ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

平等・平和は当たり前じゃない!コミュの雑談

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
トピ立てするまでもないような話題。その他の雑談はここでお願いします。

コメント(6)

http://mixi.jp/view_community.pl?id=4707098

新年早々、チキンマックナゲットを買うことができなかった女性に店員が殴られたというニュースが伝えられた米マクドナルド。しかし、こうした事件はこの一件に限らず、昨年末にも別の店舗でカウンター内に水をまかれた事件があり、米メディアで大きく報道されている。

米地方紙カンザスシティ・スターによると、事件が起きたのは昨年12月27日、ミズーリ州カンザスシティにあるマクドナルドでのこと。きっかけは購入したハンバーガーに女が不満を示したことだった。

同紙には当時の様子を映した防犯カメラ映像(音声なし)が掲載されており、この動画で事件の一部始終を確認することができる。まず、腕を組みながらレジカウンター越しに店員へ不満をぶつけている女の様子が映し出されているが、カウンターに手をついて身を乗り出し始めるなど、徐々にヒートアップ。このとき「代わりのハンバーガーを用意する」との説明を行っていたそうだが、女は返金を要求、店員はそれを拒否していた。

そうしたやり取りから約7分後、カウンターで子どもたちが注文をしていたところに、女はバケツを持って接近。バケツもろとも、中に入っていた水をカウンター内にぶちまけた。さらに両手で頭を掻きながら、左右にウロウロとして怒りを抑えられない女は、カウンター上の物も次々と中へ放り投げ始め、大声で何か文句を言っている様子。ほかの客を気にする素振りもなく、辺りの物を投げ込むと、カウンターに並ぶレジまでも次々と下に落とした。

その後、警察への通報に気付いた女はそのまま逃走。現在もまだ逮捕には至っていないようで、同紙は情報提供を呼びかけている。

この話題を伝えた記事には180件を超えるコメントが寄せられ、「将来、彼女に出くわす人はみんな恐怖を感じる」「子どもの前でこんな行動取るなんて」と、女の行動への非難は多い。しかしその一方で「すぐにお金返せばよかったのに」と、店側の対応に疑問の声も挙がっている。

米放送局WTOLでは、マクドナルドで立て続けに起きた似たような事件を受けて、カウンセラーに背景の分析を依頼。カウンセラーは「客の中には、自分は他人から尊重されるべきと信じている人がいて、こうした行動は稀ではない」と話し、「この“されるべき”という考えが、感情の爆発の引き金をひいている」という。また、思い通りに行かない時に、感情に任せた行動に移るこうした人たちに対しては「“されるべき”ではなく、“こうしたい”と言葉で伝え、少し間を取って考える」ことが必要とアドバイスしている。

---------------------------------コピペここまで-----------------------------------

『○○されるべき…』って考えの人って最悪だ。

彼女として○○されるべき。客として○○されるべき。
知るかーーーー!!! って話だ。

客だから、彼女だから、女だから、子供だから、反撃を受けないだろうという変な安心感がダメなのかもしれない。

彼女だろうが、客だろうが、ガンと叱ってやればいい。
似た事を先日の日記でも書いたのでコピペします。
(参照:http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1382500057&owner_id=1512719)

小さい子どもを叩くしつけも必要? 米調査で「良い子に育つ割合が高い」。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1068741&media_id=84



相手に理解してもらう為に叩くのは暴力ではない。ただし完全に意思の疎通がとれない状態で叩いてもいい事は一つもないし、大きな怪我をする程の力を加えるのは全く以って論外だ。

痛みを知るという行為は、他人に痛みを与えたくないという感情を植えつけると思うので、怒鳴るよりは殴った方が感情がストレートに伝わる場合もあると思うのだが、これは子供の教育とは別の次元の話のような気がするので今回はこれについては書かない。

子供の躾という点では、感情まかせに叩く行為もあまり良くないと思う。『叩くまで怒らせてしまうなんて私はなんて悪い事をしたのだろう』とまで考えられる理解がある子供は稀で、『自分をストレス発散のハケグチに使いやがって』と取る場合がほとんどだと思うからだ。

『ダメだという事を口で言えば分かる。叩くなんて野蛮な行為だ。』などと、何も考えずにそれが当然の正論だと考える人間は、アンチ暴力思考で単にそういう行為が嫌いだというだけで正論でもなんでもない。

嫌煙家が喫煙家をボロクソにいうのと少し似ている。世間的に叩くという行為がダメだとされているのでその大義名分を盾に自分の思想を正当だと信じ込んでいるに過ぎない。

私はよく親父や教師や警察にかなり強く殴られた。今なら責任問題、裁判沙汰じゃないかな。しかし、それがダメな行為だったとは思わない。それによって私は忍耐力、正義感、自主性、協調性、判断力が飛躍的に増したと思っている。

叩くのが良いのではなく、『絶対に叩かれないという安心感』がダメなのだろう。
平和ボケした日本と一緒だ。

法律で守られ、権利を主張し、自分自身で何かをやろうとしない。
当然、誰かがやってくれると思っている。問題をすべて他人のせいにするような人間を作ってしまう。

スーパーで買い物をしたら魚が腐っていた。当然、そんな物を売る店は悪いが、確認して買わなかった自分だって悪い。それを店側が反抗できないのを知っていて怒鳴り散らすようなバカは死んだ方がいい。抵抗できないと完全に分かっている人間を、向こうが悪いからといって殴っているのに等しい。自分が正しいとアピールしながら人をイジメているに過ぎない。

正当なら人をイジめてもいい? 法律違反じゃないからやっていい?
言わゆるクレーマーというのは『不当にイジメるヤツはバカだなぁ、正当に人をイジメる方法があるのに…シシシ(糞藁』とでも思っているのだろうか。

違うだろう。自分の心にあるブレない道徳が一番大事じゃないか?

怒ったり怒鳴ったりして何の解決になる? 店側が怒鳴られては困るから特別なサービスしてもらえる? それとも単なるストレス発散? 本当に心の病気としか言いようがない。

本当だったら店側は、怒鳴ったりする客の行為に対して、自社の失敗を謝罪すると同時に『怒鳴ったりして恥かしくはないですか?』と客を戒めるくらいでよいと思う。しかしそれをすると店が繁盛しないかもしれないから怖くてできないのだが、そんな社会は腐っている。

今すぐにこういう風潮は改善するべきだ。

モンスターカスタマーとかモンスターペアレンツとかは一種の病気だ。
法律や権利に過保護にされた人間がかかる病気だ。

『絶対に叩かれないという保証』は、こういう病気を生む可能性が高い。
もっと暴力というモノの本質を勉強する必要があると思う。

世間から個人を守る事は大事。国家が安全を守る事も大事。
しかし『絶対に○○されない安心感』というのは余程強い心を持っていないと自己責任が取れない人間を作ってしまう可能性が高い。
『日本に生まれてよかった』 とか 『日本ナメんなよ!』

などと思っている人も少なくないとは思うが

「最近の日本って変だよね…。」 「政治家全員死ねばいいのに…。」
「なんかムカつくヤツ多すぎ…。」 「こんな国、滅びなきゃみんな分からないよ…。」

などと思っている人が多いと思う。

私は自国に誇りを持っている事がよい事なのかどうか最近になって分からなくなってきた。
自尊心は生きている意味を強く持たせてくれるが、争いを生みやすい傾向がある。
プライドや生き様の誇りは生きる意味を教えてくれるが、喧嘩をする機会が増える場合が多い。
宗教にしても然り、他を許さない一神教であるから他宗教と戦争になる。

地球上の人間が自星(地球)を誇りに思えば、争いは起きないのではないか?
それとも人間は比較する対象物がないと誇りに思えないのだろうか?

自星を誇りに思う気持ちというモノも、地球外生命体が発見された時は、やはり星同士でスペースウォーズが繰り広げられてしまうかもしれないからダメな思想なのか…。

国を形成するモノ、それは 『国民』 『言語』 『宗教』 『自治』 だと思う。しかし大きな文明国ではめずらしく日本にはきちんとした宗教がない。歴史的に見ればアメリカに負けた時点でキリスト教国家にされていておかしくないのに、なぜアメリカはそうしなかったのだろうか。
いやむしろアメリカのジャパン州にしなかった理由は何だろうかとも不思議に思う。



今回はその宗教や神について考えてみる事にする。

「こんな国、滅びなきゃみんな分からないよ…。」という発想は今に始まったモノではないかもしれない。

旧約聖書のノアの箱舟などのように神が人間を選別して新しい世界を創造するシーンがあるが、この事実は人が何千年の昔より、人々がこういう願望を持ち続けているという事を示しているのではないだろうか。

すでに人は数千年の昔より自分が神となって悪事を働く悪い思想の者を一掃したいと願ってきたのだろう。 こんな事を書いたらブッ殺されかねないが、民衆のその心がキリストやモハメッド、モーゼを生み出したと言っても過言じゃないと思う。

断っておくが彼らが実在したかどうかについて言及はしていない。実在であるかどうかは時代が生み出したという事実においてあまりにも希薄で意味がないとも思っているが…。

近年では『デスノート』が流行ったが、これも人間のその欲望を見事に描いた作品だという事であると思う。

しかし、幸か不幸か実際に悪人だけが滅びた歴史はない。
天災、人災を問わず、戦争、疫病、地震などは善悪の区別なく人を殺す。
選り好んでユダヤ人を殺害したヒットラーや、キリスト教以外を惨殺したジェノサイドにおいても、善人は救われ悪人が殺された訳ではない。

比較的この願望い近いのが法律であると思う。法律は秩序を守らせるという大事な役目を果たしているが、元々は悪を滅ぼしたいという人間の願望を叶えるという事が根源にあったから作られたのかもしれないと思う。

しかし残念な事に現行の法律にはあまりにも道徳がないのですっきりしない。それどころか、クレーマーやモンスターカスタマーを容認するような傲慢な個人の欲を認める間違った方向に進んでいる。
もし神というものが存在しているのであったのなら、なぜ悪人だけを殺さないのか。

善良な人間が病死や事故で死に、死んだ方が世の為だと思うような悪人が長生きのあげく苦しまずに穏やかな死を迎えたりもする。

世の中に死んだ方がよい人間などは存在しないかもしれないが、死んだ方が多くの人間が幸せになれるというような人間なら多く存在する。

他人を騙し、貶め、自由を奪い権力で押さえ付けるような人間は死んでもいいと思う。
ただ、そういう人間が死んだからといって良い世の中になるとは思わない。

なぜか人口比率で悪いヤツは必ず何%か出てくるようになっているような気がする。
そしたら常にその何%の人間を殺し続けなくてはいけない。
これを永遠と繰り返していけば最後は1人になってしまうかも。

この理論で考えると、神の裁きにより選ばれし人間だけが生き残ったとしても、その中で悪いヤツが何%か出てくるという事になるので、折角選抜して大量殺人したとしても全く意味がなくなる。

結局は、自分以外の全員を殺すという手段以外は、1人殺そうが10億人殺そうが、事態は一向に変化しないという事だ。

この正義感あふれる願望は、正義なんて単なる大義名分で単純に”自分に従わないヤツは殺したい願望がある”というだけなのかもしれない。

『最近の若者の考える事は分からん…』と、古代エジプトのパピルスに書かれていたそうだ。
時代が変化し、不安を感じているのは何も今の現代人だけではないという事だ。

不安だから新しいモノをバカにし、懐古主義に走り、理解できない新しい事をする人間を疎む。しかし時代は常に流れており、時代には時代のニーズがある。そしてそれは嫌でも変化するのだからあえてそれを追う必要もない。そのさらに先を見据える力があれば時代の変化にうろたえる必要がない。

世界の摂理や、物理現象を勉強する事は、自分の人生を考えるのに大事な事だと思う。

自分の一時的な感情、自分の存在などというモノがいかに小さいかを知り、その上で自分という存在は自分にとって無二の存在である事を再確認する事ができたら、驕りや自意識過剰から開放されるような気がする。

地球上で起こっているほとんど出来事は偶発的に起こっていると思う。仮に何からの必然があったとしてもその対象は偶発的に発生しており、自然現象には正義はない。

それを理不尽だと思うからこそ、人間はもっと大きな力を自分のモノに出来るのではないかと考えるのは自然だ。それが宗教だと思う。
任意の”存在する”という漠然としたエネルギー体に意思があるかどうか?
それが神の存在を表すような気がするのだが、 ただそれが即ち、神を崇めないと罰があたるという宗教観念になる意味は私には全く理解できない。 単に先人・先駆者に敬意を払えという事だろうが…。私には理解しにくい。

それは私が神という存在を敬えど恐れていないからだと思う。

本当にしなければいけない事は神の崇拝ではなく、神というモノの存在意義の勉強ではないのだろうか。 崇拝とは大衆の心を一つにさせる為にわざわざ後でとってつけた儀式ではないだろうか。一般市民の大衆コントロール儀式とでもいうべき行為だと考える。

崇拝する事で心が清められ、日常のつい行ってしまった悪事を許してもらえるというのが宗教だと思うのだが、許しを請う宗教というのは果たしてよい結果を生むのか非常に疑問だ。

罪は死ぬまで許されないからこそ、自分でどうすべきかを考えるのではないか?
敬い畏れるからこそ、強大などうしようもない運命から逃れる為に願いをかけて拝むのではないか。

日本人がよく考える“神の存在の証明”などは一切の意味を持たないとは私は理解しているのだが、科学的見地からアプローチした神の存在というモノには興味がある。

信仰心が厚い人間からしたら私の言動は不謹慎極まりないだろうが、私は自分自身の独自な方法で宗教を勉強していきたいと思っている。

神とは何ぞや?

その答えは、論理的なモノや科学的な証明ではない。
そもそも神を『目に見えない人間のような姿』に想像するからおかしな事になる。
その発想が一番原始的だ。オバケにしろ何にしろ、存在しない物の擬人化は幼稚な発想だと思う。

神は、無からの爆発される最初のエネルギーみたいなモノだとしたらどうだろう。そしてエネルギーみたいなモノには”意思みたいなモノ”があるとする。それは”人間の脳で考えるような次元の意思”とは違うもので、すべての規則が刻み込まれたようなモノなのかもしれないと思うのだが。

もしそういう事があったのなら、私はそれはが神というモノの正体ではないかと思う。

実際には存在するエネルギー自体ではなく、それを起こすキッカケみたいな変化が神と呼ばれるモノではないかと思っている。そうなのであれば、それは科学では解明されていない領域なので現時点で人間が神を科学を使って理解できる訳がないのだが、アプローチの方向が全然違うとは思っていない。
だから私は哲学より科学の方が神に近い気がする。

哲学では『神とは、全てであり無である。どこにでも存在し、どこにも存在していない。』
みたいに、普通に聴けば完全に詭弁、または冗談みたいな話しかできない…。

もし神が存在するとしたら、きっと神は全てを知っているが、何も知らないだろう。
全てを知っているから、何も考えないだろう。故に人間に審判を下したりしないだろう。
光臨したり、予言したり、いい方向に人類を導いたりしないだろう。
どんな結果も享受するのみだろうと思う。

どんな結果も享受するだけの存在は人間界では存在していないと言うのかも知れない。

だから私は人間を導く事ができるのは人間だけだと思っている。
ただ、良い方向に導く事が、常に正しい道ではないと思うので迷いがある。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

平等・平和は当たり前じゃない! 更新情報

平等・平和は当たり前じゃない!のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。