ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

◆日本の神話と古代史と日本文化コミュの◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(一)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(一)

 日本の年中行事の中で古来よりの祭りの色彩を最もよく残しているのが正月と盆である(日本人にとっては一年の大きな節目として冬至と夏至の二度あった)(※注1)。

 かつては数え年で、正月(※注2)になると日本人はみな一つ歳を取った。また、正月には万物万霊(森羅万象)の魂が新しく生まれ変わるとされた。

 それだけに正月の行事は種類も多く、心構えの上からも一年のうちで最も重視されてきたのである。(※注3)。 

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 「盆と正月が一緒にきたような」といわれるように、正月と盆はハレの行事の二つの代表になっていて、いつも対比してみられてきた。

 正月と盆とは不思議な対応と類似がみられる(年棚と精霊棚、門松と盆花とり、トンド焼きと迎え火・送り火、七日正月と七日盆など)。一年をきっちりと折半した形で、正月と盆とは半年を間において向かい合っているのである。

 盆が七月の十四日・十五日を中心にしているのに対して、正月も十四日・十五日は小正月とか望正月といっていろいろの重要な行事がここに集中してみられる。ちょうど半年を間にした満月の夜に盆も正月も盛んな行事があるのである。

 また正月朔日から大正月が始まるのに対して、盆のほうも七月一日を釜蓋朔日といって、地獄の釜の蓋が開いて、精霊たちがこの世に旅立ちをする日だといわれるし、この日に盆の路作りを始める地方もあり、盆も一日から始まるのである。

 ただこの二つを同質同性格のものとするにはなお問題が残る。正月は季節の転換の祭り、農耕予祝の祭り、さらに祖霊の祭りといった総合的な性格を持っているのに対して、盆は祖霊・精霊の祭りが中心で性格は正月に比べ単純である。

(※注2) 正月は元々、年の初めにあって歳神の来臨を仰ぎ、その年の五穀豊穣を祈る、地域ぐるみの祭りであった。このために歳神の依り代として門松を立て、また不浄なものの侵入を防ぐために注連縄を張る。

 さらに古風には、歳神を祀る年棚に御神酒や重ね餅を供えて灯明を点る。他方で、正月は祖先の霊が帰ってくる日でもあるので、この祖先の霊を迎えて祀る日とも考えられている。すなわち祖霊は年に二回、正月と盆に帰ってくるものとされていたのである。

 しかし盆の方が仏教と強く結び付いたのに対して、正月の方は神道と結び付いたが、その神道も中世以降死の穢れのない清らかな祭りを強調するようになっていったため、正月が持つ祖先祭り(祖霊祭り、御魂祭り)の性格は極めて希薄なものとなっていった(西日本で今も残っている墓参り的風習は、その名残のようである。

(※注3) 日本人の「祖先崇拝」の中で、古代から最も重視されているのが「御魂祭り(祖霊祭り)」、すなわち「ご先祖様の祭り」である。

 正月と七月の年二回、古くから収穫後の収納を完了した段階で祖霊を迎え、正月は米の、七月は麦の大規模な祭りを行っていた。

 仏教伝来後、日本に伝統的にあった七月の御魂祭りは、仏教の「ウラバンナ(盂蘭盆)」と一緒になって、今日の盆になる。 正月行事も本来は、鏡餅に象徴されるように穀霊の祭りであるとともに、祖霊に供物を供える祭りであったのである。

 また、春秋の彼岸も、本来は日本固有の祖霊祭りであった。日本人は、春秋二回の昼夜の長さが同じこの日、古くから御魂祭りを行っていた。

 この春秋の御魂祭りには、祖霊のいる「常世の国」から、子孫がいる「この世」へ、祖霊が訪れると考えられていたのである。 仏教が伝来後の日本人の他界観は、海上の彼方の「常世の国」から、やがて阿弥陀如来のおわす「西方浄土」へと変わって行く。

 このように日本人の古代聖俗観(宗教観、日本人の基層の世界観)とは、大自然とともに生き、その大自然に抱かれた魂の循環と再生のシステムへの素朴な信仰であることがわかる。


スサノヲ(スサノオ)

コメント(7)

◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(二)

 家々に新しい魂を授けに来てくれるのが歳神(年神=としがみ、正月様、歳徳神、若歳神、御歳神、大歳御祖神)(※注1)である。歳神(年神)とは穀霊神(農耕神)であり、また祖先の魂(祖先の霊)と考えられていた。

 「トシ」(※注2)というのは一年のことであり、苗作りから稲刈りまでの一周期も意味している。米を「トシ」ということもあった(「イネ」そのものの意味もあった)(※注3)。

 つまり「トシダマ(歳魂)」は、トシ=米を作るのに不可欠な霊力でもあったのである。歳神(年神)はその年の新しい「トシダマ(歳魂)」を持ってきてくれる神様であったのだ。その「トシダマ(歳魂)」の象徴が米であり、餅であり、握り飯であったと考えられている。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 歳神(年神)は「大歳神(大年神)」「御年神(御年神)」とされている。『古事記』では、「大歳神(大年神)」はスサノヲ命(須佐之男命・素盞鳴尊)の子神で母神はカムオオイチヒメ(神大市比売)とし、「御年神(御年神)」は「大歳神(大年神)」の子神で母神はカヨヒメ(香用比売)としている。

 しかし、この神は同一の神とも考えられ、穀物霊や稲魂を神格化した農耕神だあったようで、五穀豊穣の守護神であった。「年」は「稔」と同音で、稲が発芽し生育し穂を稔らせて一巡する期間が一つの「稔」とされ、これを一年としたという。

 『古事記』が「大歳神(大年神)」を、穀霊神であるウカノミタマ(宇加之御魂)神の兄弟神としているのもこのためである。

(※注2) 『万葉集』には、稲がよく実るの意味で「年=としは栄える」という表現がありますし、「年得(としう)」という言葉にも稲(穀物)がよく実って豊作であるという意味として用いられる。

 この「トシ」の神が「歳神」「年神」「歳徳神(としとくじん)」などと呼ばれる神で、元は歳月の神というより「稲の神」「豊作の神」、いわゆる「穀霊神」であった。

 他方、藤原兼輔の『後撰集』(平安時代)には「妻のみまかりての年の師走の晦の日、ふること言い侍りけるに、亡き人の共にし帰る年ならば、暮れ行く今日は嬉しからまし」とあるように、正月が御魂祭りの風習を持っていたことも窺わせる。

(※注3) 物みなすべて(万物万霊、森羅万象)に魂が宿っているというのが日本人の信仰の基本であった。そして「魂」という名の生命エネルギーは、時が経つと衰えてしまうと考えられていた。

 こうしたことから、日本人は一年の節目節目に祭りを行ってきたのである。祭りによって神の威力を更新し、人間の魂も新しくすることができると考えられていたからである。正月祭りもこうした意味により執り行われる年中行事であったのだ。

 また、歳神(年神)が山にいる期間は万物がひそかに忌み籠もる期間とされ、命の再生を待つ期間と考えられていた。そこでこの期間のことを、古代の日本人はフユ(冬)と呼ぶようになった(フユとは「御魂の殖(ふ)ゆ」の「殖(ふ)ゆ」であり、じっと辛抱して忌み籠もる間に、新たな生命が殖ゆる期間を意味した。そこで冬には、死にかけた太陽を復活させるための、様々な太陽祭祀が行われた。鎮魂祭も元来、この「御魂の殖(ふ)ゆ」の祭りであり、日神の御子である天皇の霊力の賦活をはかる儀礼であったのである)。

 冬至(冬至期こそが太古の正月であった。太陽の死と再生の時期)を過ぎると死にかけた太陽は徐々に復活する。すると山に帰っていた歳神(年神)が里に降りて来て、春(「ハル」は「ハレ」であり、木の芽が一斉に「張(は)る」季節であり、新たな生命が瑞々しく胎動し始める季節であったのです)が訪れると考えたのである。

 この歳神(年神)を迎えて、新年の豊作を願い、祖霊祭り(御魂祭り)を行うのが、正月の様々な祭りであったのだ。


スサノヲ (スサノオ)
◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(三)

 正月元旦の前日、つまり大晦日の夜を除夜という。実は古くから、この除夜から元旦(元旦の「旦」は地平線に日が昇った状態を表した文字なので、元旦は元日の朝あるいは午前中を意味し、歳朝=さいちょう、大旦=おおあしたとも呼んだ)にかけては寝てはいけないといわれてきた。

 なぜなら、正子(しょうし、夜の十二時)を過ぎたら、村の鎮守に参詣して実り豊かな新年を祈願するのが慣わしであったからである。

 それが、共同体や神社の発展とともに、初詣という「行事」として根付き、今日に至っているようである。(※注1・2・3)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 正月の準備は十二月から始まる。「煤払い」や「門松迎え」「餅搗き」「年神棚」を設えたり、「おせち料理」の下ごしらえをするなど様々な準備をして年越しの夜を迎える。これが大晦日である。

 古くは日が暮れるのが一日の終わりと考えられていたので、正月の歳神(年神)祭りは大晦日の夕刻から始まるとされていた。

 身体を洗い清め、年神への供物をし、家族揃ってお節料理を食し、寝ることを忌しんで歳神(年神)を迎え神人交歓するのある。

 早朝には年男が汲んだ「若水」で洗顔したり、またお茶を入れ、雑煮を作って飲食し新たな年を祝う。また歳神(年神)に供えた餅の一部を年長者から家族に分配する。

 これが「年玉」であり、神の霊が籠もっているという。そして皆そろって一つ年を重ねるとされた。古くはこうして囲炉裏を囲んで家族揃ってお正月を迎えたのである。

(※注2) 大晦日は十二月の晦日のことで、一年の最後にあたるため大晦日と呼ばれている。「年越し」「年取り」「大年」「大つごもり」「おもっせい」とも呼ばれている。

 年越しのための様々な行事が各地で行われる。大晦日の食事は地域によって様々な伝承があり、この日の夜の食事が特別なものとされていたことが窺える。

 魚を用いた食事が多いようである。そばやうどんを食べる習慣は各地で見られ、 「年越しそば」とか「晦(つごもり)そば」と呼ばれている。そばには長いものを食べると長命になるという縁起担ぎの意もこめられている。

 また除夜は「除歳」「除夕」とも呼ばれる。旧年を除く意味で、大晦日の夜のことをいう。歳神(年神)を迎えるため、夜を徹する風習もある。

 寺では、百八つの除夜の鐘が撞かれる。「百八つ」は人間の煩悩の数だとされ、除夜の鐘はこの煩悩を消し去るのだそうだ。しんと静まり返った夜半に響く鐘の音は、来る年への新たな決意とともに、身のひきしまる思いがする。

(※注3) 初詣は除夜の鐘が鳴り終わってから元日に土地の氏神や神社仏閣に参詣することをいうが、元日に限らず松の内に年が明けてからはじめて参詣することをいう場合もある。 

 古くは一日の終わりが日没と考えられていたので、一年の終わりは大晦日の日没とされていた。大晦日の夜に社殿で徹夜をすることが各地でみられ、これを「年篭り」という。

 今日では一日の区切りは夜中の零時になり、そのため大晦日の夜に詣でる「除夜詣」と、年が改まって元日に詣でる「初詣」とが区別されるようになった。

 除夜に参詣してのち一度家に帰り、元旦になって再び参詣したり、大晦日の夜から元日になるまで神社にいることを「二年参り」と呼ぶところもあるそうだ。

 また若水とは元日の早朝にその年初めて汲む水のことで、「初水」「福水」とも呼ばれている。歳神(年神)に供え、正月の食事の支度や、洗顔にも用いる。

 若水を汲むことを「若水迎え」「若水汲み」といい、水道が普及するまでは各地で正月の儀礼の一つとして行われていた。 若水を汲むのは年男の役目とする所が多く、水を汲む場所は掘り井戸だが、井戸が掘られる前は川や泉であった。


スサノヲ (スサノオ)
◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(四)

 正月というのは、元々は年の初めにあって神の来臨を仰ぎ、その年の五穀豊穣を祈る、地域ぐるみの「祭りの場」であった。人々にとっては実り豊かな一年であるかどうかは死活問題であっただけに、神の来臨を仰ぎ祭る、初詣の祈願は欠かせなかったのである。

 しかし今日では、人々は新年の無病息災などを祈願するために参詣するようになる。「♪年の初めの ためしとて 終なき世の めでたさを 松、竹たてて 門ごとに 祝(いお)う今日こそ 楽しけれ ♪初日の光 さしいでて 四方に輝く 今朝の空 君が御影に 比(たぐ)えつつ つぎ見るこそ 尊とけれ」(※注1・2)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 一年のはじまりの日、つまり元日の朝、元旦は「明けましておめでとうございます」という挨拶とともにはじまるが、いったい何がめでたいというのであろうか? 

 それは、元日とはそもそも正月の満月の夜に、歳神(年神)をお迎えして、旧(昨)年の無事と豊作を感謝し、今年も同様であることを祈る日であったからである。

 また、「年の初めのためしとて、終わりなき世のめでたさを・・・」という正月の歌がある。「ためし」は験しで、修験の験、効験の験である。「めでたさ」の「めでたい」は古語では「愛でたし」で、何かを称えたい、何か特別なことを褒めたいという格別の気分を表している。この正月の歌では「世(現在の世)」がめでたいと歌い上げる。それがいつのまにか正月挨拶の「お目出とう」になったという。つまり目が出るわけではなく、芽が出るのである。

 中国ではめでたさのことを「福」といって、一陽来福を祝う。もともとは冬至の祝福であったものが、やがて春節(旧暦正月)を迎える行事に吸収されて行く。いずれにしても「めでたさ」は季節の節目に際し、宇宙や世界の秩序が更新され、自然の年齢も更新された新年の「世(現在の世)」を祝福する言葉であったのである。


 本来旧暦の正月十五日がこの日にあたり、明治六年まで使われていた太陰太陽暦(天保暦)の名残である。この暦制が太陽暦(グレゴリオ暦)に取って代わっても、この日に行なわれていた行事やしきたりは「小正月」として伝承され、左義長、どんど焼き、なまはげなどのさまざまな行事が今でも各地で催されている。

(※注2) 正月とは一年の一番初めの月のことをいうが、一般には年初の諸行事のことを指す。一月を正月と呼ぶのは「正」が年の初め、年の改まる意味であることに由来する。

 また稲が実って一巡する期間をを「年」という(「稔(とし)」が豊穣を祈願する意味に通じることからである。古くは正月は「ウラバンナ(盂蘭盆)」と対応するもので、半年ごとに祖霊を祀る大きな年中行事とされていた。

 正月に迎える歳神(年神)は大きく分けて二つの性格を合わせ持っている。一つは豊作をもたらすの「田の神」の性格、もう一つは各家の「祖先の霊、祖霊」的性格である。

 また正月の行事は地域によって違いがあり、元旦を中心とした「大正月」と、一月十四日・十五日を中心とした「小正月」に集中している。旧暦では正月(旧正月)を立春の頃としていたので、その始めを新月の朔日である大正月と満月の望の日の小正月とする二通りがあった訳である。

 大正月には歳神(年神)や祖霊を迎える性格の行事が多く、小正月には五穀豊穣を願う農耕の予祝的行事が多く見られる。農業を営む人々にとって、太陽の運行と同時に月の満ち欠けも大切なもので、古くより予祝儀礼を年初の満月の日に行うことがなされていた。

 新暦(太陽暦)採用後は満月と小正月の十四日・十五日が一致しなくなった為に、農家では小正月の意味がだんだんと薄れていってしまったようだ。現在一般に正月といえば大正月のことを指すが、小正月を祝う風習が今でも盛んに行われている。


スサノヲ (スサノオ)
◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(五)

 正月には新年を迎える、つまり歳神(年神)を迎えるために家々ですることがある。神棚に新しい護符を祀り、歳神(年神)降臨の依り代として門松を立て、家の入り口には聖と俗を分かつ注連縄を張る。

 これすべて、神を迎えるために必要な手続きである。新しい護符を祀るのは、新しい年の新たな加護を受けるためである。護符とは、神社の社名や神名、祈祷の文などが書き込まれたお守りのことで、神札ともいう。(※注1・2・3・4)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)門松とは、正月に家の門口に立てる松のことである。「松飾り」「門の松」ともいう。 古くから門松は歳神(年神)の依代(一種の神籬)と考えられていた。

 門松の形態と材料は地域によって様々で、興味深いものがある。門松の常緑の松は強い生命力の象徴であり、不老長寿の象徴である。

 地方によっては松に代わって榊、竹、椿などを用いることもあるそうだが、いずれも常緑という点で「長寿の象徴」ということに代わりはないようである。

 門松は年末に飾り、歳神を迎え正月六日(または七日あるいは十五日)にこれを外すことから、この日までを松の内という。また餅同様、正月に松飾りを用いない所もある。 飾り方も幾通りもありますが、年末のうちに飾り付けを済ますのが通例である。

(※注2) 注連飾りとは、正月などに、家屋の入り口、門松、床の間や柱につける飾りのことである。 もとは一本の縄であったものが多様化し、装飾的になり、現在見られる様な形となった。

 注連飾りは、「輪飾り」「大根じめ」「牛蒡しめ」など、また注連縄につけるものとしては、裏白(常緑の歯朶:しだで、歯は年齢、 朶は枝の意。葉の裏が白いことから白髪になるまでという長寿の願いが込められている)、橙(代々:代々家が続くという縁起物)、譲り葉(ゆずり葉:その名は新しい葉が出てから古い葉が落ちるとこに由来する。家督を親から子へ譲り、代々続くことを願う気持ちが込められている。親子草とも)が一般的であるが、地域によって様々である。

  注連縄は本来、内と外とを分け、災い、不浄なものの進入を防ぐ結界として神社などの聖域に張り巡らされるために用いられてきたものである。

(※注3) お年玉は、「歳神(年神)からの賜物」「歳の魂」という意味がある。鹿児島県・甑島では「トシダマ」という丸い餅を子供に配る風習がある。また出雲地方では歳神(年神)が大晦日に「トシダマ」を配ると伝えられている。

 他にも多くの地方で、「みたまの飯」といって、握り飯や少しずつ取り分けたご飯に、一年の月の数か、家族の人数分の箸を立てて、歳神(年神)や仏壇に供える行事が広く行われている(「御魂の飯」といい、祖霊を祀る御魂祭りの名残り)。

 その歳神(年神)の依り代として立てるのが門松である(松だけではなく常緑樹を使う場合も多いようだ。松は歳神を待つに通じることや、神土待つ=かどまつ=歳神・年神がこの地に降り立たれるのを待つという意味があるそうである)。

 正月には「正月棚」「年棚」と呼ぶ歳神(年神)用の祭壇を設ける。床の間に鏡餅や正月飾りを供える。床の間とは本来、家にお迎えした歳神(年神)の「神の座」なのである。

(※注4) 年始とは「年賀」「年礼」ともいい、親戚や知人宅などへ新年の挨拶に廻る慣わしのことをいう。元々は、分家が本家に集まり、大晦日から元日にかけて夜を徹して行われた儀式で一族の結束を確認しあう意味があったとされている。

 のちに年始の先は血縁だけではなくなって行き、新年に知人やお世話になっている人の家へ年頭の挨拶に出向く形をとるようになった。 現在通例となっている年賀状はこの年始の挨拶が変化したものである。また初夢とは新年最初に見る夢のことである。

 古くは立春正月の概念から、初夢は節分の夜から立春の朝にかけて見る夢とされていた。今日では、一般には元日の夜から一月二日の明け方にかけてに見る夢を初夢と呼ぶのが通例となっているようである。昔の人は今日よりも夢見を気にし、良い夢を見ようと七福神や宝物をのせた宝船の絵を枕の下に敷いて寝る慣わしがあった。


スサノヲ (スサノオ)
◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(六)

 床の間に鏡餅を飾るのは、神への供物の意味がある。また、お屠蘇は不老長寿の薬効があるとされる薬草を調合した、屠蘇散を浸した薬酒である。

 雑煮には地方によって様々なパターンがありますが、必ず入っているのが餅である。鏡餅もそうですが、新年に迎える歳神(年神)の魂を示すと考えることもある。それは神に供えたお下がりを貰うという気持ちから来ている。

 正月の注連飾りに伊勢海老や橙、昆布を飾り立てるのは食物の豊作を祈念してのことである。(※注1・2・3)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 鏡餅とは、神供用の丸くて平たい餅のことで、「お供え」「お鏡」とも呼ばれている。もともと歳神(年神、大晦日に訪れた歳神は、人々に新たな生命力・福をもたらします。この生命力・福を「魂」といい、歳神によって与えられる魂なので「歳魂(としだま)」といいます)に供える餅(歳魂を具現化したものが丸い餅です)のことをいう。 昔から神仏の祭りには餅を供える慣わしが広くみられた。

 「鏡餅」という名は、鏡の形に由来する。古く、鏡は神の依るところと考えられ、神事に使われ宗教的な意味合いの濃いものであった。今日でも、神社の祭事には薄い鏡状の丸餅を供える所があるそうだ。

 鏡餅を供える場所は、床の間や神棚、仏壇、年棚といった所から、近年では住宅事情により多様化してきている。この鏡餅(神棚に祭った丸餅が始まり)から、歳神の霊力(歳魂)を得て、これを家人一人一人に分け与えて食し、霊力を体に取り込むという考たのだ。これが本来の「お年玉」とされてる。

 また、鏡餅の飾り方は、 三方(さんぽう)に奉書紙(四方紅)を垂らして敷き、譲り葉(後の世代まで長く福を譲る)と裏白(長命を表す)を載せ大小二つの鏡餅を重ね、その上に橙(家系が代々繁栄する)の他、串柿(幸福をしっかり取り込む)、昆布(よろこんぶの意味)、四手(御幣)、海老(えびの中でも最も立派なもの、腰が曲がるほど長寿を願う意味)、扇(末広)などを飾ったものが一般には知られているが、飾り方も地域や家によって違いがある。

(※注2)このような形(様式)になったのは室町以降といわれています。建築様式が寝殿づくりから書院づくりへ移り、床の間が設けられる様になり、床飾りとして広まったと考えられます。武家社会では武家餅(具足餅)といって、鎧兜などの具足をしつらい、その前に鏡餅を供えて家の繁栄を願うところも多くあった様です。また供えた餅を下げる日を鏡開きといいます。 一月十一日に行う所が多く「鏡あげ」「オカザリコワシ」とも呼ばれており、餅を叩き割って雑煮や雑炊にして食します(鏡餅は包丁で切ってはならず、手や鎚で割って小さくするのがしきたりです。これは「切る」は縁起が悪いからということで、そのため「開く」ということばを使います)。正月に鏡餅を供えることは一般化されていますが、地域によっては、正月の儀礼食に餅を用いず、芋や麺類を用いている所も少なくありません。

(※注3) お屠蘇とは正月に飲む、屠蘇散を浸した酒または味醂のことをいい、「屠蘇延命散」とも呼ぶ。一年の邪気を祓う祝い酒のことである。

 「屠」は退治する(邪気を払い寿命を延ばすといういわれがあり)という意味を、「蘇」は病を起こす厄神の意味があるという。「一人これを飲めば一家病無く、一家これを飲めば一里病無し」などといわれ、正月には一年の無病息災を願った。

 山椒、桔梗、肉桂、白朮、防風などを調合して紅絹袋に入れ、酒か味醂に浸す。古くから、「屠蘇祝う」と称して元日にはこれを一家の若い者から順に大中小三種の盃で頂き、無病息災を祈った。

 正月に屠蘇を飲むことは、中国の唐代まで遡る。 日本へは平安初期の嵯峨天皇の弘仁年間(八一〇〜八二四年)に伝えられ、宮中で用いられました。元日から三日間御薬を天皇に献じ、一献は屠蘇、二献は白散(白朮、桔梗、細辛を調合して温酒で飲む)、三献は度嶂散(麻黄、山椒、白朮、桔梗、細辛、乾薑、防風、肉桂を調合したもの)を入れたもので、「御薬を供ず」という。

 また、平安時代の貴族は屠蘇、白散のいずれかを、室町時代では白散を、江戸時代の徳川幕府では屠蘇を用いていたようだ。この風習はやがて庶民にも広まる。

 明治末頃は、年末になると薬種屋の店頭には延寿屠蘇散と書かれたビラが下がったそうだ。現在の屠蘇はかつての処方とは異なり、だいぶ飲みやすくなっている。


スサノヲ (スサノオ)
◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(七)

 「お節(おせち)」とは節日に用いられる料理のことで、「御節供(おせっく)」の略のことである。季節の節目に神に供えるものということで「節供」ともいう(今は節句と書くことが多いようだが、本来は節供です)が、 節日のうち特に正月の食事のことを指す。

 歳神(年神、五穀を司り家と家族に福運をもたらす神)を迎える正月は家族が一同に会し、供物の一部を分かち食する「直会」を行い新年を祝った。また、お節料理は三が日あるいは松の内までに大切な人を招いてもてなす料理でもあり、この饗応自体を「お節」あるいは、「お節振舞」といったそうだ。

 本来の意味からすると雑煮や屠蘇もお節料理の一種とも考えられる。現在、一般的にお節料理と言えば重箱に盛られた重詰めの料理のことをいうが、 お節料理は、それぞれに目出度い謂われがあり、目出度い材料を用いた「ハレ(晴れ)の料理」であり、地域によっても様々である。

 さらに、火を使わないで食べることの出来る料理でもあり、年中忙しい竈の神様と女性を休めるための料理ともいわれている。また、一月七日の朝には七草粥の風習がある。(※注1・2・3・4)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 昔は正月だけでなく、五節旬(一月七日・人日、三月三日・上巳、五月五日・端午、七月七日・七夕、九月九日・重陽)などの節旬の日に神様へお供えし、神事のあとの酒宴で一緒に食べたすべてのごちそうをお節(おせち)といっていた。

 正月にお節料理を食べるのは、神に供えたごちそうをみんなでいただくという意味と、神様を迎える正月に台所仕事をしてさわがしくしないという意味と、日ごろ忙しい主婦を三が日間休ませるための保存食であるといわれている。

(※注2) お節料理の一般的な重詰めは、*一の重(口取り)きんとん、かまぼこ、伊達巻き *二の重(焼き物)小鯛の塩焼き、ぶりの照焼き、鶏肉の松風焼 *三の重(煮物類)八つ頭、牛蒡、人参などの煮染め、昆布巻 *与(四)の重(酢の物)紅白なます、菊花かぶ *祝い肴(三つ肴・・・一の重に詰めるか、別の器に盛る)数の子、田作り、黒豆 ※祝い肴は明治初期まで「喰積」と呼ばれていた。

 当時は現在の煮物類をおせちと呼び、祝い肴を喰積(くいつみ)と呼んで重詰めにしていたようである。 江戸幕末の頃、江戸・京都・大坂では正月に蓬莱を飾り、江戸においてはこれを喰積と呼んでいた。

 三方の中央に松・竹・梅を置き、まわりに白米を敷き詰めます。その上に橙一つ、柑橘類、搗栗、ほんだわら、串柿、昆布、伊勢海老などを積み、さらに裏白、ゆずり葉などを置いたもので、京都と大阪では床の間に飾り、江戸では年賀の客にすすめたそうだ。

(※注3) お雑煮は 正月の祝いの食物である。一説に、もとは大晦日の夜に歳神(年神)に供えたものを、元日の朝に下ろし、汁で煮、歳神(年神)と人が一緒のものを食べる「直会(なおらい)」といわれている。

 雑煮で正月を祝うようになったのは室町時代といわれている。雑煮は、餅が臓腑を保養するところから「保臓(ほうぞう)」といい、本字は烹雑で、烹は煮と同じであるから雑煮になったそうだ。

 雑煮は地域によって色々な料理法がある。だしや具ひとつとってみても、実に様々だ。また、雑煮に餅を入れる地域は多くあるが、例えば香川県では、 餅の代用としてカンノメ(カンノメとは粳米八割、糯米二割をひいて小判型の団子にしたもの) と呼ばれるものを入れる。また元旦に餅を食べることを忌む餅なし正月の伝承も各地に残っている。

(※注4) 七草粥の風習は、一月七日の朝に七種の菜(芹=せり・薺=なずな・御形=ごぎょう・はこべら・仏の座=ほとけのざ・菘=すずな・すずしろ の春の七草 )の入った粥を食べる習わしのことをいう。

 現在でも全国的に行われている七日正月の行事で、邪気を祓うとされている。また、七草には様々な薬効があるといわれている。

 古くは子(ね)の日の遊びともいわれ、平安時代には正月最初の子の日に野に出て若菜をつむ風習があった。『延喜式』に見られる七種粥と、若菜摘みの古俗と、中国の人日(じんじつ)の行事が合わさり、七草粥になったのであろうといわれている。

 七草粥の習わしは江戸時代まではかなりに盛んに行われていた様だが、幕末頃の民間では七種のうち1、2種の菜を入れるだけだったとか。 今日でも 七草の種類は地域によって違いがあり、七種に限らない所もある。


スサノヲ (スサノオ)
◆宮中の行事、皇室の祭祀、新年

(一)※皇室祭祀

 明治十四年に制定された「皇室祭祀令」に基づいて行われる。大祭と小祭に分けられ、大祭は天皇自らが行い、小祭は掌典長(しょうてんちょう)(天皇家の私的内廷組織)が指揮する。天皇はそれに拝礼する形をとる。

 皇室祭祀は、主として吹上御苑(ふきあげぎょえん)にある宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で行われるが、先帝を祀る山稜でも行われる。戦前は、こうした祭祀には総理大臣はじめ多くの参列者があったが、昭和二十年の「政教分離」により、今では天皇家の私的行事の色彩が濃くなっていく。

(二)※歳旦祭(さいたんさい)

 年始の小祭。元旦早朝に「四方拝(しほうはい)」(伊勢神宮、山稜および四方の神々を遥拝する新年最初の祭)の後、五時半から、宮中三殿で掌典長(しょうてんちょう)(天皇家の私的内廷組織)が天皇の代理として五穀豊穣と国民の加護を祈る。

(三)※元始祭(げんしさい)

 一月三日、年始にあたり皇統の祖と由来を祝い、国家と国民の繁栄を宮中三殿で祝う大祭である。天皇が拝礼し告文(つげぶみ)を奏す。このとき、皇族、宮内庁長官も列席する。


スサノヲ (スサノオ)

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

◆日本の神話と古代史と日本文化 更新情報

◆日本の神話と古代史と日本文化のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング