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◆日本の神話と古代史と日本文化コミュの◆四月三日、宮中の皇霊殿において神武天皇祭

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◆四月三日、宮中の皇霊殿において神武天皇祭

◆◇◆四月三日、宮中の皇霊殿において神武天皇祭 

 四月三日の神武天皇祭は、一八七四(明治7)年から一九四八(昭和23)年まで大祭日(皇室の重要な祭祀の行われる日)となってた。

 神武天皇祭は、神武天皇のご命日(崩御の日)と伝えられる四月三日(旧暦三月十一日)に、宮中の皇霊殿において、天皇ご親祭により行われる神事で、神武天皇祭の夜は、特に御神楽を奉奏して神霊をなごめる祭典が行われる。

 また、当日は大和の畝傍山(奈良県橿原市)の麓に鎮まる神武天皇の山陵「畝傍山東北陵(うねびうやまうしとらのせみのみささぎ)」にも勅使が遣わされ、厳粛な祭典が行われる。

明治天皇により、神武天皇祭は、初代天皇の御徳を偲び奉る日として宮中の大祭に位置付けられ、今日に至る。

 『記・紀』伝承にによると、神武天皇は第一代の天皇で、名前は神日本磐余彦尊(かんやまといわれびこのみこと)で、日本書紀によれば、日向国(現在の宮崎県)から東征し、瀬戸内海から難波(現在の大阪府)に上陸し、熊野・吉野を通って大和(現在の奈良県)を平定し、辛酉の年(紀元前660年)一月一日(新暦2月11日)大和の橿原宮(かしはらのみや)で即位したとされる。

 明治以降は日本書紀の紀年に従い、この年を日本皇紀紀元元年とした。ちなみに現在二月十一日は、建国記念の日である。

◆◇◆橿原神宮と神武天皇

 大和の畝傍山(奈良県橿原市)の東南に鎮座する橿原神宮は、「神武さん」と呼ばれ地元の人に親しまれ、神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命が祀られている。

 橿原神宮は、明治二十三年に造営になったもので、紀元二千六百年記念事業に現在のような広い神域に拡張整備された。

 橿原神宮で重要な祭典は、二月十一日の紀元祭と四月三日の神武天皇祭である。

 紀元祭は神武天皇が橿原神宮で即位になった日と伝えられ、二月十一日にはたくさんの参拝者が訪れる。四月三日の神武天皇祭は、神武天皇崩御の日とされ、戦前は神武天皇祭といって国の祭日になっていた。

 毎年四月三日は桜の花も咲き、一昔前まではこの日は庶民の春休みで、お餅を搗いて親戚や友人を招いてご馳走していたそうだ。

 これを「神武さんれんぞ」といっていた。れんぞの日は、橿原市では盛んに行われていたが、他の地方でもかなりれんぞをやっていた村があったそうである。


スサノヲ(スサノオ)

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◆天皇、宮中三殿の祭祀と皇室の御祖先の祭祀

◆◇◆宮中三殿の祭祀

 宮中三殿で行われる最も大切なお祭りとしては、収穫の秋、新穀の初穂を捧げる新嘗祭、また神宮の神嘗祭(かんなめさい)に併せて賢所で行われる神嘗祭賢所の儀(かんなめさいけんしょのぎ)をあげることができる。

この他に五穀豊饒(ごこくほうじょう)を祈る祈年祭(きねんさい)、日本の国柄、建国の精神にかかわる祭りとしては、正月に行われる元始祭(げんしさい)がある。

 また皇室の御先祖をお祭りする一連の皇霊(こうれい)の祭祀として、初代神武天皇を祭る神武天皇祭(じんむてんのうさい、四月三日)、皇室の御先祖を併せ祭る春季(しゅんき)・秋季(しゅうき)の皇霊祭(こうれいさい、春分の日・秋分の日)、先帝を祭る昭和天皇祭(一月七日)、第二代緩靖天皇(すいぜいてんのう)から先帝以前四代に至る天皇の式年祭がある。

 さらに毎月一日、十一日、二十一日の十日ごとに三殿で旬祭(しゅんさい)が行われるが、毎月一日の旬祭では、陛下は欠かさず御拝(ぎょはい)を行われておられるとという。さらに侍従(じじゅう)が奉仕する毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)がある。

 こうした恒例の祭典の他に、国家にとって重要な出来事があるときには奉告祭が行われ、また御大婚(ごたいこん)、皇族の方々の御婚儀も賢所大前の儀(けんしょおおまえのぎ)として行われる。これらからも、一日として祭祀を欠かすことのない皇室の姿を見ることがでる。

◆◇◆皇室の御祖先の祭祀

 皇祖とは天照大神から初代の神武天皇までの御祖先で、 皇宗とは第二代天皇以降の歴代の天皇のことだ。 以下のように、皇室の御祖先の祭祀は年に七回行われる。

1月7日 昭和天皇祭 (大祭) 昭和天皇崩御日に行われる
1月30日 孝明天皇例祭(小祭) 孝明天皇崩御相当日に行われる
3月21日 春季皇霊祭 (大祭) 皇室の御祖先祭神殿では「春季神殿祭」が行われる
4月3日 神武天皇祭 (大祭) 神武天皇崩御相当日に行われる
7月30日 明治天皇例祭(小祭) 明治天皇崩御日に行われる
9月23日 秋季皇霊祭 (大祭) 皇室の御祖先祭神殿では「秋季神殿祭」が行われる
12月25日 大正天皇祭 (小祭) 大正天皇崩御日に行われる

 このように神武天皇と先の天皇のお祭りは大祭、それから三代前までの天皇のお祭りは小祭が行われる。

 また、それ以外の御祖先については年に二回、春と秋に「皇霊祭」が行われる。歴代天皇すべての天皇について個別に祭祀を行っていては、却っておろそかになってしまうかもしれないということで、このような形がとられている。

 これらのお祭りはすべて宮中三殿の中の皇霊殿で行われまる。また、神武天皇祭、孝明天皇例祭、明治天皇例祭、大正天皇祭、昭和天皇祭については墓所でも祭祀が行われる。


スサノヲ(スサノオ)
◆4月3日、神武天皇祭、神武東征説話

◆◇◆4月3日、神武天皇祭、神武東征伝承と神武天皇の実在性

 神武天皇祭は、初代神武天皇の祭る行事である。神武天皇は、「天照大御神の御教えを体し、さまざまの艱難を克服して日本の建国という事業を達成された天皇」として、明治七年(1874年)〜昭和二十三年(1948年)まで4月3日(旧暦3月11日、神武天皇崩御の日)を大祭日として行われた。

 当日、陛下は皇霊殿に出御され、神武天皇の御霊を祭られます。神武天皇祭の当日、大和の畝傍山(奈良県橿原市)の麓に鎮まる神武天皇の山陵「畝傍山東北陵(うねびうやまうしとらのせみのみささぎ)」にも勅使が遣わされ、厳粛な祭典が行われる。

 『記・紀』によると、神武天皇は東方の地に大和の国という最適の地があることを知り、軍勢を率いて九州地方から大和を目指して進出(東征)したと記す。

 数々の抵抗に遭いながらも、最後に畝傍山の東南の橿原の地に宮を築き、初代の天皇になったとする。神武天皇は、『記・紀』において神代と人代とを繋ぐ存在として、重要な位置にある。

 それは、大王(天皇)の地上支配権は、はるか神代から高天原(天上界)の意思を受けて、正統(正当)でかつ変えることのできない神聖なものとするところにあるのだ。

 神武天皇の実在については、多くの議論がなされてきたが、戦後は、とくに神武天皇の非実在論が盛んである。それと同時に、神武東征説話についても、実際の史実の記憶であるのかどうかについて、いろいろな学者の議論の的となってきた。

 この説話も後世になって作られた虚構の物語であるとする見方が有力となり、神武天皇の行動を天武天皇の壬申の乱による即位や応神・仁徳天皇の河内政権による大和進出、継体天皇の大和勢力がモデルとされたとする考えである(神武東征モデル説)。

 その他にも、神武東征説話には、その元になった出来事があったとする考えを唱える研究者もいる。古朝鮮の建国神話を模倣したとする「神武東征模倣説」、朝鮮半島を南下して倭(日本)に渡り、征服国家を作ったという「騎馬民族説」などもあり、九州の邪馬台国、奴国、投馬国、狗奴国などの弥生時代の小国家群の首長らの東遷説、すなわち「史実中核説、史実記憶説」を唱える学者や研究者も多くいる。

 また、考古学的な立場で、神武天皇を3世紀後半に推定して、大和に突如として巨大な前方後円墳が築造されたことや大和朝廷の三種の神器と関連づけて考える向きもある。

 それによると、前方後円墳の副葬品に刀剣・矛・鏡・玉・鉄があるが、こうした副葬品が前方後円墳以前には、おもに九州地方の弥生時代の墳墓の副葬品であったことから、こうした政治権力の象徴ともいうべきものが出土することから、九州地方から近畿地方に政治集団が移動した事実が存在したのではと推測するのである。

 しかし、これら東征の経路やエピソードの一つ一つを、史実とみなして考古学や文献から考察するするのではなく、この説話はあくまで史実とは無関係な説話と捉える見方もある。

 幾つかの異なった伝説的人物の伝承や説話を重ね合わせて一人物の東征説話にまとめあげたとする考えだ。この考えによると、南九州の日向からの日の御子と大和での即位は史実ではなく、現実に大和に根拠地とする朝廷と、本来隼人族の伝承であった日向の御子の伝承とを結びつけるために作られた説話で、古く3世紀にできたものではなく、宮廷神話が出来上がる過程で創作されたものとしている。


スサノヲ(スサノオ)

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