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OSHOの黄金の華の秘密を読むコミュの第11章-1 風景の焦点ゲシュタルトを変える

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第11章 風景の焦点ゲシュタルトを変える

========= 経文開始 ==========
呂祖師は言った。

観想なくしては何事も成しとげられない。
覚知することにより人は目標に到る。
内観によって反転させなければならないのは 自意識をもったこころである。
万物を形づくる精神が顕現してくる前の状態へと
それを導かなければならない。

昨今の人々はたった一時間か二時間坐って瞑目し、
ひたすら己の自我を見つめ、それを内観と呼んでいる。
そのようなやり方でどうして何かを得ることができるだろう?
人は鼻の頭を見るべきである。

だがこれは、みずからの思念を 鼻の頭に固定させるという意味ではない。
またこれは、目で鼻の頭を見つめながら思念を「中心の黄色」 に
集中させるという意味でもない。
視線が向かうところに、こころも向かうものである。
どうしてそれを 同時に上方と下方に向けることができるだろう?
こういったことはみな、月を指す指を月そのものと取り違えるようなものである。

では、これは実際には何を意味するのか?
「鼻の頭」という表現はよく考えて選ばれたものだ。
鼻は視線の目安とならなければならない。
鼻に視線を向けていない場合には、目を大きく開けて遠くを見ているため
鼻が見えないか、あるいは目を閉じ過ぎていて鼻が見えない。
目を大きく開け過ぎると、視線を外に向けるという誤りを犯し、
気が散りやすくなる。
目を閉じすぎると、視線を内に向けるという誤りを犯し、
夢を見るような空想の状態に沈みこんでしまう。

ただ瞼まぶたを適度に半分ほど閉じると、
ちょうどよい具合に鼻の頭が見えるようになる。
そのために鼻を目安にするのである。
大切なのは、瞼を適度に閉じて、意識を集中させて
光を流れ込ませようとするのではなく、
光が自然に流れ込むようにすることである。

鼻の頭を見ることは、ひとえに内なる集中をはじめる際に 役立つのであり、
そうすることで視線が正しい方向に向かい目安が定まれば、
後はそのまま放置すればよい。

これは大工が下げ振りをつるすにあたり、いったんそれをつるし終えると、
絶えずその糸を見ることにこだわらないようなものである。

両目で鼻の頭を見ながら、背筋を伸ばして楽な姿勢で坐り、
こころを諸条件の只なかにある中心にたもつ。
それは必ずしも頭の中心を指しているわけではない。
大切なのは、ただみずからの思念を両目の中間に定めることである。
そうすればすべては整う。
光ははなはだ動きやすい。 両目の中間に思念を定めると、
光は自然に流れ込んでくる。

注意をことさら中心の宮殿に向ける必要はない。
大切なことはこの数語に要約されている。
「諸条件の只なかにある中心」というのは、ひじょうに微妙な表現である。
中心は至るところにあり、いっさいのものがそのなかに含まれている。
それはあらゆる創造のプロセスが解き放たれる点と結びついている。
一点を見つめ観想することが不可欠である。

この技法はすみやかに光明を得ることを保障する。
世俗の想念が浮かびあがってきたなら、
そのままじっと坐りつづけてはいけない。
その想念はどこにあるのか、どこではじまり、どこへ消えてゆくのかを
調べなければならない。
内省をどこまで押し進めても何も得られない。

この想念がどこから生まれてきたかを見ることでよしとし、
その先を究めようとしてはならない。
こころを探し求めても、とらえることはできない
(意識によって意識の背後に達することはできない)からだ。

人はみなこころを落ち着かせようとする。
これが正しい観想である。
これと矛盾するのは誤った観想であり、何も得るところがない。
雑念が果てしなくつづいてゆくときには、
立ち止まり、観想をはじめなければならない。

観想したら、再び見つめる。
これがすみやかに光明を得るための二重の技法、
つまり光を巡らせることである。
巡らせるとは見つめることであり、光とは観想のことである。
観想せずに見つめるのは光のない循環であり、
見つめずに観想するのは循環のない光である。

これに注意しなければならない!

========= 経文終了 ==========

コメント(10)

盲人が友達の家を訪ねた。
彼が帰宅する頃には暗くなっていたので、友人たちは提灯ちょうちんを手渡した。
「ありがとう。でも、いらないよ。
 明るくても暗くても、私にとっては変わりないからね」
「まあ、とにかくもっていけよ。そうすれば人がぶつかってこないだろう」
彼が家を出ると、すぐに誰かがぶつかってきて、怒鳴った。
「どうして前をちゃんと見ていないんだ」
「君こそ、この提灯が見えないのか?」
「あいにくだがね」と相手は言った。
「蝋燭ろうそくが消えてしまってるぜ」

瞑想というものを知らない人々が手にする聖典は、
盲人が手にする提灯のようなものであり、まったく役に立たない。
そして盲人には提灯の明かりがついているか消えているかどうかもわからない。
彼はたんにいらぬ重荷を持ち歩いているだけだ。
実のところ、何の役にも立たないどころか、むしろ邪魔になりかねない。
提灯をもたずに歩いていたら、盲人はもっと注意深く用心していただろう。
提灯をもったばかりに、目があるつもりになって歩き、
注意力がすっかり散漫になっていたにちがいない。

人類全体に起こっていることはまさにそれだ。
人々は『聖書』『コーラン』『ギータ』をもち歩いている。
それらの聖典はこのうえもなく美しい光を放つランプだ。
が、あなたの目は見えない。

『ギータ』は五千年も前のものであり、光はとうの昔に消えている。
クリシュナの死とともに、光は消えた。
『聖書』や『コーラン』、その他の世界中のあらゆる聖典の場合も同じだ。
師(マスター)が死ぬと、光も消える。

だが人々は聖典を手放そうとはしない
--- 聖典を信じ込み、偉大な師のメッセージを伝えているのだから、
自分たちの生はいつまでも光に満たされてゆくと期待している。
そのメッセージはただの言葉にすぎない。
それは不用な重荷だ。

世にある聖典がすべて消えてしまったら、
人間はもっと用心深くなり、もっと気を引き締めて、
自力で光の源を探しはじめるかもしれない。
頼れるものが何もないので、自分の足で立つことを学ばなければならない。

あるとき龍潭(りゅうたん)のもとを徳山がとくざんが訪ね、
夜ふけまで教えを請いつづけた。
とうとう龍潭は言った。
「夜もふけてきた。そろそろもどりなさい」
徳山はいとまを告げると、襖ふすまを開けて出ていった。
外があまりに暗かったので、徳山は引き返してきて言った。
「外は真っ暗です」

そこで龍潭は提灯(ちょうちん)に火をともし、それを徳山に差し出した。
徳山がそれを受け取ろうとしたまさにそのとき、
龍潭は不意にそれを吹き消した。
この瞬間、徳山は忽然と目覚め、礼拝した。

龍潭は言った。「どのような真理を得たのか?」
徳山は言った。
「今日より後、祖師たちの言葉をけっして疑うことはありません」
翌日、龍潭は弟子たちの前に姿を現して言った。
「この会衆のなかに、剣でできた樹のような牙をもち、
 口を血だらけにして、棒で殴られても振り向こうとしない男がいる。
 やがてこの男は人里離れた山の上に、私の道を打ち立てるだろう」

徳山は、僧堂の前で経典の注釈書を取り出し、火をかざしながら言った。
「際限なくものごとを分析しつづけてゆくことは、
 虚空に一本の髪の毛を置くようなものであり、
 俗世の力は広大な谷間に一滴の水を投げ入れるようなものだ」

目がなければ、光ですら役に立たない。
あなたが手にしている提灯は無用の長物であり、
まったく何の役にも立たない。
だが目があれば、
蝋燭ろうそくを吹き消すことですら悟りの体験になりうる。
問題なのは目だ。
龍潭のもとを徳山が訪ねた。
龍潭は師であり、徳山は弟子だ。
外が真っ暗なのを見て、弟子は師に言った。
「真っ暗です」
師は蝋燭に火をともすと、それを弟子に差し出した。
弟子が受け取ろうとしたそのとき、師は火を吹き消した。
突然、闇がもどってきた。
闇は一段と深さを増した。

不意に蝋燭を吹き消されたことが、予期せぬ一撃になったにちがいない。
しばらくのあいだ、弟子は二つの思考のはざまに落ちていったにちがいない。
しばらくのあいだ、思考が消え失せ、観想が起こった。
しばらくのあいだ、完全な沈黙があった。
その沈黙のなかで彼は大切なことをつかむことができた。

翌日、彼はもっていた経典をすべて燃やしてしまった。
もはやそれらは必要ではなかった。
彼はみずからの体験を通して真理を知ったからだ。

ごくわずかの体験でも、山のような知識よりも価値がある。
太陽や月やすべての星々よりも、
たった二つの小さな目のほうが価値がある。
大切なのは、宗教とは体験であるということだ。
それは推測ではない。絶え間ない分析ではない。
それは洞察だ。

さて、経文だ。
これらの経文にはここのうえもない価値がある。
なぜなら、それは最も簡潔な表現で手法を授けているからだ。
あなたが複雑なものにしようとしないかぎり、この手法は実に単純だ。

こころマインドはいつも単純なものごとを複雑なものに変えてしまう。
それに気をつけなさい。
なぜなら、心は単純なものとは共存できないからだ。
それは必要とされない。もしものごとがごく単純であれば、
心の出る幕はない。
ものごとが複雑であってはじめて心が必要になってくる。

そうなったら、あなたは心に頼らざるをえなくなる。
心が謎を解く道を見いだしてくれるからだ。
だが、謎がなければ、心はまったく無用だ。
あなたは心を捨てることができる。
だから、心はものごとを複雑にしてしまう。

これらの経文は実に単純であることを覚えておきなさい。
真理はつねに単純だ、まったく単純だ。


本呂祖師は言った。
本観想なくしては何事も成しとげられない。


観想とは何か? 無思考の瞬間だ。
「観想(contemplation)」という言葉には、
ディヤーナの正しい意味が含まれていない。
英語には「ディヤーナ」という言葉に当たる適切な訳語がない。

使えそうな言葉が三つある。
ひとつは「集中concentration」だが、
この言葉はひどくかけ離れている。
集中とは努力、緊張を意味している。
それは強いられた状態であって、無碍むげ自在に流れている状態ではない。
ところが、ディヤーナとは無碍自在に流れている状態だ。
そこには緊張がない。
だから「集中」という言葉は訳語としてはふさわしくない。

次は「観想(contemplation)」という言葉だが、
観想には思考の含みがある。
誰かが観想していると言えば、何かについて考えているということになる。

三番目の言葉は「瞑想(meditation)」だが、これもやはり
考えること、何かについて瞑想することを意味する。
この三つの言葉にはどれもディヤーナの意味が含まれていない。

ディヤーナとは無思考の状態、沈黙の状態、
意識的でありながら中身がない状態を意味する。
鏡がそこにあるが、何も映し出していない、
まったく何も映し出していない。
ちょうどその鏡のように、意識がそこにあるが、
何もそれをふさいでいない。
その何も占められていない醒めた意識がディヤーナだ。
道家の人々は「ディヤーナ」の訳語として「観想」を使っている。
いずれにせよ何らかの言葉を使わざるをえないからだ。
だから、その意味を覚えておきなさい。
---それは辞書に記された意味ではない。
辞書を調べるとまったく違った観想の概念---
『黄金の華の秘密』が「誤った観想」と呼んでいるものが載っている。

「誤った観想」とは、何かについて考えることだ。
それは神かもしれない
---キリスト教徒が「観想(黙想)」という言葉で言おうとしているのはそれだ
---神について考えること、聖なるもの、超越的なものについて考えること。

だが も の は も の であり、神聖なものであろうが、
世俗的なものであろうが違いはない。
思考は思考であり、セックスについて考えようと、
サマーディについて考えようと違いはない。

無思考の状態、間合い……
それはいつも起こっているのだが、あなたは注意深く醒めていない。
醒めていたら何も問題はない。

ひとつの思考がやって来る。

続いて別の思考がやって来る。

この二つの思考のはざまにはいつも小さなギャップすきまがある。
そのすきまが聖なるものへの扉だ。
そのすきまが観想だ。
そのすきまを深くのぞき込めば、それはどんどん大きくなってゆく。

心マインドは交通の激しい道路のようだ。
車が次から次へと通り過ぎてゆく。
車に目を奪われるあまり、二台の車のあいだに必ずあるすきまが見えない。

すきまがなければ車は衝突してしまう。
衝突しないのは、車と車のあいだにすきまがあるからだ。

あなたの思考は衝突しない。
互いにぶつかったり、相手を轢きつぶしたりはしない。
互いに重なり合うことすらない。
どの思考にも境目がある。
どの思考も区切ることができる。
だが、思考の進行があまりにすばやく速いので、
本当にそれを待ち受け、見つけようとしないかぎり、
あなたはすきまを見ることができない。

観想とは見ている風景の焦点をそっくり変えることだ。

ふだん私たちは思考を見ている。
思考が次から次へと現れる。

風景の焦点を変えると、すきまが次から次へと現れる。

あなたはもはや思考ではなくすきまを重視している。

例えば、あなたがたはここに坐っている。
私があなたがたを見る方法は二つある。

ひとりひとりを順番に見てゆくやり方と・・・
---人に目をやれば、私は人数を数えることができる---
それと、 人のことは忘れ、人と人のあいだにあるすきまを勘定し、
すきまがいくつあるかを数えるやり方だ。

そうすればものの見え方がひっくり返る。
すきまを数えたら驚くようなことが起こる。
すきまを見つめ、すきまを数えているために、
人の輪郭がぼやけ、はっきり見えなくなってゆく。

いつか道端に立って、通り過ぎてゆくすきまを数えてみるといい。
あなたは驚くだろう
---車の色は目に入らない、車の型は目に入らない、
車の運転手や乗客は目に入らない。
目に飛び込んでくるのはすきまだ。
---ひとつのすきまが過ぎ去ると、次のすきまがやって来る。
あなたはすきまを数えつづける。
風景の焦点は変化している。

観想とは見ている風景の焦点を変えることだ。
ひとつの思考から別の思考へと飛び移るのではなく、
ひとつのすきまから次のすきまへと飛び移ってゆく。

徐々に徐々に、すきまへの気づきが増してゆく。

それは生の最大の秘密のひとつだ。

なぜなら、そのすきまを通して、あなたはみずからの実存へ、
みずからの中心へと落ちてゆくからだ。


本観想なくしては何事も成しとげられない。
本覚知することにより人は目標に到る。


覚知すること、ただ覚知すること・・・
それはインドでは「ダルシャン」と呼ばれている。
見ることにより、人はどこにも出かけることなく目標に到る。
どこにも出かける必要はない。

ただ見ればいい。

ひとたび間隙(かんげき)を、すきまをのぞきはじめたら、
あなたは自分が誰であるのかを見ることができるようになる。

そしてあなたは目的地だ。
あなたは出発点であり目的地、始まりであり終わり、
アルファでありオメガだ。

渇望していたすべてのものがすでにあなたのなかにある。
欲しがっていたすべてのものがすでにあなたのなかにある。
欲しがっていたすべてのものをあなたはもっている。

乞食でいる必要はない。
すきまを見ることを選べば帝王になり、
思考を見つづけていたら乞食のままでいるしかない。


本覚知することにより人は目標に到る。


自分自身から一歩たりとも踏み出してはならない。
神はすでにあなたのなかにいるからだ。
神は既成の事実だからだ。
それはあなたの内奥にある中核だ。
神は天上に、空のどこかにいるわけではない。
神はあなたの内側に、もはや思考によってかき乱されないところにいる。

沈黙がみなぎり、何ひとつ映し出していない、
中身のない意識があるところに。

そのとき、あなたは自分自身の味をはじめて体験し、
みずからの実存のかぐわしい香りに包まれる。
黄金の華が開く。


本内観によって反転させなければならないのは自意識 をもったこころである。
本万物を形づくる精神が顕現してくる前の状態へと、
本それを導かなければならない。


思考は顕れたものであり、無思考は顕れていないものだ。
自分が見ている風景が思考だけで成り立っているとしたら、
エゴ(自我)以上のものは何もわからないだろう。
自我は「自意識をもったこころ」と呼ばれている。

あなたは思考のかたまり以外の何ものでもない。
その思考のかたまりのせいで、
あなたは「私はある」という自意識をもつようになる。
近代西洋哲学の父であるデカルトは「我思うゆえに我在り」と言う。
彼は瞑想者ではないから、まったく別のことを言おうとしているのだが、
その言明そのものは美しい
---まったく異なる文脈のなかに置くなら美しい。

私はそれに別の意味を与える。
そう、私は私が考えるときにのみ存在する。
思考が消えれば、私も消え失せる。

「我思うゆえに我在り」---この私の感覚、
この「自意識をもったこころ」とは連続する思考に他ならない。
それは本当は実体がなく、偽物であり、幻覚だ。

手に松明(たいまつ)をもってぐるぐるまわしてゆくと、
現実にはない火の輪が見える。
だが、松明の動きがすばやいために、まぼろしの火の輪が生み出されている。
それは火の輪の幻覚を生じさせる。
それはそこにはない。

思考の動きがあまりに速いので、私という観念がつくりだされる。

呂祖は言う
---人は「自意識をもったこころ」から
"自意識をもたないこころ"へと移らなければならない、と。

人は自我から無我の状態へと移らなければならない。
人は自己から無自己へと移らなければならない。
自己は顕現している部分であり、
ちっぽけで、ひじょうに小さく、粗雑だ。

無我は顕現していない部分であり、
果てしがなく、永遠だ。

自己はつかのまの現象であり、
いつか生まれて、いつか死ななければならない。

無我---仏陀は「アナッター」、無自己と呼んでいる---
は永遠の一部であり、生まれることもなく、死ぬこともない。
それはいつまでもとどまる。


本六尺の身体の内に、天地が未だ現れる前にあった形を求め、
本努力しなければならない。


そしてあなたの六尺の身体のなかでは、
その本質が、天地がつくられる前からあったその本質が、
今もなお息づき、鼓動している。

禅の人々はそれを「本来の面目」と呼んでいる
---天も地も、何ひとつ生まれず、いっさいのものが姿を現さず、
沈黙だけがそこにあり、物音ひとつ立たなかったとき・・・
形がなく、すべて無相であり、あらゆるものが種子の状態であったときに
そこにあったもの。

その本来の静寂があなたの内側にある。

ヒンドゥー教徒はそれを「アナハトナッド」と呼ぶ。
仏教徒たちは「隻手(せきしゅ)の音声(おんじょう)」
という特有の表現をする。

それはあなたの内側にある。
それはあなたの真の姿だ。
それを味わえば、あなたは不死になる。
それを味わえば、あなたは黄金になる。
そうなったら塵ちりは変容して神々しいものになる。

錬金術はみな、卑金属を黄金に変容させることを目指している。
本昨今の人々はたった一時間か二時間坐って瞑目し、
本ひたすら己の自我を見つめ、それを内観と呼んでいる。
本そのようなやり方でどうして何かを得ることができるだろう?


坐って瞑想しながら、自分の自我エゴを見つめてばかりいる
といったことにもなりかねない。
人々が「観想」と呼んでいるものはそれだ。
彼らは自分たちの思考を見つめているが、
見ている風景の焦点を変えてはいない。

彼らにそれしか起こらないのは、ふだんは実にたくさんのことに
心を奪われているので、思考を見つめることができないからだ。
瞑想のために特別に坐ると、しばしのあいだ世間を忘れ、
思考がふだんよりも鮮明になり、思考に対してより敏感になる。
これは哲学者の心境だ。哲学者はそのようにして考え、推測し、
哲学を組み立ててきた。
これは真の観想ではない。

そしてこのようなやり方では、自我を超え、死を超え、
時間を超えてゆくことなどできるはずがない。
だが、人間の目的はまさに超越にある。

くり返そう。瞑想をしたければ、
見ている風景の焦点を変えなければならない。
目を閉じて自我を見つめているだけでは役に立たない。

イギリスの偉大な哲学者、デービッド・ヒュームは書いている。
「偉大な教師マスターたちがそろって口にする
 『汝自身を知れ、瞑想をせよ』という金言や助言を
 何度も何度も聞いたり読んだりしたので、私も瞑想をやってみた。
 だが、内側には思考、記憶、空想、夢しかなかった。
 他には何も見つからなかった」

彼がそう言うのももっともだ。
彼は瞑想が何であるかを知らないからだ。
彼は哲学者、世界でもっとも才能ある哲学者のひとりだ。
その論理は実に鋭く、首尾一貫している。
が、彼は瞑想者ではなく、たんなる哲学者にすぎない。
その言葉通り、彼はやってみたにちがいない。
彼は内側をさまよっているたくさんの思考に出くわしたにちがいない。
そこで彼は言う。
「自己もなく、静寂もなく、神も存在していない。
 こんなことをしても虚しいだけだ」

彼は取り逃がした。まず見ている風景の焦点を変えねばならない
ということに気づいていなかったからだ。
思考を見つめる必要はない。

すきまを求め、すきまをのぞき込まなければならない。
すきまを探し、そのすきまのなかに飛び込まなければならない。
すきまに飛び込んでいたなら、
彼は思考が消え、夢が消え、記憶が消えてゆくのを見ただろう。

あらゆるものが置き去りにされ、
しだいにそれは遥か遠くに聞こえる物音になってゆく。
そしてある瞬間がやって来る・・・
それがすっかり消え失せると、あなたは超越している。
あなたは向こう岸に到達している。
======================================================================
本文はここまでです。
以下に、感想・ご意見・質問等をコメントとして書き込めます。
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======================================================================
この章でOSHOは、技法を実践する上でのポイントを、
具体的に丁寧に説明をしています。

これ以前の章がわかりにくかったとしても、この章を読めば、
あぁそういうことだったのか、という思いをすると思います。わーい(嬉しい顔)
すきまを見る目
思考と思考のあいだの、すきまを見る。
これが瞑想の第一歩だわさ湯のみ

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