 89歳- (#289)
2018年2月10日、ウェスラ・ウィットフィールド (Wesla Whitfield) 70- (#288)
2018年1月29日、エディ・ショウ (Eddie Shaw) 80歳 - (#287)
2018年1月28日、ココ・シューマン (Coco Schumann) 93歳 - (#286)
2018年1月23日、ヒュー・マセケラ (Hugh Ramopolo Masekela) 78歳 - (#285)
2018年1月15日、マリーン・ヴァープランク (Marlene VerPlanck) 85歳 - (#284)
2017年12月2日、マンデル・ロウ (Mundell Lowe) 95歳 - (#282)
2017年12月16日、キーリー・スミス (Keely Smith) 89歳 - (#280)
2017年12月17日、ケヴィン・マホガニー ( Kevin Mahogany) 59歳 - (#279)
2017年12月6日、ジョニー・アリデイ (Johnny Hallyday) 74歳- (#276)
2017年11月22日、ジョン・ヘンドリックス (Jon Hendricks) 96歳 - (#273)
2017年11月18日、ベン・ライリー (Ben Riley) 84歳 - (#272)
2017年10月8日、グラディ・テイト (Grady Bernard Tate) 85歳 - (#266)
2017年8月7日、ジャネット・サイデル (Janet Seidel) 62歳 - (#258)
2017年9月3日、ウォルター・ベッカー (Walter Becker) 67歳 - (#257)
2017年8月22日、ジョン・アバークロンビー(John Abercrombie)72歳 - (#255)
2017年7月31日、ジャンヌ・モロー (Jeanne Moreau) 89歳 - (#254)
2017年6月27日、ジェリ・アレン (Geri Allen) 60歳 - (#249)
2017年5月8日、ディヴ・ペル (Dave Pell) 92歳 - (#243)
2017年3月18日、チャック・ベリー (Chuck Berry) 90歳- (#231)
2017年2月24日、辛島文雄 68歳 - (#228)
2017年2月23日、ホレス・パーラン (Horace Louis Parlan) 86歳 - (#226)
2017年1月10日、バディ・グレコ(Buddy Greco)90歳 - (#224)
2017年2月12日、バーバラ・キャロル (Barbara Carroll) 92歳 - (#222)
2017年2月12日、アル・ジャロウ (Al Jarreau) 76歳 - (#221)
2017年1月7日、ナット・ヘントフ (Nathan Irving "Nat" Hentoff) 91歳 - (#220)
2016年12月26日、アルフォンス・ムザーン (Alphonse Mouzon) 68歳 - (#219)
2016年9月5日、尾田悟 88歳 - (#218)
2016年12月11日、内田修 87歳- (#214)
2016年11月15日、モーズ・アリソン (Mose Allison) 89歳 - (#208)
2016年11月2日、ボブ・クランショウ (Bob Cranshaw) 93歳- (#201)
2016年9月25日、ロッド・テンパートン (Rod Temperton) 66歳 - (#200)
2016年7月16日、クロード・ウイリアムソン(Claude Williamson) 89歳 - (#196)
2016年8月22日、トゥーツ・シールマンス (Toots Thielemans) 94 - (#195)
2016年8月15日、ボビー・ハッチャーソン (Bobby Hutcherson) 75歳 - (#193)
2016年6月30日、ドン・フリードマン (Don Friedman) 81歳 - (#192)
2016年4月13日、ジェレミー・スタイグ (Jeremy Steig) 73歳 - (#191)
2016年4月3日、ビル・ヘンダーソン (Bill Henderson) 90歳- (#190)
2016年1月5日、ポール・ブレイ (Paul Bley) 83歳 - (#185)
2015年11月10日、アラン・トゥーサン (Allen Toussaint) 77歳 - (#183)
215年10月22日、マーク・マーフィー (Mark Murphy) 83歳 - (#180)
2015年9月29日、フィル・ウッズ (Philip Wells Woods) 83歳 - (#179)
2015年4月??日、髭G - (#178)
2015年6月11日、オーネット・コールマン (Ornette Coleman) 85歳 - (#172)
2015年5月14日、B.B.キング(B.B.King) 89歳 - (#170)
2015年4月30日、ベン・E・キング (Ben E. King) 76歳- (#169)
2015年3月8日、ルゥ・ソロフ (Lew Soloff) 71歳 - (#166)
2015年2月21日、クラーク・テリー (Clark Terry) 94歳 - (#154)
2015年2月16日、レスリー・ゴーア(Lesley Gore)68歳 - (#152)
2015年1月15日、アーヴィン・ドレイク (Ervin Drake) 95歳 - (#147)
2015年1月12日、クリフォード・アダムス (Clifford Adams) 62歳 - (#146)
2014年12月24日、バディ・デフランコ (Buddy DeFranco) 91歳 - (#145)
2014年12月22日、ジョー・コッカー (Joe Cocker) 70歳- (#144)
2014年10月16日, ティム・ハウザー (Tim Hauser)72歳 - (#112)
2014年7月11日、チャーリー・ヘイデン (Charlie Haden) 76歳 - (#96)
2014年6月18日、ホレス・シルヴァー (Horace Silver)85歳 - (#95)
2014年6月19日、ジェリー・ゴフィン (Gerry Goffin)75歳 - (#94)
2014年6月12日、ジミー・スコット (Jimmy Scott) 88歳 - (#93)
2014年1月9日、アミリ・バラカ (Amiri Baraka) 79歳 - (#82)
2013年12月10日、ジム・ホール (Jim Hall)83歳 - (#80)
2013年11月25日、チコ・ハミルトン (Chico Hamilton) 92歳 - (#78)
2013年10月30日、フランク・ウェス (Frank Wess) 91歳 - (#76)
2013年10月16日、グロリア・リン (Gloria Lynne) 81歳 - (#75)
2013年8月20日、マリアン・マクパートランド (Marian McPartland) 95歳 - (#67)
2013年8月19日、シダー・ウォルトン (Cedar_Walton) 79歳 - (#66)
2013年7月12日、A・ボーズ (Amar Bose) 83歳- (#57)
2013年6月29日、ポール・スミス (Paul Smith)91歳 - (#46)
2013年6月19日、スリム・ホイットマン (Slim Whitman) 86歳 - (#39)
2013年5月29日、モーグル・ミラー(Mulgrew Miller) 57歳 - (#31)
2013年2月4日、ドナルド・バード (Donald Byrd)80歳 - (#27)
2012年12月5日、デイヴ・ブルーベック (Dave Brubeck) 91歳 - (#17)
2012年9月1日、ハル・ディヴィッド (Hal David) 91歳 - (#15)
2012年9月25日、アンディ・ウィリアムス (Andy Williams) 84歳- (#4)
2012年8月6日、マーヴィン・ハムリッシュ (Marvin Frederick Hamlisch) 68歳 - (#3)


コメント(498)

「MPBの女王」と称されたブラジルの国民的女性シンガーGal Costa(ガル・コスタ)さんが11月9日
、サンパウロで逝去されました。
1945年9月バイーア州サルヴァドーレの出身で、77歳でした。

父親がレコード店を経営していたことから幼少から音楽の中で成長した彼女は、1964年に同郷のカエターノ・ヴェロ―ソ、ジルベルト・ジル、マリア・ベターニアと共に、地元のミュージカルショーでデビューしました。
1967年にカエターノとデュエットした曲がヒットして、ブラジル中で知られる存在となりました。

当時「トロピカリズモ」を提唱していたカエターノとジルの輪に加わり、ベターニアを含んで4人は
MPBの歴史に欠く事もできない重要な存在となりました。

1970年代に入りブラジルで誕生した軍事政権の芸術に対する弾圧の中カエターノとジルは国外に逃亡し4人の活動は中断しましたが、ガルはブラジルに残って積極的に歌い続けました。

1979年にはブラジルの音楽大賞ヴィラ=ローボス杯の、女性歌手部門を受賞。
1980年にブラジルで大ヒットとなったショー「ガル・トロピカル」を携えて北米、ヨーロッパ、そして日本へのツアーを実現しました。

その後もMPBの女王として、ブラジル女性シンガーの頂点としての地位を守り続けました。
宝石のような美声と説得力溢れる歌唱力でブラジル国内のみならず、世界に影響を与えつづけた偉大なシンガーのご冥福をお祈り致します。

ジョビンの名曲"wave"を、聴きましょう。


”Festa Do Interior”、です。


”Vaca Profana”、です。


おなじみの、”Triste”です。


そして、「イパネマの娘」でしめましょう。

バート・バカラックの訃報が流れてきましたが、私には今展開している【バート・バカラック ソングブック】以上には、彼のことをまとめることがかないません。

https://mixi.jp/view_bbs.pl?comment_count=57&comm_id=6028752&id=98208470

もう少し詳しそうなことはワシントンポストの記事でもご覧ください。

https://www.washingtonpost.com/obituaries/2023/02/09/burt-bacharach-songwriter-dies/

ご冥福をお祈りいたします。

日本とも関係の深かったボーカリストのCarol Slone(キャロル・スローン)さんが、1月23日に逝去されていた事がわかりました。

本名キャロル・モーバンは1937年3月5日、、ロードアイランド州プロビデンスに生まれました。
幼少の頃から聖歌隊で歌っていた彼女は、14歳の時に地元のダンスバンドの歌手としてプロデビュー。
1955年に18歳で結婚したものの、58年に離婚。
同年からキャロル・ストーンに改名して、1960年までレス&ラリー・エルガート楽団の歌手として活動。
1960年にピッツ・バーグ・ジャズフェスティバルに出演して知名度を上げ、更に1961年にジョン・ヘンドリックスの推薦でニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演して注目を浴びました。

同年コロムビアで初のアルバム"Out of the Blue"と、続けて62年に”Carol Slone Live at 30th Street"を録音。
更にベン・ウエブスターと共演したり、ニューヨークを中心に、活躍を続けました。

1969年にドン・フリートマンやズート・シムスらと西海岸に遠征し、その後ノース・カロライナ州に移りました。
ノースカロライナでは地元でシンガーを続けながらも、法務秘書の仕事に就き落ち着いた生活に入りました。

1976年からジミー・ロウルズの声掛けにより、再びニューヨークに移り活動を再開。
1977年10月に、ニューヨーク・ジャズ・カルテットと初来日。
これを機に過去の作品が日本で発売され、更に滞在中に東京のスタジオで録音した2作品も発売され日本での人気が高まりました。

1982年に再度ノースカロライナに移り、地元のクラブ「スティーブンス」を中心に活躍。
また1982年〜1984年に3年連続で来日し、日本の3社でアルバムを制作。
その後もニューヨークやワシントンDCのジャズクラブに出演を続け、2019年まで多くのアルバムを録音しています。

しかし2021年に脳卒中を患いマサチューセッツ州の高齢者介護センターで療養を続けていましたが、合併症を発症して2023年1月23日に85歳で天に召されました。

彼女はデューク・エリントンを敬愛して、必ず彼の曲を歌っていました。
またミルドレット・ベイリーやリー・ワイリーを目標とし、エラ・フィッツジェラルドの影響も強く受けたシンガーでした。

常にリラックスして歌う事を心がけていたフェイク度抜群のキャロルのご冥福を、心よりお祈りいたします。

Wikipedia,です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Carol_Sloane

Discography,です。
https://www.discogs.com/ja/artist/458876-Carol-Sloane

まず、”Lover Come Back To Me”です。


初期のアルバムから、”Night and Day”です。


エリントンを敬愛したキャロルの、”Satin Doll”です。


大変音質が悪いのですが、貴重な2019年のバードランドのライブです。

>>[461]
Carol Slone(キャロル・スローン)

>彼女はデューク・エリントンを敬愛して、必ず彼の曲を歌っていました。

私が調べた範囲では、彼女にはデューク・エリントンのソングブック・アルバムが3枚あり、その中の2枚は【デューク・エリントン ソングブック】トピックで取り上げています。
残る1枚も手に入れば紹介したいと考えています。
というよりも Carol Sloane / Romantic Ellington をお持ちの方がいらっしゃいましたら、取り上げていただけませんでしょうか。

キャロル・スローンは私が好きな歌手の一人でした。

ご冥福をお祈りいたします。


ジャズ界の巨星、逝く!!
ジャズメッセンジャーズ〜マイルス・バンド〜ウエザー・レポートとハードバップからモード、フュージョンまでジャズの最前線をリードしてきたサックス・奏者であり作曲家であり音楽監督であったWayne Shorter(ウエイン・ショーター)氏が、2023年3月2日に逝去されました。
89歳、でした。

1933年8月25日にニュージャージー州ニューアークに生まれた彼は幼い頃から絵画に興味を持ち、13歳の時に州の美術展に出展した油絵で一等となりました。
絵画一辺倒だった彼も高校に入ったころから音楽にも興味を持ち始め、ラジオでジャズを聞くようになり自宅近くの劇場でデューク・エリントン、カウント・ベーシー、スタン・ケントン、ディジー・ガレスピーなどのビッグバンドを聞いてジャズを学びま

そして祖母にねだって中古のクラリネットを手に入れてその練習に打ち込み、絵画への道は諦めました。
学生バンドに加わった彼は、テナー・サックスを吹くようになりました。

高校を卒業するとミシン会社に就職して学費を稼ぎ、1952年にニューヨーク大学に入学。
また週末には、地元のナット・フィッブス楽団で演奏するようになりました。

1956年〜58年は兵役にとられましたが、1959年にメイナード・ファーガソン楽団のオーディションを受けた合格。
ファーガソン楽団に参加してわずか一カ月後に、カナダのジャズフェスティバルに出演中に同フェスティバルに参加していたアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズからベニー・ゴルソンの後任として誘われジャズメッセンジャーズへの参加を決めました。

この頃ビージェイレコードのウイントン・ケリーの録音に参加して、初レコーディングを経験。
続けて同レーベルで、初リーダーアルバムも制作しました。

1964年までジャズメッセンジャーズのミュージカル・ディレクター兼テナー奏者として活動を続けましたが、この間何度もマイルス・デイビスより誘いを受けながらアート・ブレイキーへの義理で断り続けていました。

1964年についにマイルスのグループに参加し、ショーターの音楽性がマイルスバンドで重要な位置を占めるようになりました。
またこの時代にはブルーノートレーベルと専属契約を結び、数多くのリーダーアルバムも生み出しました。

1970年にマイルスのグループを辞すと旧知のジョー・ザビヌルと新グループ結成に向けて準備を進め、1971年1月にウエザー・リポートのデビューアルバムを録音しました。

以後15年に渡って同グループでの活動が続きましたが、その間もハービー・ハンコックが中心となったVSOPへ参加したり自己名義の「ネイディブ・ダンサー」を発表したりしました。

やがて80年代の半ばでウエザー・リポートが解散となり、ショーターは自己のグループを率いて独自の道を歩むようになりました。

幼少の頃絵画を好み空想した世界をキャンバスに書いて遊んでおり、音楽の世界でも自分のイマジネーションを和音や音色で空間というキャンバスに表現し続けた偉大な天才ウエイン・ショーター氏のご冥福をお祈り申し上げます。

wikipedia,です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Wayne_Shorter

Discography、です。
https://www.discogs.com/ja/artist/29979-Wayne-Shorter


2014年、Bonnにおけるライブ映像です。



1966年ノルウエーのジャズフェスティバルから、”On Green Dolphin Street”です。



1964年イタリアミラノにおける、マイルスバンド時代の映像です。



最後にEsperanza Spaldingとの共演で、ソプラノサックスのプレーを!



>>[463]

ウエイン・ショーターの初来日は、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズの1961年の初来日の時に、ベニー・ゴルソンに代わって参加した時でした。

この頃日本では
「蕎麦屋の出前持ちが「モーニン」を口笛で吹きながら自転車を漕いでいたというエピソードが残っているほど」
と言われるぐらいのファンキー・ジャズ ブームだったのですが、実際に私もそのようなシーンを目撃しています。
https://www.universal-music.co.jp/art-blakey/news/2021-09-15/

ウエイン・ショーターの2度目の来日は、やはりアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのメンバーとして、フロントはフレディ・ハバード、カーティス・フラーとの3管編成でした。

その後はハービー・ハンコックと共に、あるいはジョー・ザヴィヌルのウエザー・リポートの1員として、またまたその後も何度も来日をしています。

わたしは1978年だったか、ウエザー・リポートのコンサートで、初めてウエイン・ショーターを観ることができたのですが、この時は彼の体調がすぐれないようで、散々な出来でした。

わたしは彼の初期のアルバム
Wayne Shorter – Wayning Moments (1962)
https://www.discogs.com/ja/master/297534-Wayne-Shorter-Wayning-Moments
が大好きで、このアルバムについてはいろいろとあったのですが、省略します。

しかし、彼の演奏を一番聴きこんだのはブルーノート時代のリーダーアルバム、ハービー・ハンコックがいたり、フレディ・ハバードがいたりした頃のように思います。

彼がマイルス・ディヴィスのメンバーになってからの録音はあまり聞きこんでいません。
また、彼がマイルスの元を離れてからの録音もあまり聞かなくなってしまいました(理由はよく判りません)

ウエイン・ショーターの思い出は尽きないのですが…

ご冥福をお祈りいたします


世界的な音楽家で俳優もされた坂本龍一氏が、数年に渡る癌との戦いの後3月28日に逝去されました。
近年は環境や反戦活動などにも力を注いでおられましたが、音楽家としての氏は作曲家、編曲家、ピアニスト、プロデューサーとして、多くの功績を残され世界中から惜しまれています。

坂本氏の音楽といえばその根幹はクラシックにありますが、何と言ってもYMOでのテクノサウンドの創造や「戦場のメリークリスマス」やアカデミーを獲得した「ラスト・エンペラー」などの映画音楽での活躍が有名です。

一方ボサノヴァという切り口で見ると、坂本氏はアントニオ・カルロス・ジョビンの崇拝者としても有名な存在でした。

それを象徴する活動がジョビンのツアーメンバーであったチェロプレイヤーのMorelenbaum氏とボーカリストのMorelenbaum夫人と組んだ、ジョビンに捧げた活動です。

日本でもライブ活動も行いましたが、その活動の集大成としてCDアルバム"CASA"が残っています。

坂本氏の美しいピアノを中心に彼らの演奏を聴きながら、坂本氏のご冥福を祈りたいと思います。



そして、2001年の東京公演から。

少し前の事になりますが最高峰のドラマーの1人であるButch Miles(ブッチ・マイルス)氏が2023年2月2日に、テキサス州オースティンで逝去されていた事を知りました。
78歳、でした。

本名Charles J. Thornton, Jr.として1944年7月4日にオハイオ州アイロントンに生まれた氏は9歳からドラムを叩き始め、楽器店に通って独学でドラムスの演奏をマスターしました。

その間地元のコンボに参加した演奏をしていましたが、70年にデトロイトでオースティン〜モロバンドに加入。
71年〜74年は歌手のメル・トーメに認められて、彼の伴奏バンドで活躍しました。

そして75年1月にメル・トーメからの推薦もあってカウント・ベーシー楽団のドラマーに抜擢され、一躍脚光を浴びました。
彼の際立った正確でダイナミックなドラミングはベイシーバンドをよりスイングさせて、ベイシーバンドの歴代ドラマーでも名の残るプレイを披露しました。

ベイシー楽団には79年8月まで在籍し、多くのツアーやレコーディングにも足跡を残しています。
私も当時来日したベーシーバンドで彼のドラミングを聞き、その素晴らしさに圧倒された記憶があります。

ベイシーバンドを退いた後は、デイブ・ブルーベックのグループに参加。
更にミュージカルの舞台の、ステージバンドでも活躍をしました。

その後は多くのレコーディングやライブ活動に参加し、80年代からはジャズ・エキスプレスをリーダーとして率いて演奏を続けました。
また多くの有名なジャズフェスティバルのステージも賑わし、その地位を不動のものとしています。

更に大学で教壇に立って後輩の育成に努めていましたが、2014年に大病を患って肺移植を受けました。

その後は第一線を退き静かな余生を送っていたようですが、前述の通り2023年に亡くなっています。
カウント・ベーシーオーケストラを最高にスイングさせた偉大なドラマーの、ご冥福をお祈り致します。

Wikipedia、です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Butch_Miles

ホーム・ページ、です。
http://www.butchmiles.com/

Discography、です。
https://www.discogs.com/ja/artist/268548-Butch-Miles

ではブッチが活躍したカウント・ベーシーオーケストラで、"Shiny Stockings"です。


同じくベーシーオーケストラで、”The Drum Thing”です。


クラリネットのBuddy DeFrancoが率いるグループで、ブッチがドラムスを披露した”After You've Gone”です。
ヴァイブのテリー・ギブスやギターのハーブ・エリスも、参加しています。



1991年Walt Levinskyのビッグバンドでテナーのフランク・ウエスと共演する、ブッチです。

2023年4月25日、ハリー・べラフォンテさんが亡くなりました。
96歳でした。

https://www.npr.org/2023/04/25/516446742/harry-belafonte-dead

https://en.wikipedia.org/wiki/Harry_Belafonte

ジャズそのものではないのですが、ジャズに流れ込んだカリプソ音楽を、日本に戦後の米国ポピュラー音楽が流入するのに大きな役割を果たしました。
特に1956年に大ヒットした "The Banana Boat Song" は、日本でも『バナナ・ボート』の曲名で大ヒットし、浜村 美智子のカバーも大ヒットし、彼は日本での人気歌手になりました。
彼女はその後俳優としても活躍し、TVドラマ『忍者部隊月光』の出演でも人気があったことを覚えていらっしゃる方がいらっしゃるかもしれませんね。




ハリー・べラフォンテは日本で忘れられた後も、米国では根強い人気を持ち、公民権運動の活動家としても知られ、1964年に米国大統領選に共和党からバリー・ゴールドウォーターが大統領候補として名乗りを上げた時、彼の思想を揶揄した歌を歌ったこともよく知られています。
(この時の動画は見つけられませんでした)
選挙の結果、民主党のリンドン・ジョンソンが米国大統領になりました。

1967年のインタビュー動画、人種差別について語っています。



1985年、ベラフォンテはグラミー賞受賞曲「We Are the World」の企画に協力し、アフリカへの寄付を募るマルチアーティストの活動を行った。



1997年の動画、彼の米国での人気は衰えがないものでした。





1960年(だったかな?)ハリー・べラフォンテが初来日し、この時のステージの一つはTV中継されました。

これは蛇足なのですが、相前後してナット・キング・コールも初来日し、直後に両者への業界の『おもてなし』が週刊誌で暴露され、共通のお相手だったNHK教育テレビのロシア語会話番組のアシスタントだったロシア人女性がNHKの番組を下ろされるという事件もありました。

現在でも、ジャズとラテン音楽の関係が取り上げられるとき、その一つであるカリプソ音楽が着目を受け続けることに大きな影響があった人ではないでしょうか。

ご冥福をお祈り申し上げます。







アントニオ・カルロス・ジョビンの名曲「イパネマの娘」を英語で歌い、ボサノバを世界に広げたアストラッド・ジルベルトさんが6月5日に、アメリカのフィラデルフィアの自宅で亡くなりました。
83歳でした。

アストラッドさんは1940年3月29日、ブラジルのバイーア州の州都であるサルバドール生まれ。
リオ・デジャネイロに移り、1959年にボサノバの創始者として知られる故ジョアン・ジルベルトさんと結婚。
当時は主婦としてキッチンで鼻歌を歌う程度でしたが、実はシンガーとしてデビューのチャンスを待っていました。

アメリカのテナーサックス奏者でありボサノヴァをいち早くジャズに取り入れた故スタン・ゲッツ氏がリーダーとなり世界にボサノヴァを紹介したアルバム「ゲッツ/ジルベルト」が録音された時にチャンスをつかみ、夫のジョアン・ジルベルトのポルトガル語での「イパネマの娘」の録音時に続いて英語の歌詞で参加しました。
このアルバムでは、作曲者のジョビン氏もピアノで参加と豪華メンバーでの録音でした。

このアルバム自体もヒットしたのですが特にアストラッドが英語で歌った部分とテナーのスタン・ゲッツの掛け合いの部分だけがカットされてシングルレコードとして発売され、これが世界的に大ヒット。
このレコードはグラミー賞にも輝きアストラッドは「ボサノヴァの女王」の地位を手にし、次々とアルバㇺを制作することとなりました。

1964年にジョアンと離婚後も、名前はアストラッド・ジルベルトとして活動をつづけました。
日本にも何度かツアーで訪れ、私もステージに接する機会を得ました。

はっきり言って歌が上手いのか下手なのか判断が難しいレベルのシンガーですが、その何ともアンニュイなムードがボサノヴァと言う音楽と実によくマッチしたシンガーでした。
ご冥福を、お祈り致します。

まずは何と言っても、テナーのスタン・ゲッツ氏をバックに唄う「イパネマの娘」です。


Corcovadoを、聞いて下さい。


ボサノヴァオルガンのワルター・ワンダレイとのアルバムから、「サマー・サンバ」です。

>>[468]

アストラッド・ジルベルトの訃報は目にしていましたが、このトピックとの関連は思いつきませんでした(苦笑)

私にとってはその程度の人なのですが、彼女のライブに、それも高級ライブハウスに、聴きに行くというのも相当なものですね(尊敬)

Wikipedia に面白い記事が出ています。
https://en.wikipedia.org/wiki/Astrud_Gilberto

その後、夫の音楽的協力者であるアメリカのジャズサックス奏者スタン・ゲッツと紆余曲折を経たツアー中に交際したことがある。ツアー中、ゲッツは虐待を行い、彼女の弁護士アラン・アローがツアー契約を解除させるまで、名声の絶頂にあった歌手に低賃金を支払った

1964年に発売された「イパネマの娘」の編集シングルでは、ジョアン・ジルベルトが歌っていたポルトガル語の歌詞が省略され、アストラッド・ジルベルトがボサノヴァ歌手として確立した。この曲は100万枚以上のセールスを記録し、ゴールドディスクに認定された。このレコーディングで、アストラッドは標準的なセッション料である120米ドルしか受け取っていないと言われている。『Singers and the Song II』のジーン・リーズによると、ゲッツはプロデューサーのクリード・テイラーに、このシングルについて彼女に印税が払われないように依頼したといい、その後、500万枚以上販売した。


う〜ん、うそかまことか…

>>[469]

蛇足ながら、

『Singers and the Song II』

https://global.oup.com/academic/product/singers-and-the-song-ii-9780195122084?cc=jp&lang=en&

http://jazzsong.la.coocan.jp/sub4.html#singersandthesongii

***歌手たちとその歌(第2版):ジーン・リース***
作詞家、歌手、ジャーナリスト、著述家(ジョニー・マーサ、オスカー・ピーターソンなどの自伝)、批評家など広く活躍するジーン・リースが雑誌Jazzletter に書き綴ったエッセイをまとめた SINGERS AND THE SONG に加筆し再発売したもの。
アレック・ワイルダーのAmerican Popular Songとこの本は、ポピュラーソングに関する名著とされる。


和訳はないようですが、興味ある方はどうぞ。


2023年6月23日、作詞家のシェルドン・ハーニックさんが亡くなりました。
99歳でした。

https://www.nytimes.com/2023/06/23/theater/sheldon-harnick-dead.html

Sheldon Mayer Harnick (April 30, 1924 – June 23, 2023)
https://en.wikipedia.org/wiki/Sheldon_Harnick

彼は多くのミュージカル(舞台)音楽の作詞家として活躍してきましたが、日本では特に、作曲家のジェリー・ボックと組んだ「屋根の上のバイオリン弾き」(Fiddler on the Roof:1964) が有名です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Fiddler_on_the_Roof

このミュージカルは日本でも人気があり、日本人俳優(森繁久彌)さんたちにより上演されています。

また、このミュージカルでの音楽はキャノンボール・アダレイによりアルバム化
されています。
Cannonball Adderley – Cannonball Adderley's Fiddler On The Roof (1964)
https://www.discogs.com/ja/master/306030-Cannonball-Adderley-Cannonball-Adderleys-Fiddler-On-The-Roof



作曲家のジェリー・ボックとシェルドン・ハーニックの二人の1964年、TV出演時の動画です。



この動画もシェルドン・ハーニックのTV出演時のものなのですが、上記よりもかなり後のものになります。(51分ほどの長さです)



キャノンボール・アダレイのアルバム Fiddler On The Roof から "Fiddler On The Roof"





ご冥福をお祈り申し上げます。

「イパネマの娘」のモデルは実在していた。

https://www.sankei.com/article/20230711-JKCFEGTZQNLYPARDNL2ZS53Q2Y/

https://en.wikipedia.org/wiki/Helo%C3%ADsa_Pinheiro

エロイザ・ピニェイロさんという実在の人がモデルだったそうです。

ネット上にはいくつかのビキニスタイルの写真があります。
(といっても1960年代のビキニですが…)


ボサノヴァの歴史上に重要な足跡を残したジョアン・ドナート(Joao Donato de Oliveira Neto)氏が、7月17日にリオデジャネイロで逝去されました。
88歳、でした。
ドナート氏は1934年8月17日に、Rio Brancoで生まれました。

ボサノヴァの創成期から、音楽活動を開始。
ピアノ、アコーディオン、トロンボーンをこなしましたが、同時に偉大な作曲家でもありました。

ボサノヴァ初期から才能あふれる彼のプレーは超ジャジーでありまたアバンギャルドでもあったためブラジル本国ではなかなか受け入れがたく、アメリカに渡りアメリカを舞台に13年間に渡って音楽活動を続けました。

この時代アメリカでは主にラテンジャズのアーティスト達と共演しましたが、私個人的に何と言っても特押しはウエストコーストのアルト・サックス奏者バド・シャンクと共演したパシフィックジャズのアルバㇺ"Bud Shank & Brazilian Friends."です。

1972年にブラジルに帰国後音楽の表舞台からは遠ざかっていたドナート氏を1995年に引っ張り出したのが、小野リサさん。
彼女との共演アルバムをきっかけに、第一線にで長い間活躍を続けていました。

彼が尊敬していたのは、スタン・ケントン。
彼は世間からよく変人だと言われていましたが、実は常に純粋な子供のような心を持っていた人物。

有名な話として来日時にインタビューを受けるために来訪したレコード会社前の路上でホテルから履かずに持って来た靴下を丸めて関係者たちとキャッチボールを始め、レコード会社の役員が受け取ると満面の笑みで喜んだといった逸話があります。

私が東京のブルーノートでま近で彼のプレーを聞いた時も、七色のレインボーカラーの靴下で演奏していたのが印象に残っています。

多くのエキゾティックな名曲と名プレーを残してくれた、ジャズサンバの巨匠のご冥福をお祈り致します。


彼の代表曲の一つ、 Minha Saudadeミーニャ・サウダージ(私のサウダージ)です。



やはり代表曲の一つで、Amazonasです。



Bud Shankとのアルバム全33分を、貼付けます。

>>[473]

Bud Shank & Brazilian Friends は、リリースされたのが1965年だったのですね。
https://www.discogs.com/ja/master/690953-Bud-Shank-Bud-Shank-His-Brazilian-Friends

Getz / Gilberto (1964) ほどには評判にならなかったように思うのですが、
バド・シャンクの方がゲッツよりもラテンジャズ寄りだったからかしら。
https://www.discogs.com/ja/master/85178-Stan-Getz-Joao-Gilberto-Getz-Gilberto

そのあたりがよく判っていません ^^;

バド・シャンクはブラジルでボサノヴァが誕生する1958年以前より、ブラジル出身でアメリカ西海岸で括約したギタリストのローリンド・アルメイダと組んで後のボサノヴァにつながるような音楽をプレーしていました。
https://www.discogs.com/ja/master/466564-Laurindo-Almeida-Quartet-Featuring-Bud-Shank-Laurindo-Almeida-Quartet-Featuring-Bud-Shank

一方スタン・ゲッツがブラジルから帰国したジャズギタリストのチャーリー・バードに教えられて最初のボサノヴァアルバム「ジャズ・サンバ」を録音したのは1962年のことです。
https://www.udiscovermusic.jp/stories/jazz-samba
>>[475]

Laurindo Almeida Quartet featuring Bud Shank (1955)

"Noctambulism"



"Amor Flamengo"




Jazz Samba (full album) (1962)




う〜ん、このあたりはウエストコースト・ジャズを系統的に聴いていないと判らない所のようですね。

バド・シャンクは好きなのですが、私は系統的には掘り下げていません ^^;

スタン・ゲッツはレスター・ヤング→ズート・シムス→スタン・ゲッツという流れの中でほどほどに聴いていました。

USではゲッツの方がシャンクよりも人気が高かったからかもしれませんね。

スタン・ゲッツは上記 Jazz Samba と同年に Big Band Bossa Nova というアルバムを録音していますね。

Stan Getz – Big Band Bossa Nova (1962)



その後に続いてボサノヴァとわかるのは
Getz / Gilberto (1963)
Jazz Samba Encore! (1963)
Stan Getz With Guest Artist Laurindo Almeida (1963)
Getz / Gilberto #2 (1965)
The Best Of Two Worlds (1976)
があります。

1962年から1965年ぐらいがゲッツのボサノヴァの全盛期だったようですね。

https://www.discogs.com/ja/artist/30486-Stan-Getz

一方、バド・シャンクのボサノヴァ(ラテン・ジャズを含む)アルバムらしいものをピックアップしてみますと(私は持っていないので内容については責任を持てません)

Laurindo Almeida Quartet Featuring Bud Shank – Laurindo Almeida Quartet Featuring Bud Shank (1953)
Laurindo Almeida Quartet Featuring Bud Shank – Laurindo Almeida Quartet Featuring Bud Shank Volume 2 (1954)
Laurindo Almeida Quartet Featuring Bud Shank – Laurindo Almeida Quartet Featuring Bud Shank (1955)
Bud Shank – Latin Contrasts (1959)
Bud Shank – Holiday In Brazil (1959)
Bud Shank & Clare Fischer – Bossa Nova Jazz Samba (1962)
Bud Shank / Clare Fischer / Joe Pass – Brasamba! (1963)
Bud Shank – Bud Shank & His Brazilian Friends (1965)
Bud Shank – Brazil! Brazil! Brazil! (1966)
Charlie Byrd Trio With Bud Shank – Brazilville (1982)
Laurindo Almeida, Bud Shank – Selected Classical Works For Guitar And Flute (1982)
Bud Shank E João Donato – Uma Tarde Com Bud Shank E João Donato (2007)

このように、ゲッツでジャズ界にボサノヴァ・ムーブメントが始まるよりもはるかに前から、ブームが終わってからでも、ブラジル音楽とジャズという取り組みが続いているようですね。

https://www.discogs.com/ja/artist/255945-Bud-Shank

ウエストコースト・ジャズが好き、バド・シャンクが好き、ボサノヴァを含むブラジル音楽が好きという人で系統的に掘り下げてきている方もいらっしゃるのでしょうね。

いくつかは聴いてみたいというアルバムがあります。

私が行きつけのカラオケスナックで必ず歌う下手な歌が、「思い出のサンフランシスコ」。
この曲で1962年に世界的な地位を確立したアメリカの国民的シンガー、トニー・ベネット(
Anthony Dominick Benedetto)氏が7月21日96歳で天寿を全うされました。

1926年8月ニューヨークのクイーンズに、イタリア移民の両親のもとに生まれました。
美術関係にも深い才能を持つ彼は当初コマーシャル・アートの世界を目指していましたが、第二次世界大戦中のドイツ駐留時に歌手になることを決意。

パール・ベイリー、ボブ・ホープ、ミッチ・ミラーの各氏に認められて1950年にCBSと契約を交わしました。
この時代に、多くのジャズオーケストラと共演。
以後一連のヒットを飛ばし、"I Left My Heart in San Francisco"の大ヒットでアメリカを代表するポピュラーシンガーの1人としての地位を確立しました。

それはもう、今から30年近く前のこと。
その夜私はさる日本の女性ジャズシンガーのステージを聞く為に、東京は新橋のライブハウスにおりました。

1stステージが終わり休憩時間の入ったころ、数人の団体客がドヤドヤと入店して来ました。
それが何と、NHK大ホールでの東京公演を終えたTony Bennett氏一行のグループで打ち上げの為の来店でした。
そしてお店のリクエストに応えて、氏はライブハウスの小さなステージに上がってくれました。
ピアノの前に坐ったのは、もちろんラルフ・シャロン氏。

目の前で彼が歌ってくれた「サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート」は、私にとって思いがけない一生忘れないプレゼントとなりました。

この夜彼の前で2ndステージを勤めた女性シンガーは、気の毒なくらいの緊張状態で歌っていたのも思い出します。

Tony Bennett氏の、ご冥福をお祈り致します。 合掌!!

何と言っても、やはりサンフランシスコですよね。


1975年には、ピアノのBill Evansとの共演レコードがジャズファンの間で話題となりました。
Days Of Wine And Rosesです。


近年はLady Gagaとの共演も、人気を呼びました。
Night And Dayです。

>>[479]

ありがとうございます。

行きつけのライブハウスでの突然の彼との邂逅、強く思い出に残る出来事だったでしょうね。

ラジオから流れてくる彼の声の声質がマーク・マーフィーと似ているので、その声がトニー・ベネットなのか、マーク・マーフィーなのかなかなか区別がつかなかったのですが、ある日気が付いたのは、う〜んとジャジーに歌うのがマーク・マーフィーでポップス風に歌っているのがトニー・ベネットだと判るようになってから、悩ましさがかなり解消されました。
私にとっては、トニー・ベネットはペリー・コモやアンディー・ウィリアムスのようなポップスシンガーという位置づけです。

とはいえ、晩年まで現役歌手としてジャズ・プレイヤーたちと共演を続けたことには敬意を表します。

ご冥福をお祈りいたします。

管理人様
そういう意味では、私の最も敬愛するシンガーの1人であるフランク・シナトラ氏もポップ・シンガーだと思います。
またナット・キングコール氏はピアノを弾かせれば超一流のジャズピアニストですが、唄えばやはりポップ・シンガーだとおもいますが・・・・
こんな記事がありました。

『自由・協調…ジャズの力を信じ 第34回世界文化賞受賞者ウィントン・マルサリス氏』

https://www.sankei.com/article/20231011-542T6ERVJBJC5H6DXLVR67U6LE/

マルサリスは「日本のファンの真剣さが、ジャズを文化の最前線に押し上げていた」と話す。

マルサリスにとり、ジャズは今や「米国の良心」を示す音楽だ。ジャズの演奏は、奏者の自由な「即興演奏」、他の奏者の自由を尊重し全体の調和を図る「スウィング」、世間の厳しさを知りながらも楽観的な態度で生きる「ブルースの受容」で成り立つという。


ご自身のサイト(英語)

https://wyntonmarsalis.org/news/entry/wynton-marsalis-receives-praemium-imperiale-award

受賞についてのヴィデオ
https://wyntonmarsalis.org/videos/view/wynton-marsalis-interview-for-praemium-imperiale-award-2023

アルバムはこんなにあります。
https://www.discogs.com/ja/artist/253392-Wynton-Marsalis

ベニー・ゴルソンが書いた "I Remember Clifford" は後年 Jon Hendricks によって詞詩が書かれ、クリフォード・ブラウンを偲ぶ名曲として歌われています。

一方、Lee Morgan が書いた名曲 Ceora に Milton Suggs 詞を書いて "Only a Memory" として
歌われています。

I’m drifting in reverie
I’m lost in a daze
Nostalgic, in oh so many ways
And it plays all over again
Until you’re right back here with me
Loving you the way
that you were meant to be
Every note we play together
They will resonate
Forever we stay on one accord
We make a harmony so sweet

I listen and I can hear
The music so clear
Resounding from when our love was near
You appear and suddenly I find
You are right back here with me
And I know I’ll keep loving you forever
You will always be, the melody
Playing softly just for me,
Even if your only a memory

I listen and I can hear
The music so clear
Resounding from when our love was near
You appear and suddenly I find
You are right back here with me
And I know I’ll keep loving you forever
You will always be, the melody
Playing softly just for me,
Even if your only a memory

I’m drifting in reverie
I’m lost in a daze
Nostalgic, in oh so many ways
And it plays all over again
Until you’re right back here with me
Loving you the way
that you were meant to be
Every note we play together
They will resonate
Forever we stay on one accord
We make a harmony so sweet

I listen and I can hear
The music so clear
Resounding from when our love was near
You appear and suddenly I find
You are right back here with me
And I know I’ll keep loving you forever
You will always be, the melody
Playing softly just for me,
Even if your only a memory

この詞を眺めると、これはリー・モーガンのことをを歌っているように見えます。

つまり、リー・モーガンは自分で自分を偲ぶ曲を書いた(大笑い)ということになりそうです。

作詞者の Milton Suggs の歌唱です



Alyssa Allgood これもステキです



>>[483]

"Only a Memory"

DeepL の出力です(補正してません)

私はぼんやりと漂っている
ぼーっとする
いろんな意味で懐かしい
And it plays all over again
あなたがここに戻ってくるまで
愛している
愛している
私たちが一緒に奏でるすべての音は
それらは共鳴する
永遠に一心同体
甘いハーモニーを奏でる

耳を澄ませば
澄み切った音楽が
私たちの愛が近くにあったときから響いている
あなたが現れると突然
あなたはここに戻ってきた
いつまでも君を愛し続けるだろう
あなたはいつもメロディー
私のためにそっと奏でてくれる
たとえ思い出の中にしかいなくても


耳を澄ませば
その音楽はとてもクリアで
私たちの愛が近くにあったときの響きが
あなたが現れ、突然私は気づく
あなたは私のそばにいる
いつまでも君を愛し続けるだろう
あなたはいつもメロディー
私のためにそっと奏でてくれる
たとえ思い出の中にしかいなくても

I'm drifting in reverie
I'm lost in a daze
ノスタルジック、いろんな意味で
And it plays all over again
君がここに戻ってくるまで
愛している
愛している
私たちが一緒に奏でるすべての音は
それらは共鳴する
永遠に一心同体
甘いハーモニーを奏でる


耳を澄ませば
澄み切った音楽が
私たちの愛が近くにあったときから響いている
あなたが現れると突然
あなたはここに戻ってきた
いつまでも君を愛し続けるだろう
あなたはいつもメロディー
私のためにそっと奏でてくれる
たとえ思い出の中にしかいなくても

>>[483]

引用元はここです


https://www.smule.com/song/lee-morgan-alyssa-allgood-milton-suggs-ceora-only-a-memory-karaoke-lyrics/7019222_7019222/arrangement

自主性を貫きかつてはジャズ界きっての才女と評された作曲家兼ピアニスト&オルガニストのカーラ・ブレイ(Carla Bley)さんが、10月17日にニューヨークで脳腫瘍の合併症で逝去されました。
1938年5月生まれですので、87歳でした。

カリフォルニア州オークランドに生まれた彼女は父親がピアニスト兼教会のオルガン奏者であった事から、幼い時からピアノに親しんでいました。
父親の演奏を聞いた以外に正式な教育を受けていませんでしたが、5歳の頃には教会で賛美歌を弾いていました。

17歳でジャズに興味を示しジャズの本場ニューヨークに憧れてニューヨークに移りましたがジャズの仕事には恵まれず、ウエイトレスとして生計をたてていました。
そんな境遇の中1957年に、ジャズピアニストのポール・ブレイと一回目の結婚。
積極的に作曲活動を進め、徐々にその才能が認められるようになりました。

1964年から本格的に演奏活動に入り、ニューヨークのクラブでチャールス・モフェットやファラオ・サンダースなどとセッションに励みました。
この時期彼女のプレーはオーネット・コールマンやドン・チェリーの影響を強く受けています。

1964年末には2回目の結婚相手であるトランぺッターのマイケル・マントラ―と、「ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ・アソシエーション」(JCOA)を結成。

1965年には、マントラ―、スティーブ・レイシー等とクインテットを組んで活動。
1966年にはベータ―・ブロッツマンと、ヨーロッパ公演を行いました。

またこの頃から再度作曲面に活動の重点を置くようになり、ゲーリー・バートンやチャーリー・ヘイデンなどに自己名義の作品を提供しました。

1969年からは詩人ポール・ヘインズとの共作となる大作「エスカレーター・オーヴァ―・ザ・ヒル」に取り組み、1971年に3枚組レコードとしてJCOAからリリースして世界的評価を得ました。
1973年にはフランスで、ジャズ大賞を獲得。
またJCOAとは別に、自己のレーベルWattを設立しました。

1976年からはフレンチ・ホルンやチューバなどあまりジャズ界とは縁の薄かった楽器も導入した自己のオーケストラを率いて活躍。
また1991年に3回目の結婚相手となるベースのスティーブ・スワローとのデュオなどを中心に、その後も活動を続けました。

まるで練習のような自然な流れのピアノをプレーし、ジャズ界に作った自分のポジションをしっかり押し通した才女のご冥福をお祈り致します。

ベーシストのご主人Steve Swallow と共演の、” Lawns”です。


Andy Sheppardのサックスを加えたトリオで、”Life Goes on”です。


名作アルバム「Live」より、”Blunt Object”です。

>>[486]

詳しい解説をありがとうございます。
彼女には注目していたのですが、系統的には聴いてきていないどころか、アルバムすら手元にありません。

discogs を見ると彼女自身の名義のアルバムがこんなにあるのですが、この中から1枚、最初にアルバムを選ぶとどれにするといいのでしょうか。

https://www.discogs.com/ja/artist/250037-Carla-Bley

ご冥福をお祈りいたします。

また、彼女の最初の夫君であるポール・ブレイにも興味があります。

discogs ではこれだけ出てくるのですが、この中から1枚、最初にアルバムを選ぶとどれにするといいのでしょうか。
https://www.discogs.com/ja/artist/253098-Paul-Bley
ちなみに Sonny meets Hawk は繰り返し聴いてきています。

スティーブ・スワローが3度目の結婚相手というのも驚きました。
彼女とは音楽的に引きあうものがあったという視点で、彼の演奏を聴くことになりそうです。

2023年11月時点で、アマプラで Wayne Shorter: Zero Gravity (2023) 『ウェイン・ショーター 無重力の世界』が配信されています。

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0CBFR4WYX/ref=atv_dp_btf_el_prime_sd_tv_play_t1ADAAAAAA0wr0?autoplay=1&t=0

数多くのジャズメンが登場し、彼の思い出を語ったり、1950年代あたりからの彼や仲間たちの演奏する姿の記録がいくつも引用されていて、ジャズファンならををっ!と言いながら楽しめるTVシリーズになっています。
もちろんアート・ブレイキーやマイルス・デイヴィスのグループに在籍していたころのフィルムも登場します。

ジャズ史の一端を知る意味でも見ておく価値がありそうです。
(私はまだ3エピソード全てを見たわけではありません)

https://en.wikipedia.org/wiki/Wayne_Shorter#Wayne_Shorter:_Zero_Gravity
(中ほどに短い解説があります)


2015年、プロデューサー兼監督のドーセイアラヴィは、ウェイン・ショーターの生涯を描いたドキュメンタリー『Wayne Shorter: Zero Gravity』の撮影を開始した。ハービー・ハンコック、エスペランサ・スポルディング、テリー・リン・キャリントンを含む多くの著名なミュージシャンが、ドキュメンタリーの資金集めのための寄付者イベントで演奏し、最大の寄付の2つはハーブ・アルパート財団とカルロス・サンタナから寄せられた[15]。 2018年、4時間の予備カットが完成。その後、ブラッド・ピットが自身の製作会社とともにプロジェクトに参加。コビド危機の影響もあり、若干の遅れが生じたが、2023年8月から、ドキュメンタリーは3時間のミニシリーズとしてストリーミング・プラットフォームで視聴できるようになった。





2018年、49歳という若さで亡くなった名トランぺッター、ロイ・ハーグローヴの伝記的映画が公開されます。
Hargrove、2022年作品です。

https://www.imdb.com/title/tt14249296/?ref_=tt_mv_close

Roy Anthony Hargrove (October 16, 1969 – November 2, 2018)
https://en.wikipedia.org/wiki/Roy_Hargrove

HARGROVEドキュメンタリー特集: ジャズ界の伝説的トランペット奏者、ロイ・ハーグローヴが、音楽界の預言者と呼ばれる彼の姿を間近で見ることができる。ロサンゼルス、パリ、ニューヨーク、ヴィエンヌ、ペルージャ、セート、ソレント、マルセイユと、グラミー賞受賞者ロイ・ハーグローヴの人生最後の年のヨーロッパ・ツアーに密着。初監督のエリアーヌ・アンリによる壮大なラブレターである本作には、ロイのインタビューとライブ・パフォーマンスが収録されており、音楽界のアイコン的存在であるエリカ・バドゥ、ハービー・ハンコック、モス・デフ、ロバート・グラスパー、ウィントン・マルサリス、ソニー・ロリンズらが、彼の音楽の魔法、次世代へのロイの影響、そしてジャズ史における彼の位置について考察している。重要な会話は、ロイの個人的なストーリーを超えて反響を呼び、特にアメリカの文脈において、アーティストであることが何を意味するかという領域に踏み込んでいく。




彼が参加したアルバムは、現代の歌姫たち【シリル・エイメー】で取り上げています。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6028752&id=76624079

多くの美しいメロディを創造したボサノヴァの詩人、Carlos Lyra(カルロス・リラ)氏が2023年12月16日の朝リオデジャネイロで逝去されました。
本名Carlos Eduardo Lyra Barbosa、1933年5月生まれですから90歳でした。

生粋のカリオカ(リオ育ち)のリラは常に音楽のシャワーを浴びて育ち、高校時代に後輩のホベルト・メネスカル氏と意気投合してコパカバーナにギター教室を開きました。
ジョビンを追う世代の当時の仲間は、マルコス・ヴァーレ、ナラ・レオン、エドウ・ロボなどのボサノヴァの若手世代たち。

海とギターと高層アパートという上流社会に身を置いた彼らは、まさにボサノヴァ最盛期の渦中に身を置いて新しい音楽の創造に努めました。

1959年には「マリア・ニンゲン」「ロボ・ボぼ」などの名曲を作り、アルバムデビュー。
1960年にヴィニシウス・モライスとのコンビが誕生し、「私の恋人」「あなたと私」「コイザ・マイス・リンダ」「春」などのボサノヴァの名曲が次々と生まれました。

1962年にはニューヨークのカーネギーホールで開催された、歴史的なボサノヴァのコンサートにも参加。
1963年にはミュージカル「哀れな金持ち娘」をモライスと制作し、まさにボサノヴァラインのフロントを疾走しました。

しかし1964年にブラジルが軍事政権下に置かれるとリラの作風もプロテストソング風に変わり、ボサノヴァのブーム終了にともなってリラはアメリカに渡りスタン・ゲッツのグループに参加。
1965年にはスタン・ゲッツと共に来日して、公演を行っています。
以後20年間リラは海外を中心に、ボサノヴァからは距離を取った活動を続けました。

1984年「ボサノヴァの25年」のショーでギターを抱えてブラジルの観衆の前に復帰し、全盛期と変わらぬ若々しさと美しい旋律を披露。
以後も自分の音とスタイルを守り続けて、「ボサノヴァそのもの」の活動を続けました。
日本にも数回、来日。
私もブルーノート東京で彼のステージに接し、ステージ終了後に挨拶をして一緒に記念撮影をしてもらったのですが残念ながらこの写真は光量不足で失敗に終わりました。

尚彼の娘さん、ケイ・リラもボサノヴァ・シンガーとして活躍を続けており数年前の来日時にはしっかりサインをもらいました。

永遠のボサノヴァのメロディメーカー、カルロス・リラ氏のご冥福をお祈りします。

代表曲の一つ、"Primavera"(春)です。


お嬢さんのケイ・リラと共演した、 VOCÊ E EU (あなたと私)です。


彼が命名した事でも知られるグループQuarteto em Cyとの共演で、"Aruanda"です。


カルロス・リラの名前を一躍世界的とした初期のアルバム"The Sound of Ipanema"。
アメリカの若手サックス奏者Paul Winterとの共演ですが、全曲を貼付けます。



>>[490]

>1965年にはスタン・ゲッツと共に来日して、公演を行っています。

についての記事がありました。
http://t-muroi.net/publics/index/45/

これがスタン・ゲッツの初来日になるのかどうか、調べきれませんでした。

私の記憶ではスタン・ゲッツのステージを聴いた大橋巨泉氏が「天上から聞こえてくる音楽」というよいうな評論をしていました。



映画『オスカー・ピーターソン』が公開されます。

劇場公開日:2024年2月2日

https://www.imdb.com/title/tt14171710/?ref_=fn_al_tt_1

https://www.oscarpetersonmovie.com/





映画の中でも大きく取り上げられている "Hymn To Freedom"



私の敬愛する日本のテナーサックス奏者西条孝之介さんが、2023年11月27日に肺炎で亡くなられたとの事です。
1931年12月横浜生まれの、91歳でした。
慶応大学在学中から、モダンな感覚のテナーが認められてプロ入り。
いくつかのグループでの活動を経て、ピアノの故前田憲男氏とともにウエスト・ライナーズを結成。
ウエストコースト的サウンドと西条氏のクールテナーで、一世を風靡して日本のジャズシーンで代表的なコンボとなりました。
西条氏は一時演奏活動から遠ざかりましたが、カムバック後はギターの沢田駿吾氏のグループで活動を行った後に自己のグループを率いて活発な演奏活動を展開しました。
また前田憲男氏が結成した「ウインドブレイカーズ」にもレギュラーメンバーとして参加し、ライブハウスやイベントで長期に活躍されました。
2008年にご自分で人生最後のアルバムと宣言されてスタンダートの名曲を集めたCDアルバム"The Good Life"を制作され、それ以降は事実上引退生活を送られていました。
私も西条さんのプレーを何回もライブハウスやフェスティバルなどで聞かせて頂きましたが、何と言っても忘れられないのはアメリカのテナーチームとしてアル・コーンとズート・シムスが来日した時のことです。
銀座のライブハウスでアル&ズートのプレイを私は最前列で聞いていたのですが、突然西条さんがテナーサックスを抱えて飛び入りされてアル&ズートとセッションをされました。
これは、忘れられない思い出です。
日本のスタン・ゲッツとも称された西条孝之介さんのご冥福を、心からお祈り申し上げます。

まずはギターの沢田さんとの共演で、スタン・ゲッツの名演で知られる”Dear Old Stockholm”です。


次は、”Menina Moca”です。


これもウディ・ハーマン時代のスタン・ゲッツの名演で有名な”Early Autumn”です。


曲は、”ON THE ALAMO”です。

2024年1月19日、マリーナ・ショウ (Marlena Shaw) さんが亡くなりました。
84歳でした。

https://en.wikipedia.org/wiki/Marlena_Shaw

私はあまり聞きこんでいない人なので、Wikipedia の記事をご覧ください。

マレーナ・ショウ(Marlina Burgess、1939年9月22日 - 2024年1月19日)は、アメリカのジャズ、ブルース、ソウル、ディスコ・シンガー。1960年代に歌手としてのキャリアをスタートさせ、亡くなるまで活動を続けた。彼女の音楽はしばしばヒップホップ・ミュージックにサンプリングされ、テレビのコマーシャルにも使われた。2024年1月19日、84歳で死去。

彼女のキャリアが飛躍的に伸びたのは、1966年にシカゴのプレイボーイ・クラブ・チェーンでギグを獲得したときだった。このギグを通じて、彼女は音楽レーベル、チェス・レコードの代表者と出会い、すぐに彼らと契約した。傘下のカデット・レコードから最初の2枚のアルバムをリリース。1969年のアルバム収録曲「California Soul」は、アシュフォード&シンプソンが書いたファンク・ソウル曲で、もともとはアメリカのポップ・クインテット、5th Dimensionがシングルとして出したものだが、後にイギリスのレア・グルーヴ・シーンの定番となった。

1977年、彼女はコロムビアからLP『Sweet Beginnings』をリリース: 「Yu Ma / Go Away Little Boy "は、ナンシー・ウィルソンがレコーディングしたゴフィンとキャロル・キングの古いスタンダード曲を含むメドレーである。このアルバムには、イギリスのレア・グルーヴ・シーンの人気曲「Look at Me, Look at You」も収録されている。1977年の映画『Looking for Mr.Goodbar』の主題歌「Don't Ask to Stay Until Tomorrow」は、サウンドトラックにも収録されている。また、ディスコ時代の大ヒット曲のひとつ、「Touch Me in the Morning」のリメイクをコロンビア・レコードからリリースしている。

1982年、マーレナはジョニー・ブリストルとウェブスター・ルイスがサウスベイ・レコードから共同プロデュースしたLP『Let Me in Your Life』から、ゲイリー・テイラーのバラード「Without You in My Life」をレコーディング。この曲はアメリカで中程度のチャート成功を収めた。1983年、彼女はフィル・アップチャーチのアルバム『Name of the Game』に収録された "Could It Be You "のヴォーカルを担当。


サミー・ディヴィス・ショウに出演した時の録画のようです。
彼女の1975年のアルバム Who Is This Bitch, Anyway? が出てきますので、1975年あたりか?



2013年の来日時のライブ動画



彼女のヒットアルバムから "California Soul"




産経ニュースに綾戸智絵さんの記事が出ていました。


「私の歌はお客さんのもの」教えられた手紙 ジャズシンガー・綾戸智絵さん(1)
https://www.sankei.com/article/20240320-TDCHFODCVNCZVD72WBEUC3O5Q4/

ライブハウスでお客さんに土下座 ジャズシンガー・綾戸智絵さん(2)
https://www.sankei.com/article/20240320-EXQETMPZBBAFNGME3KIAPKDPCI/

「がんだから売れた」ジャズ仲間から陰口や嫉妬  ジャズシンガー・綾戸智絵さん(3)
https://www.sankei.com/article/20240320-5S5GYCYXW5AKLEE6FLNXFYT5YE/

「今日やったことが、明日の夢を作る」 ジャズシンガー・綾戸智絵さん(4完)
https://www.sankei.com/article/20240320-JS3MMQOGNBCNPDYWLYH7XWICSU/


X(twitter) のこのアカウントをウォッチすると、結構すごいミュージシャンたちを招聘していることがわかるなぁ…

そこから気になるミュージシャンの来日情報を探し出すと、全国各地でのライブの機会も検索できそう。

ブルーノート東京
@BlueNoteTokyo

コマーシャルと創造性を両立させた真のプロ、アルト・サックスの巨星David Sanborn(デビッド・サンボーン)さんが5月12日に前立腺癌の合併症で逝去されました。
78歳、でした。
ロック、ポップ、R&Bなどの音楽をジャズのフィーリングで染めていわゆるフュージョンミュージックの第一人者として活躍し多くの著名なアーティストと共演したりスタジオミュージシャンとして広範囲の音楽のバックを務めたり、とても彼の音楽分野を絞る事はできませんが私的にはジャズの世界から彼の偉業を忍ばせて頂きます。

David William Sanbornは1945年7月30日に、アメリカのフロリダ州タンパで生まれ幼い頃に家族と共にセントルイスに移りました。
小児マイを発症しその治療として肺の強化の為にドクターに勧められて、アルト・サックスを吹き始めました。
ノース・ウエスタン大学とアイオワ大学で正式に音楽を学び、1967~71年にはポール・バタフィールドのブルースバンドで活躍しました。

その後ニューヨークに活動の場を移し、スティービー・ワンダー、ポール・サイモン、デビッド・ボーイ、ジェームス・テイラー等のバックを務めました。

1974年に、ギル・エヴァンスのオーケストラに参加。
セクションプレーヤーと個性が必要なソリストの両面が要求されるこのオーケストラへの参加が、まさにサンボーンの資質を全面的に展開させるのにうってつけのシーンとなりました。

1975年にワーナーレコードと契約し、初リーダーアルバム”Taking Off"を発表。
以後20枚以上のリーダーアルバムを制作し、グラミー賞も6回受賞しています。
更に音楽のジャンルを超えて広い分野で多くのアーティストと共演し、また日本のミュージシャンとの共演も目立ち数多く来日も果たしました。

代表的なコラボレーション楽曲はデヴィッド・ボウイ「Young Americans」、ブルース・スプリングスティーン「Tenth Avenue Freeze-Out」、イーグルス「The Sad Cafe」、スティーリー・ダン「Time Out of Mind」、スティーヴィー・ワンダー「Tuesday Heartbreak」、ジェイムス・テイラー「How Sweet It Is (To Be Loved by You)」、J.D.サウザー「You're Only Lonely」、ケニー・ロギンス「Heart to Heart」など。
またローリング・ストーンズの『Undercover』、ポール・サイモンの『Still Crazy After All These Years』、トッド・ラングレンの『A Wizard, a True Star』、エルトン・ジョンの『Blue Moves』、リンダ・ロンシュタットの『Living in the USA』、ロジャー・ウォーターズの『The Pros and Cons of Hitch Hiking』、TOTOの『Fahrenheit』、エリック・クラプトンの『Journeyman』、ビリー・ジョエルの『An Innocent Man』などにも参加しています。

2018年に癌を発症したサンボーンは癌と戦いながらもつい最近まで音楽スケジュールをこなし、2025年までコンサートがブッキングされていました。

一聴すればそれとわかる個性的なサウンドで多方面で引っ張りだことなり、わずかなソロスペースやオブリガードだけでも己を主張する技量で世界を魅了した偉大なサックス奏者のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

まずジャズ界の巨匠、フィル・ウッズとの共演記録です。


ヒットしたBob James との双頭アルバムから、MAPUTOです。


代表曲の一つ、 Chicago Songです。


2022年のステージから、"Georgia On My Mind"です。

>>[497]

詳細な経歴の説明、ありがとうございます。
彼はフュージョンで活躍した、主流派バップスタイルとは少し違う演奏スタイルの人、程度にしか認識していませんでした。

>1974年に、ギル・エヴァンスのオーケストラに参加。

ひょっとすると、ギル・エヴァンス・オーケストラの来日コンサートに参加していたのかな、調べていません。

私の知人でアマチュア・サックス奏者がサックスを3本持っていたので、デビッド・サンボーン(3本)というニックネームを付けていました(笑)
彼はデビッド・サンボーンが好きだということだったのですが、この人は楽譜を読めないので、耳で曲を理解しているんだろうとも言われていました。

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