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魔術的実存主義革命コミュの●一枚の手紙が、一切れの言葉が、一粒の声が生きる炎となって駆けめぐるのだ!!

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 私は、かつて職場の帰りに、終電車の中で激痛に見舞われた。若くして下血のため、長らく

入院を余儀なくされたが、それは、生きられないことを意味してはいない。生きようとしないこ

とと、生きられないことをはき違える者は実に多い。無駄に生きることは、酷く己を疲れさせる

ものだ。どのような惨めな状況にあっても、創造し、愛し、己に挑むことを私はやめない。五

十六歳で生涯を終えた、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、体調の悪化、恋愛事件を経

て集大成の『交響曲第9番』を残している。終末観のない者は、創造する者を狂人扱いするの

だ。常識や理屈、理屈に囚われて、賢そうなそぶりを見せている内は感動など他人に及ぼす

ことはないのだ。出逢いを人間に限る生き方は、恋愛に終始し、真に深い性欲に振り乱され、

充たされることはない。激しいエクスタシー、快楽は、老いて、死を前にするほどに、奮い立

ち、上品ぶった、偉そうな盲人どもを怯(おび)えさせるのだ。死に怯える暇など私や創造的

な人間にあっては、皆無だ。死はどこに出もあるのだ。この瞬間に出逢いが消えていくのだ。

それは、新たな創造でもあるのだ。死を前に創造することは、想うことは誰にでもできる。そ

れは、己の宇宙に出逢うことだ。出逢いがないのではない、創造するのだ。不様であって何

が悪い!!本物に出逢うために不様であることは、重要な履歴となる。不様のない人間は、

まだ、本当の美しいものを手にすることがない。私をほくそ笑んでいる利口な文明人は、己の

弱さに樹がそよいだだけでびくつくのだ。他人の好みや機嫌に合わせて食べたり、寝たりす

ることしかできないのだ。それは、感情を持つことがないのだ。不様で有れば有るほど個性

が輝くものなのだ。常識的であるほど己の個性を殺してしまうのだ。これからの経済などと

言っている内は、金持ちや泥棒になって人に愛想良く裏切られることしかできない。金では、

友をつくれない。情けない生き方を私は、好まないだけだ。健康的な生き方は、金ではできな

いのだ。私は言っておく、いくら金があっても魅力のある人間には、なれない。文明から孤立

した人間だけが、他人を感動でつつむ魔力に満ちあふれるのだ。少数であることは、正しい。

金に寄りつく人間が美しいのを私は見たことがない。せわしく、飯とセックスと旅行と会議と家

探し、仕事の処理に贅沢だと言えるかどうか疑問である。己を遙か先の予定表に記して生涯

他人の都合に合わせて生きていくのだ。私には、想像も付かない退屈である。私や創造的な

人間は、寝たきりの状態であっても宇宙を生きることに夢中でいられるのだ。実に素敵な一

瞬だ。自分の好きなときに本が読め、ものが書けて、考えることができる。私には、目標など

と言ったたいそうなものは邪魔でしかない。貴重な時間を目標や予定の計算のためにもたも

た、している暇はないのだ。己を旅しないのなら、さっさと、どいとくれ。私には、ぐずぐず考え

たり、悩んだりする暇はないのだ。本当に生きたかったら、この集団ゲーム(己の時間を狩る

ことを意味する)から抜けなくてはならない。私は、言っておく病院ほど退屈なところはな

い!!本だってろくに読めやしない。地獄だ!!

 野蛮で結構、私は、どのような人間よりも、野蛮なのだ!!尻を小さくして、おずおずと他人

の前で様子を窺うモグラではないのだ。そういう生き方は、私には似合わない。生まれて来て

12年経たない間に、すっかり加工され、どこに行っても、礼儀をわきまえた気前の良い老人

めいた者があふれかえっているのだ。果てしない競争の末に、老人めきながら悟った表情を

した若者が中学、高校、大学へと上がっていくのだ。大学生は、輝きと希望に満ちた表情で、

卒業とともに平凡なサラリーマン、主婦になりきってしまう。彼らは、輝こうともしないで、会社

や家の中でごく普通の暮らしに満足してしまうのだ。かつては、音楽家や、文人にあこがれて

ギターを弾き街で歌ったり、小説を書いたりした青春の輝きは忘れられてしまっている。清潔

で整った振る舞いがそこにあるだけだ。隣の彼や彼女も、海の向こうの彼や彼女も、全く同じ

顔つきで過ごすのである。そこには、ときめく程のものは、毎年ある一定の周期で廻ってくる

惑星に似て予測できてしまう程度のものでしかない。そこに、現代の、現在の、今の文明の

悲劇があるのだ。そこにあって、私のような生き方のできる者は、恐れられられるか、変人扱

いされるだけだ。私が彼らには、分からないことを言い始めると彼らは途端に怪訝(けげん)

そうな顔つきで引き下がろうとする。彼らは、分かるものにしか反応を示さなくなっているの

だ。12才の少年少女もそのことをわきまえている。そこには、分かり切った出来事しか起こり

えないのだ。そして、それは未来ない若者や老人を12才の子どもたちに嫌でも見せつけるの

だ。私だけは、野蛮であり、強靱であり続けるのだ。私は、一切の予測できる計算された誤魔

化しのお膳立てを拒否する。そんなものは、私を感動させることはない。気になったものがあ

れば、直ぐにでも始めることができる。人前でキスのできない老人は生きながらにして無表

情である。人前であろうがどこであろうが、深く抱くことのできない没個性を私には、準備体操

で走らず終いのマラソンランナーを思わせる。テレビで野球や相撲、サッカーなどに一喜一

憂し、結果が分かると気力を何処かに於いてくることなどちゃんちゃら可笑しい。自分が全力

で駆け抜けることのない文明人の言う「進化」や「進歩」とは、こういう天気予報の明日は晴れ

か、今日は曇りかをしらべる程度の、観測可能な範囲の、物理的な目に見える余興に限られ

ている。創造性の欠片(かけら)も失ってしまい家庭や社会のことに退職までそれとなく予測

されたプランをこなしていくだけの生き方だ。今では、どこへ行っても、トイレに行くことです

ら、時間道理運ばれる始末だ。私は、好きな時にパンツをずらし、用を足すことができる。一

から十まで計算された人間は、びくつきながら時間が来ても行くことはない。自然の中で生き

ている野生の犬、猫、モグラに至まで獅子のそれと変わることなく威勢良く小便をすることが

できる。文化人は、先ずそんなことのできない連中ばかりだ。変わったことのできる人間は、

中世の封建社会にあっても希であったのだ。形式と格式張った生き方は、雄大な万葉の精

神を生きることもない。枠の中に生きる限り、それ相応の生き方を強いられるしかないことに

文明人は開き直っているのだ。勢いよく己を突き進む原野の精神、そんなものは、二千年も

昔に忘れてきてしまったのだ。好きも嫌いも言えない人間は、萎縮してしまい。他人の言うこ

とにそれとなく従ってみるだけで、創造なんてものはないのだ。野蛮たれ!!これからの創

造的な生き方のできる者は、野蛮でなくてはいけない。野蛮たり得ない人間は、他人を傷つ

け、自分の利欲を貪るために他人を騙し、悪びれる顔も見せない、無神経で、無感動そのも

のの悪霊に成りはててしまうのだ。野蛮な人間は、他人を勇気づけ、全身を自信に満ちあふ

れた、個性豊かな痛みの分かる自然な人間味を甦らせることができるのだ。私が書くもの

は、予測できるものではない。予測しようものなら、忽ち巨大な宇宙の果てに投げ飛ばされ、

ひとり彷徨(さまよう)うことになるのだ。私の書くものに耳を傾ける者は、自然の活き活きとし

た精神を取り戻すことができるのだ。私は、野蛮であることを自在に生きた自然人として復活

することができる。それは、あらゆる、宗教、芸術、集団の形式にとらわれることなく、自然の

生き方を創造するからだ。私の個性は、自然そのものだ。それは、毎日決まった本物に似せ

られたビニール製の木目のテーブルやビニール容器に入った弁当、ビニール製のソファー

やコピーされた車や色の付いた食べ物に安心していられる、規律正しい集団にへばりつい

た、まともな人間には理解されるることはない。自然の生き方を忘れた隠者も実に枠には

まってステロタイプなイベントを開いては、安穏としている。己ひとりで豁然(かつぜん)として

激流を遡(さかのぼ)る鮭(しゃけ)の荒々しさも、虎の自在の駆けまわる清々(すがすが)しさ

もそこにはない。他人のことを気にして生きたところで、己からは自然の野菜や果物が放つ

酸いも、甘みも、辛みも、渋みも滲み出ることはない。上質な個性は、質では量れない。その

ものの味は、荒い表現となって生きられない限り、何の魅力も持たない。そこら中に出回って

いる偽物の書物や食べ物、建物、次の瞬間には消えて、他のものに取って代わられてしまう

平凡な生き方でしかない。それは、反自然的な生き方を若者たちに強いり、老人たちを行動

のできない来生趣味の落ち着いた人間に仕立て上げるものだ。落ち着いているのではない、

気力がないのだ。大人しいのではない、無感動なのだ。ゲーテは、七十歳を過ぎてから六十

歳も年の離れた17歳の娘と熱烈な恋をごく当たり前に行っている。自然な生き方のできる者

にとって老いは、言い訳に過ぎないことが分かる。癌に冒された手塚治虫は、それしきのこと

で落ち着きはしない。ますます、創造的であり、『ネオファウスト』を生前の『日本発狂』で完結

させている。『日本発狂』は、『火の鳥亡霊編』である。ゲーテのファウストに癌という病根をものともせず果敢に生き抜いた手塚治虫は、医者ではなく、ゲーテの精神によって癌に打ち

勝ったのだ。誰にも依らず自然と闘ったのだ。ゲーテも老いをものともせず恋に生き自然を

花開かせたのだ。17歳の娘は、ゲーテを激しく深くつつんだのだ。それは、荒々しき自然人

だ。理解ではなく行動が必要なのだ。それは、歓喜だ、全身の輝きによって若者や子どもた

ちの未来を勇気づける情熱の炎だ。私は、野蛮なる予言者だ。凡俗の内にあって、輝きを増

すばかりだ。私の言葉は、時空を超える。それは、特定の時間と空間の中にあってはっきり

と、己の宇宙を創造するのだ。それは、時空を飛び越えた不滅の炎だ。誰もが、その輝きを

私の言葉の内に取り戻すのを私は、疑わない。私は、すべての輝きを失った文明の無気力

と闘争するのだ。無気力は、愛を破壊する病根だ。私は、魔術的実存主義によって創造的人

間として永劫に生きるのだ。目覚めよ、踏み越えろ、立ち向かえ、此処が彼の世の果てだ。

此処に於いて、復活せねば永劫に後悔があるだけだ。私は、宇宙を創造するのだ!!

 真の美しさは、他人からは理解されない。そういった理解される程度の美は、永遠ではな

い。美しきものは、みなこの集団や時代といったものからは遙かにはみ出ているものだ。私

は、集団や組織による、宗教、芸術、文化人、社会、国家、民族、地域、政治、お祭り、伝統、

規則、掟(おきて)などに寄りかかってはいない。己が生きるのを他人に任せるロボットとは違

うのだ。それは、実に詰まらない生き方だ。私は、集団のお祭り騒ぎには興味がない。創造

的に生きたいものだ。

 私は言っておく、野蛮こそ創造だ。野蛮であって悪いことはないのだ。むしろ、平凡な没個

性の方を私は恐れる。それは、私を集団の一部にすり代えてしまうからだ。私に似た人間が

たくさん居てもらっては何の歓びがあろうか。並はずれた個性を見下してはならない。それ

は、私を活き活きとさせる炎だ。常識こそ恐るべき悪魔だ!!キリストやブッダ、マホメット、

プラトンに常識は通用しない。常識が戦争と独裁をやらかすのだ。教養が搾取を始めるの

だ。自然に戦争は、要らないことだ。自然を犯すのが侵略者だ。それは、計算高い文明という

悪魔の仕業だ!!野蛮な人間は、人のものに興味がない。キリストも、ブッダも、マホメット

も、プラトンも常識人からは野蛮にしか見えないのだ。彼らは、常識の恐ろしさ汚さ偽りを見

抜いている。野蛮さを失った利口で贅沢を好む清潔な都会人や文明人は、綺麗すぎて、さっ

ぱりしすぎるために、どこに行くかも案内板に従ってしか決められない。まともに己の宇宙を

見定めることがないのだ。私は、宇宙を見定めることができるが故に野蛮なのだ。それは、

自然人、万葉や集団宗教、国家や村社会以前の生々しい原根の生命力宿しているからだ。

それは、豊かな精神を創造するものだ。私は、私の言葉の力を無限大に深めることができる

希有な無名の者だ。在野の草と実る。太い根を育てるのだ。宇宙に根を下ろすことは文明や

集団に慣れきって甘える限りはできない。やってみたところで、直ぐにあきらめてしまうだけ

だ。私の言葉は、行動するものに生命を与えることができる。私は、彼らを、少数のものの内

にあって、逞しいものを愛し、讃えるものだ!!

 創造は、生命だ。一枚の手紙が、一切れの言葉が、一粒の声が生きる炎となって駆けめぐ

るのだ。目覚めよ。宇宙は、私以外から創造されることはない!!行動こそ荒ぶる生命

だ!!

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